第7話 鉱山で同じ夢を見る
公開相談所の暖炉は、早朝だというのに薪が一本しか入っていなかった。
リディア・フェンは冷えた指先で、机の上の三枚の相談記録を少しずつ離した。昨日開いたばかりの相談所へ、別々の勤務組から来た鉱夫三人のものだ。
三人とも黒い鐘を記していた。落盤まで書いていたのは一人だけだったが、今朝ひとりずつ聞き直すと、残る二人も鐘の後に坑道が崩れたと答えた。
「眠れるようにしていただければ、今日の午後からでも戻せます」
向かいに立つ鉱山の現場責任者が、火の小さな暖炉を一度見た。
「城下の燃料も、そう長くは持ちません」
それはリディアも分かっていた。だからこそ、急いで夢へ入る気にはなれなかった。
最初の鉱夫を隣室へ移し、残る二人には記録を伏せてもらう。坑道図を一枚渡し、夢の中で足元が割れた場所へ印をつけてもらった。
二人目、三人目にも、同じ順で印を置いてもらう。
三つの印は、ほとんど重なった。
現行の坑道図では、何もない壁の向こうだった。
「鐘は何回でしたか」
「六回です」
三人とも同じだった。
「支柱は」
「左に傾いてた」
「風は?」
三人目の鉱夫が鼻の頭をこすった。
「冷たいんですが、雪の匂いじゃないんです。鉄みたいな……錆びた道具箱を開けた時のような」
リディアは三枚の紙を横に並べた。
鐘の絵はばらばらだった。大きさも形も違う。けれど、足元に描かれた亀裂だけは、三枚とも同じところで右へ曲がっている。
同じ噂を聞いたなら、鐘くらいは似るだろう。
知らないはずの壁の位置や、亀裂の曲がり方までそろうだろうか。
「集団で不安になっているだけでは?」
現場責任者が言った。
「一人が怖い夢を話せば、ほかの者も似た夢を見ることはあります。ですから、その不安を落ち着かせていただければ」
少し前の自分なら、もう施術の時間を決めていたかもしれない。
頼まれた。困っている。自分ならできる。
それだけで、予定にしていた。
リディアは三枚の記録を重ねなかった。
「同じ場所を怖がる三人を治す前に、その場所を調べます」
現場責任者の眉が寄った。
「夢ですよ」
「はい。ですから、夢だけを根拠に全部は止めません」
リディアは坑道図の一点を指した。
「ここだけです。ここに何もなければ、その時に次を考えます」
◇
北辺城の執務室へ移る頃には、窓の外の光が白くなっていた。
ユリアン・ノルドは机上の時計を一度見てから、三枚の記録へ目を落とした。現場責任者と城の技師も同席している。
「現行図では異常はありません」
技師が言った。
「昨月の点検でも、支柱の傾きは基準内でした」
「止める必要がある範囲は?」
ユリアンはリディアへ尋ねた。
全面停止か、即時再開か。その二つしかないようには聞かなかった。
「三人が印を置いた区画と、その壁沿いです。別の採掘区画まで止める根拠はありません」
「期間は」
「今日中に、まず現場との一致を見ます。違えば解除できます」
ユリアンは頷き、停止命令書を引き寄せた。
理由欄でペンが止まる。
「夢の証言三件、と書いてよいか」
リディアは一拍だけ迷った。
王宮では、夢で知ったことは施術記録の内側に閉じることが多かった。外の仕事を動かす理由として書かれるのを見るのは初めてだった。
「はい。一致した項目も添えてください」
「支柱、亀裂、冷気だな」
「鐘は外してください。音は噂でも共有できます」
ユリアンの口元がわずかに緩んだ。
「承知した。該当区画だけ止める。別坑道へ人を回して、燃料はそちらから出す」
「閣下まで行かれる必要は――」
現場責任者が口を挟む。
「停止命令を出したのは私だ。現地で解除するなら、なおさら見ておく」
声は短かったが、命令書には理由が残った。
リディアの判断だけを盾にはしない。そのことが、妙に目についた。
◇
午後の坑道は、外の雪より暗い。
入口には待機班を残し、リディアとユリアン、技師、鉱夫一人だけで奥へ入った。足元の板は乾いている。壁も、最初のうちは現行図どおりだった。
「この先です」
鉱夫の声が低くなる。
行き止まりの壁が見えた。
その瞬間、どこかで金属を打つ音がした。
鉱夫の肩が跳ねる。
「鐘だ」
「音は追いません」
リディアは足元を見た。
「三人が同じだったものだけ確認します。支柱と、亀裂と、風です」
夢の中の鐘が本物かどうかは、今は要らない。
支柱は、よく見れば左へわずかに傾いていた。古い木材の根元へ灯りを落とすと、土の下から細い亀裂が伸びている。
右へ曲がっていた。
リディアの喉が乾いた。
「風があります」
技師が壁へ手を近づけた。
石の継ぎ目から、細い冷気が漏れている。
リディアも顔を寄せた。
冷たいだけではない。湿った鉄を指でこすった時のような匂いがした。
三枚の紙に書かれていたものと同じだ。
技師が壁を軽く叩く。
鈍い音のあと、一か所だけ乾いた空洞音が返った。
「向こうに空間があります」
彼が膝をつき、古い補強材の裏へ灯りを差し込んだ。
新しい亀裂が走っていた。
ユリアンの声が低くなる。
「全員、戻れ」
誰も反論しなかった。
鉱夫を先に、技師、リディアの順で引き返す。ユリアンは最後尾についた。
入口側の白い安全線を越えたところで、背後から木の裂ける音がした。
次いで、腹へ響くほど重い音が坑道を走る。
さっきまで立っていた場所の支柱が崩れ、土煙が暗がりから押し出されてくる。
鉱夫が壁へ手をついた。
「夢の通りだ……」
リディアは息を整えてから、首を振った。
「落ちた場所は同じです。でも、夢の通りにはなっていません」
鉱夫がこちらを見る。
「誰も、中に残っていませんから」
震えていた男の手が、ゆっくり壁から離れた。
◇
夕刻、別の採掘区画では安全確認が終わっていた。
量は減る。それでも、城下へ送る燃料車を止めずに済む見込みが立った。
三人の鉱夫は入口脇で待っていた。朝より顔色は悪くない。ただ、現場責任者の前では肩をすぼめている。
「ご迷惑をかけました」
一人が先に言った。
「俺たちが仕事を止めたせいで」
「止めた理由は、記録に残ります」
ユリアンが書き上がった紙を、そばの係へ渡した。
そこには、区画を止めた理由と見つかった亀裂、退避と崩落の時刻が並ぶ。その下には、安全報告者として三人の名があった。
「処分記録ではない。安全通報だ」
現場責任者が何か言いかけ、崩れた区画の方を見た。結局、口を閉じる。
リディアは三人へ向き直った。
「今夜の施術はしません」
「え?」
「現実の危険を一つ取り除きました。夢がどう変わるか、まず明日の朝に聞かせてください」
怖さが残っていても、すぐ消す必要はなかった。
朝になれば、もう崩れない場所を夢の中でも選べるかもしれない。別の怖さが残るなら、その時に聞けばいい。
最初の燃料車が門を出ていく。
荷台の横に留められた安全確認票には、三人の名前があった。
鉱夫の一人が、それを見送って小さく息を吐いた。
「怖がったのも、役に立つんですね」
「少なくとも今日は、役に立ちました」
リディアはそう答えた。
無理に励ますより、そのくらいが今はちょうどいい。
◇
翌朝、崩れた壁の向こうへ入れるだけの補強が終わった。
リディアはユリアン、技師、記録係とともに、現行図には存在しない通路へ足を踏み入れた。
旧坑道には、掘った跡がほとんどない。
代わりに、床へ二本の深い溝が続いている。何度も重い車輪が通った跡だった。
「採るためではなく、運ぶための道ですね」
リディアが言うと、技師が頷いた。
溝は奥の小部屋で止まっていた。
そこに木箱が一つある。
土埃をかぶっているのに、封蝋は崩れていなかった。
リディアは一歩手前で止まる。
「触れないでください」
自分の声が少し速くなった。
ユリアンも箱ではなく、まず出口と記録係を見た。
「位置を写せ。封印もだ。動かす前と後で、全員が状態を確認する」
記録係が紙を広げる。
リディアは箱へ近づかず、灯りだけを向けた。
封蝋の中央に、冠と星がある。
見覚えがあった。
ユリアンが十二分眠った朝、夢から持ち帰った白い夢糸。その芯に浮かんでいた印と、同じ形だった。
「王宮夢守局の封印です」
奥の空気が急に冷えたように感じた。
黒い鐘が何なのかは、まだ分からない。
この坑道が、誰の命令で消されたのかも。
ただ、夢の中にしかなかったはずのものの隣へ、今は触れられる箱が残っていた。




