第6話 北の夢相談所
北辺城の朝食室には、冬の薄い光が差していた。
リディア・フェンは椅子へ座る前に、左の袖を少しだけまくった。昨日までと同じ古い夜傷だけだ。新しい線はない。
向かいでは、ユリアン・ノルドが温かいスープを口へ運んでいる。昨夜、彼は十年ぶりに十二分眠った。
十二分。新規夜傷なし。そして、ほどいた白い夢糸の芯には、王家の術具で見慣れた冠と星の刻印があった。
分からないことは増えた。それでも、傷が増えなかったという一行だけは、朝になっても変わらない。
「今日は次の施術へ進まない。それでいいな」
「はい。記録を整理したら休みます」
答えながら、給仕の手が目に入った。
リディアのカップだけ、取っ手が机の外側を向いている。置く人の指が、彼女の手へ近づかなくて済む向きだった。
湯は十分に熱い。朝食も届いている。仕事に支障はない。
そう片づけかけて、やめた。
夢守りに夢を見せれば、記憶まで奪われる。城の使用人たちがそんな話を怖がっていることは、昨日聞いている。怖くても給仕の仕事はしてくれているだけだ。
仕事は回っていても、距離は残っている。
「リディア殿」
ユリアンが、彼女の視線の先を見てから言った。
「客が来ている。城下の母親だ。子どもが毎晩、眠ると叫ぶらしい」
診られます、と口にしかけた。
舌の上まで出た言葉を、一度飲み込む。
「本人は、今お話しできますか」
「母親はすぐにでも施術を望んでいる。本人については聞いていない」
「では、先に話す時間をください。施術をするかは、その後に決めます」
ユリアンは短くうなずいた。
断る必要も、引き受ける必要も、まだない。
それだけの余白が、今朝のリディアには妙に大きかった。
◇
午後の小応接室で、子どもは椅子ではなく、机の下に靴先を隠すように座っていた。
母親はその隣。ユリアンは扉の外にいる。本人が呼ばない限り入らない、と先に決めていた。
「どうか怪物を消してください。夜になると、この子は毎晩――」
「お母さま」
リディアは声を強くせず、そこでいったん止めた。
「少しだけ、ご本人に答えてもらってもよろしいですか」
母親は唇を結んだが、うなずいた。
子どもの靴先が、さらに机の奥へ引っ込む。
怪物はどんな形ですか。どこから出ますか。何をされますか。
王宮にいた頃なら、そこから聞いただろう。危険を早く分類して、早く処置するために。
けれど、今必要なのは怪物の形ではない。
「朝、できなくて困っていることはありますか」
子どもが顔を上げた。
「……朝?」
「はい。怖くなくなったら、ではなくて。怖いままでも、朝にしたいことは何ですか」
長い沈黙のあと、小さな指が机の端をなぞった。
「子山羊に、餌をやりたい」
母親が息を呑む。
「小屋の戸が、開けられないの。夜の夢で、あそこにいるから」
「怪物が?」
子どもはうなずいた。
リディアは紙と鉛筆を差し出した。
「では、怪物ではなく、戸を描いてもらえますか」
紙にできたのは、四角い戸と、横に倒す木の掛け金だった。
「今夜の目標は、怪物を倒すことにしません。この掛け金を、一度だけ外すことにします」
「消さないのですか」
母親の声には不安が残っている。
「消えるかどうかを、成功の条件にしません。途中で『やめる』と言ったら、その時点で戻ります」
リディアは子どもを見る。
「それでも、試してみたいですか」
今度のうなずきは、母親を見る前に返ってきた。
◇
同じ夜、子どもの夢には雪の積もった細い廊下があった。
現実では母親が寝椅子から一脚ぶん離れた場所に座っている。夢の中には、リディアと子どもの二人だけだった。
廊下の先に、小屋の戸がある。
その前を、形の定まらない黒い影が塞いでいた。
「……帰りたい」
子どもの声が震える。
「戻れます」
リディアは背後の帰還口を確かめた。
「今、やめますか」
子どもは首を横に振った。
影が動いた。
黒い端が床を滑り、リディアの左腕へ伸びてくる。古い夜傷が、熱い針を当てられたように疼いた。
腕を差し出せば早い。
あれを自分へ移せば、戸までの道は空く。
身体の方が、昔の手順を覚えていた。
リディアは伸びかけた手を握り、胸元へ引いた。
待つ。
影は消えない。
子どもも動かない。
それでいいはずなのに、何もしない時間は、悪夢を引き受ける痛みより長く感じた。
「朝にしたいことを、もう一度だけ教えてください」
「……餌をやる」
「では、戸まで一緒に行きます。掛け金を外すのは、あなたです」
一歩。
もう一歩。
影が揺れても、リディアは腕を出さなかった。
子どもの指が木の掛け金へ触れる。
一度止まり、それから横へ倒した。
戸が細く開いた。
影はまだそこにいる。
けれど隙間から、冷たい朝の空気と、乾いた干し草の匂いが流れ込んできた。
「……小屋の匂い」
子どもが言った。
次の瞬間、夢の廊下が朝の白さにほどけた。
現実へ戻ると、子どもは眠ったままだった。叫んではいない。
リディアは左袖を上げる。
新しい傷は、なかった。
◇
翌朝、母親は相談室へ入るなり何度も頭を下げた。
「今朝、自分で小屋へ行きました。怖いって言いながら、それでも戸を開けて……」
怪物が消えた、とは言わなかった。
それで十分だった。
昨日まで距離を取っていた使用人たちも、玄関脇の小部屋へ机と湯差しを運んでいる。近づき方はまだ少し硬い。それでも、誰かに命じられる前に椅子の数を数えてくれていた。
「窓口を常設することもできる」
ユリアンが空いた壁を見ながら言った。
できます、と答えるのは簡単だった。
役に立てるなら、空いている日も使えばいい。一人増えても二人増えても、自分なら――。
そこまで考えて、リディアは机の上の白い紙を引き寄せた。
「週二回にします」
自分で書く。
「一日三件。途中で中止できます。緊急の場合も、本人の同意と、別の担当者の立会いを必要条件にします」
「休診日は?」
「受けません」
短く言うと、ユリアンの口元がわずかに緩んだ。
「では、その条件を先に看板へ書こう」
城下の住民が予約と同意のうえで夢の相談を受けられる窓口。公開相談所、と記録にはそう書くことになった。
看板には診療日より先に、二つの文が入った。
一日三件。
途中中止可。
最初の相談者は、その日のうちに三人来た。
記録票は別々に書いてもらった。互いの紙は見せていない。
一枚目に、黒い鐘。
二枚目にも、黒い鐘。
三枚目にも同じ言葉があり、その下には落盤の夢が書かれていた。
リディアは三枚を机へ並べる。
昨日、ユリアンの夢から持ち帰った白い夢糸。その芯にあった、冠と星の刻印が頭をよぎった。
「ユリアン様」
「ああ」
「これは、一人の悪夢ではありません」
相談所の窓の外では、何も鳴っていなかった。




