第二十三話 忘れていなかった医者
院長室は静かだった。
大きな机。
壁には医学の賞状や表彰盾。
窓の外には銀座の街。
常田真一は椅子に座り
三人を見ていた。
机の上には
三十年前の手紙。
常田がゆっくり言った。
「御代田彦衛門」
少し懐かしそうな顔になる。
「まだ生きているとは」
李が言う。
「百二歳です」
常田は一瞬目を見開いた。
「百二」
そして小さく笑った。
「相変わらずだな」
湯沢が言う。
「先生…覚えているんですね」
常田は頷いた。
「もちろんだ」
そして言った。
「湯の沢村…忘れるはずがない」
箕輪が少し前に出た。
「この手紙」
常田が見る。
「ああ、書いた」
三十年前の文字。
常田は少し遠くを見るような目をした。
「若かった」
湯沢が言う。
「本気だったんですか」
常田はすぐに答えた。
「本気だった」
李が聞く。
「村に病院を作る」
常田は頷いた。
「そうだ」
少し間。
「今でも」
湯沢が少し驚く。
「今でも?」
常田はゆっくり言った。
「忘れていない」
院長室が静かになる。
箕輪が聞いた。
「では、なぜ来なかったんですか」
常田は苦笑した。
「簡単だ。金が足りなかった」
湯沢が言う。
「美容外科」
常田は頷いた。
「稼げる。だから選んだ」
李が静かに聞いている。
常田は続けた。
「最初は十年で戻るつもりだった」
「だが」
机を軽く叩く。
「気づいたらもう三十年だ」
湯沢が笑う。
「よくある話ですね」
常田も少し笑った。
「成功してしまった…いや…成功しすぎた。」
壁の賞状を見る。
テレビ出演。
学会。
著書。
銀座のクリニック。
都会の成功者。
李が静かに言った。
「先生」
常田が見る。
「はい」
李は言った。
「村は佐久野市と合併しましたが、今でもあります」
常田は少し笑う。
「当然だ」
李は続けた。
「泉も…温泉もそのままです」
常田の表情が変わった。
湯沢が言う。
「御代田の泉…高濃度水素」
常田が小さく頷く。
「やはりな」
李が言う。
「先生の言った通りでした」
常田は静かに聞いている。
李は続けた。
「私たちは」
「医療の村を作ろうと考えています」
常田の目が少し鋭くなる。
「医療?」
湯沢が言う。
「水と温泉」
「そして医療」
箕輪が言う。
「ワーケーションも」
常田は黙った。
三人を見る。
三十年前の自分と
同じことを言う若者たち。
そしてゆっくり言った。
「面白い」
湯沢が聞く。
「先生」
「戻りますか」
常田はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
銀座。
車。
ビル。
成功した人生。
そして机の上の手紙を見る。
三十年前の約束。
常田は小さくつぶやいた。
「遅すぎる」
李が言う。
「そんなことありません」
常田は顔を上げる。
李は静かに言った。
「御代田彦衛門は」
「百二歳で」
「まだ泉を守っています」
少し間。
「先生は六十八歳です」
常田は黙った。
そして
ふっと笑った。
「まだ若いか」
湯沢が笑った。
「医者なら」
「現役ですね」
常田は椅子にもたれた。
そして言った。
「だがな」
三人を見る。
「実は」
少し困ったような顔。
「今.少し問題がある」
湯沢が聞く。
「問題?」
常田は苦笑した。
「このクリニック」
少し間。
「そろそろ.売るかもしれない」
三人が驚く。
銀座の美容外科。
成功したクリニック。
それを
手放す。
常田は言った。
「理由は簡単だ」
机の上の手紙を見る。
三十年前の文字。
「やり残したことがある」
湯沢が言う。
「湯の沢村」
常田はゆっくり頷いた。
三十年前の約束が
いま
再び動き始めていた。




