表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/31

第5話 十二分の朝

 黒い鐘が、雪原の向こうで鳴った。


「王宮の夢で聞いた音です」


 リディア・フェンがそう告げると、隣に立つユリアン・ノルドの目が細くなった。


 ここは彼の夢の中だ。白い雪原を、顔のない人々が北へ歩いている。二人の背後には、施術前に定めた帰還口の淡い光が輪になって浮かんでいた。


 初回施術で守ることは、昨日の契約で決めた。悪夢をリディアへ移さない。時間を越えない。どちらかが止めると言えば戻る。


 紙の上では決められた。


 あとは、夢の中でも同じように守れるかどうかだった。


「知っている人がいますか」


「……いる」


 ユリアンの足が動いた。


 死者の列へ向かって、一歩。


 リディアは袖をつかまなかった。代わりに、背後の光を指した。


「帰り道は、まだ見えますか」


 彼が振り返る。


 鐘が鳴る前には人が一人通れそうだった光の輪が、今は肩幅ほどまで細くなっていた。


「見える」


「では、そこから離れないでください。今見えているものと、まだ起きていないものを分けます」


 ユリアンは列へ視線を戻した。


「死んでいる」


「夢の中では、そう見えています」


 短い返事に、彼の眉がわずかに動いた。


 雪の上には死者の足跡しかない。どれも同じ方向へ伸び、引き返した跡は一つもなかった。


 けれど、リディアが足元の雪を払うと、古い木の道標が半分だけ埋まっていた。矢印は、列とは違う横道を指している。


 道がないのではない。


 見えなくされているだけだ。


 そのとき、黒いものがユリアンの胸元から伸びた。


 糸だった。


 夢糸。言葉にならない恐怖や選択が、夢守りの目には糸のように見えることがある。


 一本は死者の列へ伸び、もう一本の先が、ゆっくりとリディアの左腕へ近づいてきた。


 袖の下で、古い夜傷が熱を持つ。


 身体が先に動いた。


 手を伸ばせばいい。


 黒い糸を受け取って、自分の中へ引けばいい。十年間そうしてきた。いちばん早く、いちばん確実な方法だった。


 指先が糸へ触れかける。


「止める」


 低い声に、リディアの手が止まった。


 ユリアンは彼女の腕ではなく、顔を見ている。


「その方法は契約にない」


「ですが、私なら――」


 言いかけて、口を閉じた。


 私なら耐えられる。


 それは昨日、自分で捨てたはずの言葉だった。


「戻るか」


 ユリアンは急かさない。


 リディアは袖の上から腕を押さえた。熱い。けれど、増えた痛みではない。古い傷が、昔と同じ仕事を待っているだけだ。


 手を引く。


 自分で。


「続けます。ただし、次の鐘までです。吸いません」


「分かった」


 それだけだった。


 止められたことを失敗にされないのが、まだ少し不思議だった。


 黒い糸は、受け取る相手を失って空中で揺れている。


 リディアは糸を目で追った。


 死者の列の先ではなく、途中に固い結び目がある。


「全部を見なくて構いません」


「全部見なければ、守れない」


「今は一つだけです。最初に見えた人は誰ですか」


 返事が遅れた。


「北門を預かる者だ」


「その方へ、まだ言っていないことは」


 ユリアンの口元が硬くなる。


 鐘の低い余韻が、雪の下を這ってきた。


「夢で死んだ姿を見るたび、配置を変えてきた」


「本人には?」


「言っていない」


「なぜですか」


「死ぬかもしれないと言えば、その後の選択まで私が縛る」


 だから黙って、先に動かした。


 領主の判断として。一人で。


 リディアは答えを訂正しなかった。


「次も同じものを見たら、どうしますか」


 ユリアンは死者の列を見た。


 その向こうで、黒い鐘がゆっくり揺れている。


「危険は伝える」


 息を一つ置く。


「その上で、本人と選ぶ」


 雪の上の影が割れた。


 鐘から伸びていた一本の長い影が、道標の前で二つに分かれる。


 黒い糸の結び目が、わずかに緩んだ。


「今です」


 リディアは糸を取った。


 引かず、自分の腕へも巻かない。


 結び目へ指を入れ、一周だけほどく。


 耳の奥で、声のような鐘が響いた。


 ――救うなら、おまえが決めろ。


 ユリアンの肩が揺れる。


「ユリアン様」


「聞こえている」


「何を選びますか」


 彼は一度、目を閉じた。


「危険は伝える。選ぶのは一人でしない」


 結び目がほどけた。


 糸はリディアの腕へ来なかった。


 黒かった先だけが白くなり、ユリアンの掌へ落ちる。


 死者の列も、鐘も残っている。


 それでも横道の雪が崩れ、二人が並んで通れる幅だけ地面が見えた。


「戻ります」


 今度はリディアが言った。


 ユリアンがうなずく。


 二人は死者を追わず、背後の光へ向かった。


 帰還口へ踏み込む直前、ユリアンの掌の白い糸がほどける。


 芯に、小さな形が見えた。


 冠と、星。


 見覚えがあると思った瞬間、雪原が白く弾けた。



 目を開けると、北辺城の寝室は夜明け前だった。


 窓の端だけが薄く青い。寝台ではユリアンが目を閉じたまま、静かな呼吸を続けている。


 リディアは椅子に座ったまま、時計へ手を伸ばさなかった。


 扉の外には医務担当者が待っている。異常があれば呼ぶ。それも施術前に決めていた。


 一分。


 二分。


 数え始めると、短さばかりが気になる。


 十年眠れていない人に、何分あれば成功なのだろう。


 答えを決める前に、寝台の指が動いた。


 ユリアンが目を開ける。


「……リディア殿」


「はい」


 彼は時計を見なかった。


「増えたか」


 一瞬、何のことか分からなかった。


 それからリディアは左の袖を見た。


「確認します」


 袖を肘まで上げる。


 白い朝の光の下で、古い夜傷を一本ずつ目で追った。


 熱は引いていて、新しい赤い線もない。


「増えていません」


 ユリアンが息を吐いた。


 眠れた人の顔より先に、そちらが緩んだ。


「なら、それを先に書いてくれ」


「睡眠時間より先に、ですか」


「同じ結果だろう」


 リディアは治療記録を開いた。


 一行目に「施術者の新規夜傷なし」と書き、その下で、ようやく時計を見る。


 針は、施術終了から十二分進んでいた。


「十二分です」


 口にすると、思ったより小さな数字だった。


 ユリアンは枕へ頭を戻したまま、目だけを細める。


「十二分だ。十年ぶりなら、十分に大勝だろう」


 乾いた言い方に、リディアは少しだけ息を漏らした。


 笑ったのだと気づくまで、一拍かかった。


 二行目に、睡眠十二分、と同じ大きさで書く。


 治った、とは書かない。


 成功、と大きく囲みもしない。


 ただ十二分眠れて、自分も傷つかなかった。


 その二つを同じ紙に並べると、妙に落ち着いた。


「もう一つあります」


 リディアは夢から持ち帰った細い糸片を、小さな紙の上へ置いた。


 夢糸は現実へ戻ればほとんど形を失う。それでも今朝の一本だけは、白い繊維のように指先へ残っていた。


 紙へ留めると、糸の芯が朝の光を受けた。


 浮かんだのは冠と星だった。


 王家の術具で何度も見た印だ。


 リディアの指が止まる。


「ユリアン様」


「ああ」


 十二分の朝の記録、そのすぐ横で。


 王家の刻印が、白い夢糸の芯から浮かび上がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ