表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/19

第15話 水を外に出すな

御代田彦衛門は、ゆっくりと立ち上がった。

しかし、すぐに歩き出すわけではなかった。

座敷の中央で止まり、李を見た。

そして静かに言った。

「だがな」

「一つだけ」

「覚えておけ」

李が顔を上げる。

彦衛門の目は、さっきまでよりも少し鋭かった。

「この村の水」

「外に出してはならん」

湯沢が眉をひそめる。

「外に?」

箕輪さやかが言う。

「祟りとか…」

山村にはよくある話だった。

山の神。

水の神。

触れてはいけない泉。

そういう伝承。

しかし彦衛門はすぐ首を振った。

「違う」

「そんな話じゃない」

湯沢が聞く。

「じゃあ何です」

彦衛門は少し間を置いた。

そして言った。

「水素だ」

三人が一瞬黙る。

李が聞き返した。

「水素?」

彦衛門は頷いた。

「この山の水には」

「高い濃度の水素が溶けている」

湯沢が驚く。

「溶存水素?」

箕輪も言う。

「そんな…」

彦衛門は肩をすくめた。

「わしは学者じゃない」

「だが」

「昔」

「大学の先生が来た」

李が身を乗り出す。

「いつですか」

「昭和の終わり頃だ」

彦衛門は答えた。

「温泉を調べに来た」

湯沢が言う。

「白樺の湯か」

彦衛門は頷く。

「そのとき」

「泉の水も調べた」

少し間。

「先生が言った」

「これは珍しい水だ」

箕輪が聞く。

「水素が多い?」

彦衛門は頷いた。

「そうだ」

そしてゆっくり言う。

「だがな」

「水素は」

「すぐ抜ける」

李が静かに言った。

「外に出すと」

彦衛門は指を立てた。

「そうだ」

「空気に触れれば」

「すぐ消える」

湯沢が腕を組む。

「じゃあ」

「ボトルに詰めても意味がない」

彦衛門ははっきり言った。

「ない」

短い言葉だった。

箕輪が言う。

「輸送している間に…」

「ただの水になる」

彦衛門は頷いた。

「そういうことだ」

李は黙っていた。

自分のビジネスの計画が

頭の中で静かに崩れていく。

彦衛門は続けた。

「温泉も同じだ」

湯沢が顔を上げる。

「白樺の湯も?」

「そうだ」

彦衛門は答えた。

「だから」

「源泉かけ流しなんだ」

箕輪が小さく言う。

「循環させない理由…」

彦衛門は頷く。

「溜めたら」

「水素が抜ける」

座敷の空気が静かになる。

李がゆっくり言った。

「つまり」

「この水は」

「ここでしか価値がない」

彦衛門は微笑んだ。

「そういうことだ」

そして言った。

「だから」

「外に出すな」

李が聞く。

「でも」

「村は」

「衰退しています」

彦衛門は静かに答えた。

「だからこそだ」

湯沢と箕輪が同時に見る。

彦衛門はゆっくり言った。

「水を外に出すな」

「人を呼べ」

李が息を止めた。

老人は続ける。

「温泉」

「湧き水」

「この山」

「全部ここにある」

そして李を見た。

「ここで使え」

「村の中でな」

湯沢が小さく笑った。

「観光か」

彦衛門は頷く。

「そうだ」

箕輪が言う。

「水を売るんじゃなくて」

「水を飲みに来てもらう」

彦衛門は言った。

「それが」

「この村の生き方だ」

長い沈黙。

李はゆっくりと窓の外を見た。

山。

森。

そしてこの村。

祖父が生まれたかもしれない場所。

やがて李は言った。

「泉を」

「見せてください」

彦衛門は頷いた。

「いいだろう」

百二歳の老人は

静かに立ち上がる。

「御代田の泉を」

「見に行くぞ」

その泉こそが

湯の沢村の未来を

大きく変える可能性を

秘めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ