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もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

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第9話 迎えではなく回収

 公開相談所の窓から差す午前の光が、机の予約票を白く照らしていた。


 リディア・フェンは向かいの相談者へ頷きながら、壁時計へ一度だけ目をやった。左には記録係。待合には次の相談者が二人。今日も一日三件までで、間には休憩を入れる。


 その予定を確かめたところで、廊下から硬い靴音が近づいてきた。


「リディア・フェン殿。王宮より即時帰還命令です」


 使者はまっすぐ机へ進み、王宮紋章入りの紙を置いた。


 予約票の上だった。


 リディアは二枚を指で分け、予約票を記録係へ戻した。


「こちらの相談を一度中断します。再開時刻は予定表へ追記してください。お待ちいただくのが難しい場合は、別枠へ振り替えます」


 相談者が不安そうに王宮の紋章を見る。


 リディアは命令書だけを手元へ寄せた。


「文書は受領します。内容を確認する前に、移動へは同意できません」


「殿下の御身に関わるのです。今すぐ出立を」


「ですので、正式に確認します。ここでは相談者の情報があります。城の応接室へ移りましょう」


 敬語が自分でも分かるほど整っていた。


 けれど、立ち上がる前に予約票の再開欄へ時刻を書いた。


 王宮から来た人がいても、今の仕事は消えない。



 北辺城の公式応接室で、使者は即時帰還命令書を読み上げた。


 王太子の睡眠と公務を理由に、リディアへ王宮への帰還を求める文書だった。


「アルベルト殿下は七夜、まともにお休みになれていません。公務にも支障が出始めています」


 七夜。


 その言葉だけで、頭の一部が勝手に動いた。


 施術に入るなら何時からか。前回の鎮静はどこまで持ったか。代替の夢守りは何人ついたのか。睡眠記録は――。


 リディアは紙の角を親指で押さえた。


 知りたいことと、戻ることは別だった。


「殿下には、現在の担当者はいらっしゃらないのですか」


「必要なのは担当者ではありません。あなたです。十年、殿下をお支えしたあなたなら、お分かりになるでしょう」


 十年を知っている口調だった。


 その十年を、王宮の台帳は補助員と夜間待機に縮めていたはずなのに。


 使者は続けた。


「婚約についても、感情の行き違いがあったのでしょう。まずお戻りください。条件はその後、整えればよろしい」


 リディアは鞄を開いた。


 婚約解消の公示。


 夢鍵返却の受領書。


 辞職書と、夜間奉仕終了を受領した控え。


 三つを日付の順に並べる。


「婚約は終了しています。夢鍵は返却済みです。宮廷夢守りとしての職務も、夜間奉仕も終了しています」


「ですが殿下が眠れない」


「それは、新しい依頼を出す理由にはなります」


 リディアは使者を見た。


「終了した契約が復活したことにはなりません」


 使者の口元が固くなる。


「一度戻ればよいのです」


「それは、条件がないまま戻るという意味です」


 昔なら、それでも向かった。


 必要だと言われたから。


 自分なら耐えられたから。


 腕の夜傷が、袖の下で古い痛みを返した気がした。新しい傷は増えていない。北辺へ来てから、それを治療成果として数える人がいた。


 扉が開いた。


 ユリアン・ノルドが入ってくる。


 使者は立ち上がり、わずかに安堵した顔をした。


「ノルド公。ちょうどよい。現在、リディア・フェン殿は貴殿の庇護下にあると承知しております。王宮へ返還いただきたい」


 ユリアンの視線が、使者から出口、記録係、机上の書類へ動いた。


 声が少し低くなった。


「その質問の宛先が違う」


 それだけ言って、彼はリディアへ向いた。


「リディア。戻る意思はあるか」


 一拍置く。


「理由は私に説明しなくていい」


 答えてもらえれば楽だった。


 公爵が王宮へ拒否を告げ、自分はその後ろにいればいい。その方が、ずっと簡単だった。


 けれど、それでは王宮を出た朝と同じではない。


「いいえ」


 リディアは自分の声が震えていないことを確かめた。


「戻る意思はありません。今の私に、雇用主も所有者もおりません。王宮との契約もありません」


 記録係のペンが止まった。


 紙の見出しに、途中まで『公爵回答』と書かれている。


 記録係はそこへ一本線を引き、その下へ書き直した。


 リディア・フェン本人回答。


 ユリアンはそれを見届けてから使者へ向き直った。


「北辺では、本人が拒否した移送を認めない。私から言うのはそれだけだ」


 胸の奥で、何かがほどけた。


 許可をもらったのではない。


 答えを返してもらったのだ。


 使者はしばらく黙っていたが、やがて別の書類を取り出した。


「では、王宮管理物の件へ移ります」


 声から温度が消えていた。


「封印箱の無断開封は重大な違反です。中から出たとされる記録も、王宮は証拠として認めません」


 リディアは母の署名写しを鞄から出さなかった。


 代わりに、両手を膝の上で重ねた。


「承認者欄のエレナ・フェンについて、王宮の公式見解を伺えますか」


「エレナ・フェンが権限なく作成した偽造承認です。正規の手続きを装い、王宮管理物を動かした。裏切りの証拠と認定されています」


 母を知らない人の口から、裏切りという言葉が落ちる。


 否定する言葉は、すぐにいくつも浮かんだ。


 母はそんな人ではない。


 署名の筆圧が違う。


 末尾の線も逆だった。


 けれど、リディアはどれも口にしなかった。


 まだ証明できない。


「確認します」


 自分でも驚くほど丁寧な声が出た。


「王宮は、その承認を偽造と認定しているのですね」


「その通りです」


「では、偽造と認定された記録が、なぜ王宮夢守局の正規封印箱に保管されていたのでしょう」


 使者の眉が動く。


「箱の輸送記録は複数年にわたっています。偽造なら、その間の確認者と輸送担当は誰ですか」


「その件は――」


「分からない、で記録してよろしいですか」


 記録係のペンが紙へ触れる。


 使者は答えなかった。


 同じ頁に、『偽造』と『正規封印』の文字が並んだ。


「北辺には監査が入ります」


 使者は立ち上がった。


「王宮管理物の開封、記録の保管、ここで行われている施術。すべて確認されるでしょう」


「承知しました。監査の権限範囲も、書面でお願いいたします」


 返事はなかった。


 扉が閉じても、母の名が書かれた行から目を離せない。


 ユリアンは何も言わなかった。


 今は、それがありがたかった。



 午後、公開相談所で最後の相談を終えたところだった。


 リディアは記録係と終了時刻を確認し、入口の札を裏返した。


 本日は終了。


 待合に追加の相談者はいない。だから、もう一件だけ受ける理由もなかった。


 机には午前の即時帰還命令書が残っていた。


 裏面は白い。


 リディアは一度ペンを置きかけ、止めた。


「新しい紙を一枚いただけますか」


 記録係が何も聞かず差し出す。


 リディアは一行目に、正規封印箱、と書いた。


 二行目に、王宮の偽造認定。


 三行目に、複数年の輸送経路。


 鉱山組合の写しと、領地裁判所の写し。母が残した署名との比較。調べるものは増えた。


 けれど、全部を自分一人で持つ必要はない。


 向かいにいたユリアンを見た。


「ユリアン様」


「何だ」


 少しだけ息を吸う。


「手伝ってください」


 彼はすぐに紙へ手を伸ばさなかった。


「どこから手伝えばいい」


 決めるところまで、こちらへ残している。


 リディアは三行を見直し、最初の行を指した。


「箱が正規のものだと、王宮側の記録からも分かる資料を探したいです。私は母の筆跡を追います」


「分かった。こちらは封印と輸送経路を調べる」


 王宮へ戻るための命令書は、机の端に残ったままだった。


 リディアはそれを裏返さない。


 戻るのではなく、調べる。

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