第10話 所沢の校庭
白樺の湯のロビーには、暖房の低い音が流れていた。
湯沢は腕を組んで李を見ている。
「地下水」
「それが目的ですか」
李はすぐには答えなかった。
少し考えるようにロビーを見回す。
そして、ふと湯沢に視線を戻した。
「湯沢さん」
「はい」
「あなた出身は埼玉ですよね」
湯沢は頷いた。
「所沢」
李は静かに言った。
「所沢市」
「北秋津」
湯沢の顔が止まった。
「……なんで知ってる」
李は椅子に腰を下ろした。
「覚えていませんか」
「小学校」
湯沢は眉をひそめた。
「小学校?」
李は言った。
「所沢市立北秋津小学校」
ロビーの空気が少し変わる。
湯沢が言った。
「そこは」
「俺の母校だ」
李は頷いた。
「私も」
湯沢は思わず言った。
「は?」
李は続ける。
「一年だけ」
「通いました」
湯沢は固まった。
箕輪も驚いている。
「所沢?」
李は頷いた。
「はい」
「あなた」
「六年生」
「児童会長」
湯沢は完全に止まった。
「……ちょっと待て」
李は続ける。
「私は」
「三年生」
「転入」
ロビーに沈黙が落ちる。
湯沢は記憶を必死に探した。
だが思い出せない。
「転校生?」
李は微笑んだ。
「そうです」
そのときだった。
箕輪が小さく言った。
「私も」
二人が同時に振り向く。
湯沢が言った。
「え?」
箕輪はゆっくり言った。
「私もその学校です」
湯沢は驚いた。
「所沢?」
箕輪は頷く。
「一年生」
「その年だけ」
湯沢は頭を抱えた。
「待て」
「整理させろ」
指を折る。
「俺」
「六年」
「児童会長」
李が言う。
「三年」
箕輪が言う。
「一年」
三人とも
同じ学校。
同じ年。
同じ校舎。
ロビーが静かになる。
湯沢が言った。
「そんな偶然あるか」
李は少し笑った。
「偶然かどうか」
「分かりません」
箕輪が言う。
「でも」
「私」
「なんとなく覚えてます」
湯沢が振り向く。
「何を」
箕輪は李を見た。
「転校生」
李が少し驚いた顔をする。
箕輪は言った。
「御代田って」
「聞いた気がする」
李は静かに頷いた。
「私の祖父です」
湯沢が聞いた。
「祖父?」
李はゆっくり言った。
「中国残留日本人孤児」
ロビーの空気が変わる。
李は続ける。
「祖父は」
「戦争のあと」
「中国に残されました」
「自分の家族を」
「ずっと探していた」
湯沢は黙って聞く。
李は言った。
「祖父が覚えていた」
「日本の名字」
少し間。
「御代田」
箕輪が小さく言う。
「この村の名字」
李は頷いた。
「はい」
湯沢は息を吐いた。
「じゃあ」
「その調査で」
李は答える。
「父が日本に来ました」
「祖父の戸籍を探すため」
「そのとき」
少し笑う。
「私は」
「小学校に」
箕輪が言った。
「私も」
「父の仕事の都合で」
「所沢に一年」
湯沢は天井を見た。
「信じられないな」
同じ学校。
同じ年。
六年、三年、一年。
あの校庭で
三人は確かに
同じ時間を過ごしていた。
李が静かに言った。
「運動会」
湯沢が言う。
「……全校リレー?」
李は頷いた。
「あなた」
「アンカー」
箕輪が笑う。
「有名でした」
湯沢は苦笑した。
「そんなの覚えてるのか」
李は遠くを見るように言った。
「祖父も」
「見ていました」
沈黙。
李は続ける。
「祖父は」
「日本の子供たちを見て」
少し間。
「嬉しそうでした」
湯沢は何も言えなかった。
李は静かに言う。
「そのあと」
「祖父は亡くなりました」
「でも」
「最後まで」
「日本の家族を探していた」
ロビーが静かになる。
湯沢は李を見た。
この男は
温泉を買いに来た投資家。
だが同時に
日本を探していた祖父の
孫でもある。
そして三人は
ずっと昔
所沢の校庭で
同じ時間を過ごしていたのだった。




