第8話 黒い鐘の箱
「王宮へ返送すべきです」
北辺城の証拠保管室は、昼前でも薄暗かった。石机の中央には旧坑道の土をつけた黒い箱が置かれ、ユリアン・ノルドは扉と壁時計を同時に見られる位置に立っていた。向かいに法務担当、右手に記録係、扉脇には警備兵が二人いる。
昨日、三人の鉱夫が夢で示した亀裂を調べ、落盤の前に全員を退避させた。その奥で見つかった箱には、ユリアンの夢糸に浮かんだものと同じ、冠と星の封印が残っている。
「王宮の管理物です。封印が無事なら、触れずに返すのが最も安全かと」
「北辺公家にとっては、そうだろう」
ユリアンは封蝋へ顔を寄せた。赤黒い蝋の縁には、旧坑道の細かな灰が入り込んでいる。表面へ乗っただけではない。長い間、あの壁の向こうに置かれていた灰だ。
「返送した後、箱が王宮のどこへ移されたかは確認できますか」
法務担当は答える前に口を閉じた。
「確約はできません」
「ならば、返すことも証拠を失う選択になる」
「ですが、開封すれば反逆と証拠改竄の両方を疑われます」
「疑われない方法ではなく、後から確かめられる方法を選ぶ」
記録係が一項目ずつ読み上げる。発見場所、坑道から城まで運んだ経路、触れた者の名、現在の封印。ユリアンは箱の縁に残る灰を見ながら、警備兵二人にも順に答えさせた。最後に、箱の六面を紙へ写させる。
「王宮へは発見を通知する。返送は、現地での確認が終わるまで行わない。理由と命令者は私の名で残せ」
法務担当の眉間から皺は消えなかった。それでも、記録係が新しい紙へ時刻を書き、使者が通知書を持って部屋を出た。
壁時計の針が一つ進む。
箱を知らなかった王宮は、もうじき箱を知る。
◇
午後の執務室で、リディア・フェンは封印の写しと母の銀糸飾りを机へ並べていた。
似ているとは言わなかった。ただ、箱が見つかった場所と、開封までの手順だけを尋ねた。声はいつもどおり整っているのに、銀糸飾りを押さえる左手がわずかに震えていた。
ユリアンは窓の外より先に、その手と壁時計を見た。王宮へ出した使者が戻るより、向こうから人が来る方が早いかもしれない。
「開封する場合、君は立ち会わなくていい」
言った直後、リディアの指が止まった。
「立ち会わない場合、箱の中に母の名があっても、私は後から知らされるのでしょうか」
「私が確認した後、必要な範囲を伝えるつもりだった」
「必要な範囲を決めるのは、ユリアン様ですか」
責める声ではなかった。それだけに、答えは短くなった。
「そうなる」
「危険を知らせず遠ざけることも、選択を奪います」
守るためなら、自分一人で責任を負えばよい。
ユリアンには、その考えを疑わずに使ってきた時間がある。だが一人で背負うことと、相手の分まで決めることは同じではない。
「守るつもりで決めた。結果として、君から選択を奪った」
ユリアンは開封命令書を引き寄せた。
「訂正する」
一つしかなかった役割欄へ線を二本引く。
ユリアンは左の欄へ自分の名を書き、「開封命令・法的責任」と添えた。中央には、本人が同意した場合のみリディアが夢術の危険を見て、続けられるかを決める、と書く。残りは法務担当と記録係が、封印と収納順を残す欄だ。
その下に、誰か一人でも中止を告げたら全員が手を止め、リディアは理由を説明せず退出できる、と一行足した。
書き終えた紙を、彼女の側へ向けた。
「この条件で、立ち会う意思はあるか」
リディアは最初から最後まで読み、途中退出の一文を指先で確かめた。
「あります。技術判断を担当します。ただし、続けるかどうかは、その都度確認してください」
「そうする」
二人の署名は、同じ欄ではなく、分けられた役割の下へ並んだ。
◇
夕刻、証拠保管室の窓は閉じられ、机の上だけを三つの灯りが照らしていた。
ユリアンとリディア、法務担当、警備兵二人が机を囲む。少し下がった位置で記録係が時刻を書き、封印の縁を声に出して読み上げた。
紙の上には、封印の傷一つと命令者、立会人、取り出した物が時刻と一緒に上から増えていく。これが今回の開封記録だった。後から誰か一人の証言だけを消しても、箱を開けた経路までは消せない。
「夢術の罠は見えません。ただ、糸の残りがあります」
リディアは箱へ触れず、指を少し離したまま動かした。
低い音がした。
遠くの金属を一度だけ叩いたような音だった。彼女の左袖が揺れ、すぐに手が上がる。
「止めてください」
「全員、手を止めろ」
ユリアンが言うと、封印へ刃を当てかけていた警備兵まで動きを止めた。
「古い夜傷が反応しました。中に夢糸から抜いた力が残っています。素手では触れないでください」
布と銀の挟み具が用意されるまで、誰も箱へ近づかなかった。
封蝋を外し、錠を開く。蓋の内側には薄い銀板があり、その下へ黒銀色の小さな結晶が並んでいた。
「夢晶石です」
リディアの声が一段低くなる。
「人の夢糸から抽出した力を、結晶の中へ保存したものです。王宮では術式の資源として扱われます」
記録係が一つ目の位置を写し、銀具で布の上へ移す。その下から、紐で綴じた台帳が現れた。
住民番号。年齢。採取量。旧坑道への搬入日と、王宮への輸送日。
頁をめくるたび、同じ欄が続いた。
「氏名は」
ユリアンが尋ねる。
記録係は紙面を端から端まで見直した。
「ありません」
年齢はある。どれだけ取れたかもある。名前だけがなかった。
ユリアンの指が、机の縁で止まった。怒りに任せて台帳を閉じれば、王宮が人を数字へ変えた方法まで隠してしまう。
「配置順を崩すな。一頁ずつ写せ。採取対象となった番号は、省略せずすべて残す」
黒銀の結晶が灯りを鈍く返した。
鉱夫たちが聞いた鐘を、病の一言だけで片づけることは、もうできなかった。
台帳の最後には、封蝋付きで折り畳まれた頁が一枚残っていた。
ユリアンが開くと、承認者欄の名が先に目へ入った。
エレナ・フェン。
紙を伏せれば、数秒だけはリディアから遠ざけられる。
その考えが浮かび、ユリアンは紙を机へ置いたまま彼女を見た。
「承認者の名がある。ここから先も続けるか」
リディアは息を一度止めた。視線は紙へ落ちたままだったが、答えは聞き直さずに届いた。
「続けます」
折り目を開く。
承認者、エレナ・フェン。
リディアはすぐに否定しなかった。小さな革入れから、母の遺品に残る署名を写した紙を出し、二つを並べた。
「最初の文字は似ています」
指先が、母の名の末尾で止まる。
「ですが、母の字は最後の線が左へ戻ります。こちらは右で止まっている。筆圧も、途中だけ強すぎます」
「偽造か」
法務担当が尋ねた。
「断定できません。本物とも、まだ言えません」
リディアは二枚から目を離さなかった。
「筆跡に疑義あり、と記録してください」
ユリアンは慰めの言葉を探さなかった。母が加担していないと、証拠より先に決めることもできない。
「今の比較内容を、そのまま残せ。判断は保留する」
紙を擦るペンの音が戻った。
◇
夜の記録室では、複写用の紙が三組に分けられていた。リディアは筆跡比較の最後の行まで書き終えると、次の紙へ手を伸ばした。
その手は、紙の手前で止まった。
ユリアンは「休め」と言いかけ、命令を飲み込んだ。
「続けるか、ここで交代するか」
リディアはしばらく自分の指を見ていた。
「比較は終わりました。写しは交代します」
「分かった」
記録係が席を替わる。三組の写しには異なる色の糸が結ばれた。一組は城の保管庫、一組は鉱山組合、一組は領地裁判所へ送る。所在を記した一覧は、また別に二部作った。
最後にユリアンは王宮への通知書を書いた。
通知書には、北辺領主の命令で封印箱を開けたこと、夢晶石と採取・輸送記録を見つけたこと、原本を保全して写しを分けたことだけを書く。
責任者の欄へ、自分の名を記す。
使者が通知書を持って城門を出た後も、三つの綴りはそれぞれの机に残った。
どの写しにも、エレナ・フェンの名がある。
最後の一線だけが、リディアの知る母の字とは反対へ伸びていた。




