第9話 迎えではなく回収
公開相談所の窓から差す午前の光が、机の予約票を白く照らしていた。
リディア・フェンは向かいの相談者へ頷きながら、壁時計へ一度だけ目をやった。左には記録係。待合には次の相談者が二人。今日も一日三件までで、間には休憩を入れる。
その予定を確かめたところで、廊下から硬い靴音が近づいてきた。
「リディア・フェン殿。王宮より即時帰還命令です」
使者はまっすぐ机へ進み、王宮紋章入りの紙を置いた。
予約票の上だった。
リディアは二枚を指で分け、予約票を記録係へ戻した。
「こちらの相談を一度中断します。再開時刻は予定表へ追記してください。お待ちいただくのが難しい場合は、別枠へ振り替えます」
相談者が不安そうに王宮の紋章を見る。
リディアは命令書だけを手元へ寄せた。
「文書は受領します。内容を確認する前に、移動へは同意できません」
「殿下の御身に関わるのです。今すぐ出立を」
「ですので、正式に確認します。ここでは相談者の情報があります。城の応接室へ移りましょう」
敬語が自分でも分かるほど整っていた。
けれど、立ち上がる前に予約票の再開欄へ時刻を書いた。
王宮から来た人がいても、今の仕事は消えない。
◇
北辺城の公式応接室で、使者は即時帰還命令書を読み上げた。
王太子の睡眠と公務を理由に、リディアへ王宮への帰還を求める文書だった。
「アルベルト殿下は七夜、まともにお休みになれていません。公務にも支障が出始めています」
七夜。
その言葉だけで、頭の一部が勝手に動いた。
施術に入るなら何時からか。前回の鎮静はどこまで持ったか。代替の夢守りは何人ついたのか。睡眠記録は――。
リディアは紙の角を親指で押さえた。
知りたいことと、戻ることは別だった。
「殿下には、現在の担当者はいらっしゃらないのですか」
「必要なのは担当者ではありません。あなたです。十年、殿下をお支えしたあなたなら、お分かりになるでしょう」
十年を知っている口調だった。
その十年を、王宮の台帳は補助員と夜間待機に縮めていたはずなのに。
使者は続けた。
「婚約についても、感情の行き違いがあったのでしょう。まずお戻りください。条件はその後、整えればよろしい」
リディアは鞄を開いた。
婚約解消の公示。
夢鍵返却の受領書。
辞職書と、夜間奉仕終了を受領した控え。
三つを日付の順に並べる。
「婚約は終了しています。夢鍵は返却済みです。宮廷夢守りとしての職務も、夜間奉仕も終了しています」
「ですが殿下が眠れない」
「それは、新しい依頼を出す理由にはなります」
リディアは使者を見た。
「終了した契約が復活したことにはなりません」
使者の口元が固くなる。
「一度戻ればよいのです」
「それは、条件がないまま戻るという意味です」
昔なら、それでも向かった。
必要だと言われたから。
自分なら耐えられたから。
腕の夜傷が、袖の下で古い痛みを返した気がした。新しい傷は増えていない。北辺へ来てから、それを治療成果として数える人がいた。
扉が開いた。
ユリアン・ノルドが入ってくる。
使者は立ち上がり、わずかに安堵した顔をした。
「ノルド公。ちょうどよい。現在、リディア・フェン殿は貴殿の庇護下にあると承知しております。王宮へ返還いただきたい」
ユリアンの視線が、使者から出口、記録係、机上の書類へ動いた。
声が少し低くなった。
「その質問の宛先が違う」
それだけ言って、彼はリディアへ向いた。
「リディア。戻る意思はあるか」
一拍置く。
「理由は私に説明しなくていい」
答えてもらえれば楽だった。
公爵が王宮へ拒否を告げ、自分はその後ろにいればいい。その方が、ずっと簡単だった。
けれど、それでは王宮を出た朝と同じではない。
「いいえ」
リディアは自分の声が震えていないことを確かめた。
「戻る意思はありません。今の私に、雇用主も所有者もおりません。王宮との契約もありません」
記録係のペンが止まった。
紙の見出しに、途中まで『公爵回答』と書かれている。
記録係はそこへ一本線を引き、その下へ書き直した。
リディア・フェン本人回答。
ユリアンはそれを見届けてから使者へ向き直った。
「北辺では、本人が拒否した移送を認めない。私から言うのはそれだけだ」
胸の奥で、何かがほどけた。
許可をもらったのではない。
答えを返してもらったのだ。
使者はしばらく黙っていたが、やがて別の書類を取り出した。
「では、王宮管理物の件へ移ります」
声から温度が消えていた。
「封印箱の無断開封は重大な違反です。中から出たとされる記録も、王宮は証拠として認めません」
リディアは母の署名写しを鞄から出さなかった。
代わりに、両手を膝の上で重ねた。
「承認者欄のエレナ・フェンについて、王宮の公式見解を伺えますか」
「エレナ・フェンが権限なく作成した偽造承認です。正規の手続きを装い、王宮管理物を動かした。裏切りの証拠と認定されています」
母を知らない人の口から、裏切りという言葉が落ちる。
否定する言葉は、すぐにいくつも浮かんだ。
母はそんな人ではない。
署名の筆圧が違う。
末尾の線も逆だった。
けれど、リディアはどれも口にしなかった。
まだ証明できない。
「確認します」
自分でも驚くほど丁寧な声が出た。
「王宮は、その承認を偽造と認定しているのですね」
「その通りです」
「では、偽造と認定された記録が、なぜ王宮夢守局の正規封印箱に保管されていたのでしょう」
使者の眉が動く。
「箱の輸送記録は複数年にわたっています。偽造なら、その間の確認者と輸送担当は誰ですか」
「その件は――」
「分からない、で記録してよろしいですか」
記録係のペンが紙へ触れる。
使者は答えなかった。
同じ頁に、『偽造』と『正規封印』の文字が並んだ。
「北辺には監査が入ります」
使者は立ち上がった。
「王宮管理物の開封、記録の保管、ここで行われている施術。すべて確認されるでしょう」
「承知しました。監査の権限範囲も、書面でお願いいたします」
返事はなかった。
扉が閉じても、母の名が書かれた行から目を離せない。
ユリアンは何も言わなかった。
今は、それがありがたかった。
◇
午後、公開相談所で最後の相談を終えたところだった。
リディアは記録係と終了時刻を確認し、入口の札を裏返した。
本日は終了。
待合に追加の相談者はいない。だから、もう一件だけ受ける理由もなかった。
机には午前の即時帰還命令書が残っていた。
裏面は白い。
リディアは一度ペンを置きかけ、止めた。
「新しい紙を一枚いただけますか」
記録係が何も聞かず差し出す。
リディアは一行目に、正規封印箱、と書いた。
二行目に、王宮の偽造認定。
三行目に、複数年の輸送経路。
鉱山組合の写しと、領地裁判所の写し。母が残した署名との比較。調べるものは増えた。
けれど、全部を自分一人で持つ必要はない。
向かいにいたユリアンを見た。
「ユリアン様」
「何だ」
少しだけ息を吸う。
「手伝ってください」
彼はすぐに紙へ手を伸ばさなかった。
「どこから手伝えばいい」
決めるところまで、こちらへ残している。
リディアは三行を見直し、最初の行を指した。
「箱が正規のものだと、王宮側の記録からも分かる資料を探したいです。私は母の筆跡を追います」
「分かった。こちらは封印と輸送経路を調べる」
王宮へ戻るための命令書は、机の端に残ったままだった。
リディアはそれを裏返さない。
戻るのではなく、調べる。




