第5話 十二分の朝
黒い鐘が、雪原の向こうで鳴った。
「王宮の夢で聞いた音です」
リディア・フェンがそう告げると、隣に立つユリアン・ノルドの目が細くなった。
ここは彼の夢の中だ。白い雪原を、顔のない人々が北へ歩いている。二人の背後には、施術前に定めた帰還口の淡い光が輪になって浮かんでいた。
初回施術で守ることは、昨日の契約で決めた。悪夢をリディアへ移さない。時間を越えない。どちらかが止めると言えば戻る。
紙の上では決められた。
あとは、夢の中でも同じように守れるかどうかだった。
「知っている人がいますか」
「……いる」
ユリアンの足が動いた。
死者の列へ向かって、一歩。
リディアは袖をつかまなかった。代わりに、背後の光を指した。
「帰り道は、まだ見えますか」
彼が振り返る。
鐘が鳴る前には人が一人通れそうだった光の輪が、今は肩幅ほどまで細くなっていた。
「見える」
「では、そこから離れないでください。今見えているものと、まだ起きていないものを分けます」
ユリアンは列へ視線を戻した。
「死んでいる」
「夢の中では、そう見えています」
短い返事に、彼の眉がわずかに動いた。
雪の上には死者の足跡しかない。どれも同じ方向へ伸び、引き返した跡は一つもなかった。
けれど、リディアが足元の雪を払うと、古い木の道標が半分だけ埋まっていた。矢印は、列とは違う横道を指している。
道がないのではない。
見えなくされているだけだ。
そのとき、黒いものがユリアンの胸元から伸びた。
糸だった。
夢糸。言葉にならない恐怖や選択が、夢守りの目には糸のように見えることがある。
一本は死者の列へ伸び、もう一本の先が、ゆっくりとリディアの左腕へ近づいてきた。
袖の下で、古い夜傷が熱を持つ。
身体が先に動いた。
手を伸ばせばいい。
黒い糸を受け取って、自分の中へ引けばいい。十年間そうしてきた。いちばん早く、いちばん確実な方法だった。
指先が糸へ触れかける。
「止める」
低い声に、リディアの手が止まった。
ユリアンは彼女の腕ではなく、顔を見ている。
「その方法は契約にない」
「ですが、私なら――」
言いかけて、口を閉じた。
私なら耐えられる。
それは昨日、自分で捨てたはずの言葉だった。
「戻るか」
ユリアンは急かさない。
リディアは袖の上から腕を押さえた。熱い。けれど、増えた痛みではない。古い傷が、昔と同じ仕事を待っているだけだ。
手を引く。
自分で。
「続けます。ただし、次の鐘までです。吸いません」
「分かった」
それだけだった。
止められたことを失敗にされないのが、まだ少し不思議だった。
黒い糸は、受け取る相手を失って空中で揺れている。
リディアは糸を目で追った。
死者の列の先ではなく、途中に固い結び目がある。
「全部を見なくて構いません」
「全部見なければ、守れない」
「今は一つだけです。最初に見えた人は誰ですか」
返事が遅れた。
「北門を預かる者だ」
「その方へ、まだ言っていないことは」
ユリアンの口元が硬くなる。
鐘の低い余韻が、雪の下を這ってきた。
「夢で死んだ姿を見るたび、配置を変えてきた」
「本人には?」
「言っていない」
「なぜですか」
「死ぬかもしれないと言えば、その後の選択まで私が縛る」
だから黙って、先に動かした。
領主の判断として。一人で。
リディアは答えを訂正しなかった。
「次も同じものを見たら、どうしますか」
ユリアンは死者の列を見た。
その向こうで、黒い鐘がゆっくり揺れている。
「危険は伝える」
息を一つ置く。
「その上で、本人と選ぶ」
雪の上の影が割れた。
鐘から伸びていた一本の長い影が、道標の前で二つに分かれる。
黒い糸の結び目が、わずかに緩んだ。
「今です」
リディアは糸を取った。
引かず、自分の腕へも巻かない。
結び目へ指を入れ、一周だけほどく。
耳の奥で、声のような鐘が響いた。
――救うなら、おまえが決めろ。
ユリアンの肩が揺れる。
「ユリアン様」
「聞こえている」
「何を選びますか」
彼は一度、目を閉じた。
「危険は伝える。選ぶのは一人でしない」
結び目がほどけた。
糸はリディアの腕へ来なかった。
黒かった先だけが白くなり、ユリアンの掌へ落ちる。
死者の列も、鐘も残っている。
それでも横道の雪が崩れ、二人が並んで通れる幅だけ地面が見えた。
「戻ります」
今度はリディアが言った。
ユリアンがうなずく。
二人は死者を追わず、背後の光へ向かった。
帰還口へ踏み込む直前、ユリアンの掌の白い糸がほどける。
芯に、小さな形が見えた。
冠と、星。
見覚えがあると思った瞬間、雪原が白く弾けた。
◇
目を開けると、北辺城の寝室は夜明け前だった。
窓の端だけが薄く青い。寝台ではユリアンが目を閉じたまま、静かな呼吸を続けている。
リディアは椅子に座ったまま、時計へ手を伸ばさなかった。
扉の外には医務担当者が待っている。異常があれば呼ぶ。それも施術前に決めていた。
一分。
二分。
数え始めると、短さばかりが気になる。
十年眠れていない人に、何分あれば成功なのだろう。
答えを決める前に、寝台の指が動いた。
ユリアンが目を開ける。
「……リディア殿」
「はい」
彼は時計を見なかった。
「増えたか」
一瞬、何のことか分からなかった。
それからリディアは左の袖を見た。
「確認します」
袖を肘まで上げる。
白い朝の光の下で、古い夜傷を一本ずつ目で追った。
熱は引いていて、新しい赤い線もない。
「増えていません」
ユリアンが息を吐いた。
眠れた人の顔より先に、そちらが緩んだ。
「なら、それを先に書いてくれ」
「睡眠時間より先に、ですか」
「同じ結果だろう」
リディアは治療記録を開いた。
一行目に「施術者の新規夜傷なし」と書き、その下で、ようやく時計を見る。
針は、施術終了から十二分進んでいた。
「十二分です」
口にすると、思ったより小さな数字だった。
ユリアンは枕へ頭を戻したまま、目だけを細める。
「十二分だ。十年ぶりなら、十分に大勝だろう」
乾いた言い方に、リディアは少しだけ息を漏らした。
笑ったのだと気づくまで、一拍かかった。
二行目に、睡眠十二分、と同じ大きさで書く。
治った、とは書かない。
成功、と大きく囲みもしない。
ただ十二分眠れて、自分も傷つかなかった。
その二つを同じ紙に並べると、妙に落ち着いた。
「もう一つあります」
リディアは夢から持ち帰った細い糸片を、小さな紙の上へ置いた。
夢糸は現実へ戻ればほとんど形を失う。それでも今朝の一本だけは、白い繊維のように指先へ残っていた。
紙へ留めると、糸の芯が朝の光を受けた。
浮かんだのは冠と星だった。
王家の術具で何度も見た印だ。
リディアの指が止まる。
「ユリアン様」
「ああ」
十二分の朝の記録、そのすぐ横で。
王家の刻印が、白い夢糸の芯から浮かび上がっていた。




