トラウマ
――――話は10年前まで遡る。
部屋で寝ていたはずの高山超新星が目を覚ますと、そこは不思議な空間だった。壁に描かれた絵だと思った雲が風に流されるように動き、夢にしては随分リアルだと驚きながら辺りを見渡すと、書類が山積みにされたデスクが目に入った。
「夢……だよな? ここまで思い通りに体を動かせるとは、噂に聞く明晰夢ってやつか」
ほんの少し動くだけで息切れするはずの体が、跳んだり軽くダッシュしても全く苦しくならないことに、高山超新星は久しぶりに気分が高揚した。3桁に及ぶ採用面接で受けたトラウマのせいで、夢を見る時はすべて名前をこき下ろされる悪夢だった。だからこそ、そうでないだけでテンションが跳ね上がったのだろう。床の縁に立ち、眼下の雲を見下ろす。
「自由にできる夢だって言うなら、この雲の合間を飛び回れるのかね……いや、この場で浮かぼうと思ってるのに浮かべないし、そこまで融通は利かないか」
縁に腰を掛け、ゆったりと流れる雲を見つめる。
高山超新星が自室に引きこもってから20年以上、3日に1回は悪夢にうなされるのが日常だった。それもこれも全部、就職活動で受けたトラウマのせいだ。少なくとも彼の中ではそれが真実であり、一時期通っていた精神科の医師もそれを保証した。
彼は就職活動はおろか大学生活でも一切気を緩めず、全力で走り切ったという自負がある。ネット黎明期で情報収集もままならなかった時代でも、四季報を使った業界分析、企業が求める人材像への自己のすり合わせetc……。それに並行して公務員試験の勉強もこなし、やるべきことはすべてやった。
強いて不足したところをあげるなら、どうしても入りたい業界への熱意は足りなかったかもしれないが、それを表に出すほど彼はバカではない。志望度の基準は年収のみ。それは母子家庭で育った彼が、自分の稼ぎで母親に楽をさせたいという恩返しから来るものだ。
能力があり、出世や報酬に対してストイックな彼は、どこの業界でも平均をはるかに超える成果を出せたはずだ。どこの企業からも引く手数多だったろう。そう、時代さえ違えば。
事実、SPIでは1度も落ちたことがなく、公務員の筆記試験も同様。面接さえなければ全滅どころか全合格もありえた。そして面接に落とされる理由も、彼の人格に問題があったわけではない。今やすっかり擦れてしまった姿からは想像できないほど、当時の彼はまともだった。
しかしどんなに推敲を重ねた履歴書でも、面接官が読んだのは最初の1行――つまり名前だけだった。
某大企業の面接官曰く、「こんな普通じゃない名前をつける親はまともじゃない。たとえ君がどれだけ素晴らしい人間でも、代わりはいくらでもいるのに、わざわざリスクがありそうな人間を取る理由がない」。
これが彼の記憶にある中で1番まともな面接官の言葉だ。中小企業ではさらにひどく、あからさまに嘲笑されたり、面接時間すべてを使って名前をいじられ続けることもあった。
政府から採用を絞るなと文句を言われるのが嫌で、誰ひとり採用する気のない空求人が横行した時代。やってる感だけ出せと言われた面接官たちは、会社のお墨付きで圧迫面接という名のストレス発散を許され、好き放題やった。特にT大生などという、いけ好かない相手を合法的にいびれるとなれば力も入る。結果、高山超新星は壊れた。
その苦い経験は、例え忘れた気になっても、体の深い部分にしつこい油汚れのように、今なおこびりついている。
久しぶりに心から感じる穏やかな時間。こんな現実離れした光景を眺めているにもかかわらず、心に刻まれた呪いが高山超新星の目から涙をあふれさせた。
「は、ははは。本当にどんだけトラウマになってんだよ。いつもの悪夢じゃない、平和な夢だってのにデスクがあるとか。面接のときの安っぽい机じゃなくとも、まるで面接されるみてえで嫌になるぜ」
「みたい、じゃなくてするんですよ」
「ひゅッ――――――!」
突然かけられた声に、危うく雲海へ落ちそうになるのをこらえた高山超新星が振り向くと、山積みの書類の後ろから影がふわりと浮かび上がった。
(何だこれ!? 夢でいきなり天使に話しかけられるとか。そもそも自分の意思で発してた独り言に応えてくるとか、リアルすぎるだろ!!)
数メートル先、5メートルほどの高さで羽ばたく純白の翼を持つ天使に驚き、慌てて目を背けると、天使は愉快そうにクスクス笑う。
「おやおや。てっきりここぞとばかりに下から服の中を覗かれると思ってましたのに、まさかの紳士的な対応。ルーシーちゃんポイント1万点を差し上げましょう」
高山超新星からすれば、いきなり初対面の相手に驚いて目を逸らしただけなのだが、都合よく天使が勘違いした。
すっかり対人恐怖症となった彼にとって、他人と目を合わせるだけでもストレスなのに、夢だと油断してブツブツ言っていた独り言が全部聞かれていたことに汗が噴き出す。
トン、と目の前に天使が降り立つ音がしてもなお、高山超新星は地面を見続けた。すると天使が勝手に話し始める。
「はじめまして高山超新星さん。私があなたの担当となります天使のルーシー=アルマロスです」
久しぶりに他人から名前を呼ばれた反抗心か、高山超新星は無意識に天使の顔を凝視した。悪夢の中でも何度も呼ばれ続けていたのかもしれないが、それは起きれば忘れる。今感じているリアルすぎる不快感は、ここ最近で最悪のものだった。
しかし敵意を込めた視線も、天使にニコリと受け流され、高山超新星は再び視線を床へ戻した。それは自分の行動を恥じたからではない。誰が見ても柔和で優しそうな笑顔の底に、彼のトラウマランキング上位の面接官と同じ悪意を感じ取ったからだ。
不景気でその会社は潰れたらしいが、はっきり覚えている面接官がいる。それは初めて彼の話を誠実に聞いてくれた面接官。その男は退出を促したのに、席を立って握手を求めるよう近づいてきた。高山超新星からすれば、ようやく名前に拘らず内面を見てくれた相手の出会い。喜んだ彼は感激して手を伸ばし返す。
だが面接官はその手を払いのけ、目の前で履歴書を破り捨てながら言った。
「他の学生が相手ならここで面接の結果は追ってお知らせいたします――というところだけどよ、お前にはいらないよな? T大で成績上位? 学童のボランティア活動に従事? 他にも反吐が出るような嘘ばかり。こんな点数稼ぎ見え見えの盛りすぎ履歴書、必死すぎて気色わりいんだよ。おい、スーパーノヴァ、冗談は名前だけにしろ。ったく、親もこんな社会不適合の人間の屑を家から出したらマズいって思わないのかね? ああ、こんな名前を子供につける親も社会不適合の屑だったな」
高山超新星は吐きつけられた唾を拭うこともせず、ただ呆然と立ち尽くした。
彼は履歴書を盛ったことは1度もない。それなのに面接官は自分が信じられないという理由だけで嘘と決めつけ罵倒した。何より彼を恐怖させたのは、この言葉を吐いている間、終始その面接官が人の良さそうな笑顔を絶やさなかったこと。
そして今、目の前の天使の笑顔は、その記憶を呼び起こすほどに良く似ていた。




