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もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

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第6話 北の夢相談所

 北辺城の朝食室には、冬の薄い光が差していた。


 リディア・フェンは椅子へ座る前に、左の袖を少しだけまくった。昨日までと同じ古い夜傷だけだ。新しい線はない。


 向かいでは、ユリアン・ノルドが温かいスープを口へ運んでいる。昨夜、彼は十年ぶりに十二分眠った。


 十二分。新規夜傷なし。そして、ほどいた白い夢糸の芯には、王家の術具で見慣れた冠と星の刻印があった。


 分からないことは増えた。それでも、傷が増えなかったという一行だけは、朝になっても変わらない。


「今日は次の施術へ進まない。それでいいな」


「はい。記録を整理したら休みます」


 答えながら、給仕の手が目に入った。


 リディアのカップだけ、取っ手が机の外側を向いている。置く人の指が、彼女の手へ近づかなくて済む向きだった。


 湯は十分に熱い。朝食も届いている。仕事に支障はない。


 そう片づけかけて、やめた。


 夢守りに夢を見せれば、記憶まで奪われる。城の使用人たちがそんな話を怖がっていることは、昨日聞いている。怖くても給仕の仕事はしてくれているだけだ。


 仕事は回っていても、距離は残っている。


「リディア殿」


 ユリアンが、彼女の視線の先を見てから言った。


「客が来ている。城下の母親だ。子どもが毎晩、眠ると叫ぶらしい」


 診られます、と口にしかけた。


 舌の上まで出た言葉を、一度飲み込む。


「本人は、今お話しできますか」


「母親はすぐにでも施術を望んでいる。本人については聞いていない」


「では、先に話す時間をください。施術をするかは、その後に決めます」


 ユリアンは短くうなずいた。


 断る必要も、引き受ける必要も、まだない。


 それだけの余白が、今朝のリディアには妙に大きかった。



 午後の小応接室で、子どもは椅子ではなく、机の下に靴先を隠すように座っていた。


 母親はその隣。ユリアンは扉の外にいる。本人が呼ばない限り入らない、と先に決めていた。


「どうか怪物を消してください。夜になると、この子は毎晩――」


「お母さま」


 リディアは声を強くせず、そこでいったん止めた。


「少しだけ、ご本人に答えてもらってもよろしいですか」


 母親は唇を結んだが、うなずいた。


 子どもの靴先が、さらに机の奥へ引っ込む。


 怪物はどんな形ですか。どこから出ますか。何をされますか。


 王宮にいた頃なら、そこから聞いただろう。危険を早く分類して、早く処置するために。


 けれど、今必要なのは怪物の形ではない。


「朝、できなくて困っていることはありますか」


 子どもが顔を上げた。


「……朝?」


「はい。怖くなくなったら、ではなくて。怖いままでも、朝にしたいことは何ですか」


 長い沈黙のあと、小さな指が机の端をなぞった。


「子山羊に、餌をやりたい」


 母親が息を呑む。


「小屋の戸が、開けられないの。夜の夢で、あそこにいるから」


「怪物が?」


 子どもはうなずいた。


 リディアは紙と鉛筆を差し出した。


「では、怪物ではなく、戸を描いてもらえますか」


 紙にできたのは、四角い戸と、横に倒す木の掛け金だった。


「今夜の目標は、怪物を倒すことにしません。この掛け金を、一度だけ外すことにします」


「消さないのですか」


 母親の声には不安が残っている。


「消えるかどうかを、成功の条件にしません。途中で『やめる』と言ったら、その時点で戻ります」


 リディアは子どもを見る。


「それでも、試してみたいですか」


 今度のうなずきは、母親を見る前に返ってきた。



 同じ夜、子どもの夢には雪の積もった細い廊下があった。


 現実では母親が寝椅子から一脚ぶん離れた場所に座っている。夢の中には、リディアと子どもの二人だけだった。


 廊下の先に、小屋の戸がある。


 その前を、形の定まらない黒い影が塞いでいた。


「……帰りたい」


 子どもの声が震える。


「戻れます」


 リディアは背後の帰還口を確かめた。


「今、やめますか」


 子どもは首を横に振った。


 影が動いた。


 黒い端が床を滑り、リディアの左腕へ伸びてくる。古い夜傷が、熱い針を当てられたように疼いた。


 腕を差し出せば早い。


 あれを自分へ移せば、戸までの道は空く。


 身体の方が、昔の手順を覚えていた。


 リディアは伸びかけた手を握り、胸元へ引いた。


 待つ。


 影は消えない。


 子どもも動かない。


 それでいいはずなのに、何もしない時間は、悪夢を引き受ける痛みより長く感じた。


「朝にしたいことを、もう一度だけ教えてください」


「……餌をやる」


「では、戸まで一緒に行きます。掛け金を外すのは、あなたです」


 一歩。


 もう一歩。


 影が揺れても、リディアは腕を出さなかった。


 子どもの指が木の掛け金へ触れる。


 一度止まり、それから横へ倒した。


 戸が細く開いた。


 影はまだそこにいる。


 けれど隙間から、冷たい朝の空気と、乾いた干し草の匂いが流れ込んできた。


「……小屋の匂い」


 子どもが言った。


 次の瞬間、夢の廊下が朝の白さにほどけた。


 現実へ戻ると、子どもは眠ったままだった。叫んではいない。


 リディアは左袖を上げる。


 新しい傷は、なかった。



 翌朝、母親は相談室へ入るなり何度も頭を下げた。


「今朝、自分で小屋へ行きました。怖いって言いながら、それでも戸を開けて……」


 怪物が消えた、とは言わなかった。


 それで十分だった。


 昨日まで距離を取っていた使用人たちも、玄関脇の小部屋へ机と湯差しを運んでいる。近づき方はまだ少し硬い。それでも、誰かに命じられる前に椅子の数を数えてくれていた。


「窓口を常設することもできる」


 ユリアンが空いた壁を見ながら言った。


 できます、と答えるのは簡単だった。


 役に立てるなら、空いている日も使えばいい。一人増えても二人増えても、自分なら――。


 そこまで考えて、リディアは机の上の白い紙を引き寄せた。


「週二回にします」


 自分で書く。


「一日三件。途中で中止できます。緊急の場合も、本人の同意と、別の担当者の立会いを必要条件にします」


「休診日は?」


「受けません」


 短く言うと、ユリアンの口元がわずかに緩んだ。


「では、その条件を先に看板へ書こう」


 城下の住民が予約と同意のうえで夢の相談を受けられる窓口。公開相談所、と記録にはそう書くことになった。


 看板には診療日より先に、二つの文が入った。


 一日三件。


 途中中止可。


 最初の相談者は、その日のうちに三人来た。


 記録票は別々に書いてもらった。互いの紙は見せていない。


 一枚目に、黒い鐘。


 二枚目にも、黒い鐘。


 三枚目にも同じ言葉があり、その下には落盤の夢が書かれていた。


 リディアは三枚を机へ並べる。


 昨日、ユリアンの夢から持ち帰った白い夢糸。その芯にあった、冠と星の刻印が頭をよぎった。


「ユリアン様」


「ああ」


「これは、一人の悪夢ではありません」


 相談所の窓の外では、何も鳴っていなかった。

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