第12話 御代田の当主
白樺の湯のロビーは、夜の静けさに包まれていた。
滋野カメ子の言葉の余韻が、まだ残っている。
「御代田家の当主は、私の父だけ」
「百二歳」
湯沢が小さく息を吐いた。
「百二か…」
箕輪さやかも驚いた顔をしている。
「すごいですね」
カメ子は肩をすくめた。
「もう村の生き字引よ」
そして静かに言った。
「名前は」
「御代田彦衛門」
李がゆっくりその名を繰り返した。
「彦衛門…」
カメ子は頷いた。
「あなたのお祖父さんの」
「従兄弟」
ロビーの空気が一瞬止まる。
湯沢が言った。
「じゃあ」
「李の祖父と同じ家系か」
カメ子は答える。
「そう」
「ただし」
「満蒙開拓団に行ったのは」
「あなたのお祖父さんの家」
李は黙って聞いていた。
カメ子が続ける。
「父は」
「残った側」
「でも」
「従兄弟が満州に行ったこと」
「ずっと覚えていた」
箕輪が小さく言った。
「消息は…」
「長い間わからなかった」
カメ子は頷いた。
「戦争が終わってから」
「誰も帰らなかった」
そして李を見る。
「だから」
「あなたの話を聞いたとき」
少し微笑んだ。
「もしかして」
「って思ったのよ」
李は静かに言った。
「祖父は」
「日本のことを」
「ほとんど話しませんでした」
湯沢が言う。
「覚えてなかった?」
李は首を振る。
「いいえ」
「覚えていたと思います」
少し間を置く。
「でも」
「話さなかった」
ロビーが静まり返る。
カメ子が言った。
「父なら」
「知っているかもしれない」
李が顔を上げる。
「祖父のことを?」
「ええ」
カメ子は頷いた。
「満州に行った従兄弟」
「名前も覚えてるはず」
湯沢が聞く。
「その人」
「今どこに住んでる」
カメ子は答えた。
「御代田の本家」
「村の上の方」
箕輪が言う。
「山の集落ですね」
カメ子は頷いた。
「古い家よ」
「もう」
「ほとんど人も来ない」
李は静かに聞いた。
「会えますか」
カメ子は少し考えた。
そして言った。
「父は」
「耳は遠いけど」
「頭ははっきりしてる」
少し笑う。
「百二歳だけどね」
湯沢が立ち上がった。
「行くか」
箕輪も立ち上がる。
「今から?」
カメ子は首を振った。
「夜だから」
「明日にしましょう」
そして李を見た。
「きっと喜ぶ」
李が聞く。
「なぜですか」
カメ子は答えた。
「帰ってきたから」
静かな声だった。
「御代田の血が」
外では
湯の沢村の夜が広がっていた。
山の闇。
遠くで流れる沢の音。
その山の上に
百年以上続く
御代田家の古い家がある。
そこに住むのは
村で最も古い記憶を持つ男。
御代田彦衛門
百二歳。
そして翌日、
李はついに
祖父のルーツへと続く扉を
開くことになる。




