第4話 悪夢を奪わない依頼人
北辺城の執務室は、夜明け前がいちばん静かだった。
窓の外はまだ青黒く、机の端に置いた時計だけが、やけに律儀な音を立てている。ユリアン・ノルドは椅子へ深く座ることもなく、標準契約書の一行へ二本目の線を引いた。
昨夜も眠れていない。
それでも午後には、リディア・フェンが北辺城へ着く。
数日前に届いた受諾の返書は、短かった。
悪夢の肩代わりはしない。契約違反時は撤退する。
どちらも、最初の依頼状でこちらが書いた条件より一歩先に進んでいた。だから正式な契約も、それより後ろへ戻すわけにはいかない。
ユリアンは削った一文を見下ろした。
施術に伴う悪夢、傷、記憶の移転を、成果として認める。
夢守りの標準書式では珍しくもない条項らしい。医務官にも、成功率を考えるなら残した方がよいと言われた。
成功率。
便利な言葉だった。
誰が代わりに痛むのかを書かなくて済む。
ユリアンは削除線の横へ、ゆっくり書き足した。
成果に含めない。
続けて、施術時間の上限を書く。途中で中止できること。意識がはっきりせず、同意を確かめられないときは始めないこと。成果がなくても報酬は減らさない。
最後の一文まで書いて、時計を見る。
まだ朝にもなっていない。
眠りたいと思う時間は、とっくに過ぎていた。
今はただ、眠りたいという理由で誰かを壊さない書類にしておきたかった。
◇
午後、北辺城の玄関広間へ入ってきたリディアは、挨拶より先に三つを見た。
開いた正面扉。壁の時計。案内役の使用人が持つ書類箱。
そのあとで、ユリアンへ視線が戻る。
「リディア・フェンです。本日より、お世話になります」
「ユリアン・ノルドだ。長旅だったな」
「問題ありません。契約の確認が済み次第、初回施術まで進められます」
声も姿勢も整っていた。ただ、外套を外した指が留め具を一度取り損ねる。
ユリアンが時計へ目をやると、彼女もつられるように視線を向けた。
「面談は夕方にする」
「ですが、私は施術のために参りました」
「分かっている。だから先に確認する。食事を取る、客室で休む、今すぐ面談する。どれがいい」
リディアは一度黙った。
「……休んでも、予定の遅れにはなりませんか」
「今日治療しない選択まで契約に入れてある。二時間休む程度で違反にはならない」
言ってから、ユリアンは少しだけ眉を寄せた。
彼女は拒否できないのではない。
休むことを、拒否とは別の失敗だと思っているらしい。
「では、二時間いただけますか。その後、面談をお願いします」
「承知した」
客室の前まで案内し、使用人に鍵を渡させる。
「内側から掛けられる。予備鍵は管理庫に封じてある。必要がなければ、こちらから開けることはない」
リディアは鍵を見て、それから扉を見た。
「ありがとうございます」
ほんの少しだけ、肩から力が抜けたように見えた。
ユリアンはそれ以上何も言わず、廊下を戻った。
休む人間を見張る必要はない。
◇
夕方、小会議室の机へ二部の契約書を並べると、リディアは最初の頁で手を止めた。
削除線を指先で追う。
「代償移転の条項を、削除されたのですね」
「ああ」
「理由を伺っても?」
「依頼状に書いた通りだ。君が傷つくことを成果にしない」
リディアは契約書から顔を上げた。
「ですが、悪夢を私へ移すのが最も確実です。長く眠れていない方ほど、最初はその方が――」
「それで君に傷が増える可能性はあるか」
一拍だけ、返事が遅れた。
「あります。ただ、私なら耐えられますので、他の方法より効率的です」
聞いた瞬間、胸の奥で何かが冷えた。
怒鳴る理由ではない。
彼女は、自分にとって最も普通の手順を説明しただけなのだ。
ならば変えるべきなのは、説明ではなく契約の方だった。
ユリアンは削除線の横へ、もう一行加えた。
「確実に君が壊れる方法を、成果とは呼ばない」
ペン先を止めずに続ける。
「悪夢を取ってくれ、とは書かない。代わりに耐えず、隣で解く方法を探してほしい」
リディアの視線が、新しい一文へ落ちた。
「共同治療、という形でしょうか」
「可能か」
「未検証です。夢の中で見えているものをユリアン様ご自身にも言葉にしていただき、選択を確認しながら夢糸の結び目だけをほどくなら、理屈としては」
「それでいい」
「一分も眠れない可能性もあります」
「その場合は一分も眠れなかったと記録する」
「途中で私が中止しても?」
「中止する」
「理由を説明できなくても?」
「聞かない」
リディアはまた黙った。
沈黙を返事にはしない。
ユリアンは自分の署名だけを先に入れ、契約書を机の向こうへ滑らせた。
「追記があれば書いてくれ。署名しないなら、それでも構わない」
空欄は残してある。
彼女のための空欄だった。
しばらくして、リディアがペンを取った。
撤退時、理由説明を要しないこと。
停止の意思表示があれば即時終了すること。
自分で二つを書き足してから、彼女は名を記した。
「この条件で、初回施術をお受けします」
「よろしく頼む、リディア殿」
十年ぶりに眠れるかもしれない。その期待は確かにあった。
だが今は、契約書の余白が埋まったことの方が、少しだけ息をしやすい。
◇
署名を終えても、リディアは席を立たなかった。
鞄から、小さな銀の飾りを取り出す。
「もう一点、確認したいことがあります」
輪を作る銀糸の意匠だった。
ユリアンは机の封蝋印を取り、並べて置いた。
「北辺公家の古い銀糸紋に近い」
「母の遺品です。エレナ・フェンという夢守りでした」
名を聞いても、記憶に引っかかるものはなかった。
知っているふりをする方が簡単な場面だった。
「すまない。私は、その名を知らない」
リディアの指が飾りの縁をなぞった。
「そうですか」
「ただ、紋の古い記録は家に残っている。これと同じ形がないかは調べられる」
封蝋と飾りを近づけると、輪の結び目だけが一か所、逆を向いていた。
「施術が成功したら、でしょうか」
ユリアンは首を横に振った。
「施術の成否とは関係ない。君が調べたいなら、後日一緒に確認しよう」
リディアはすぐには返事をしなかった。
やがて飾りを包み直す。
「お願いします」
それだけだった。
けれど朝から何度も条文を読み返したときより、その短い返事の方が重く感じた。
◇
夜、寝室には時計と契約書を見える位置へ置いた。
寝台へ横になったユリアンの脇で、リディアが椅子を少し離す。
「手首へ触れてもよろしいですか」
「ああ」
「途中で声が出なくなった場合、私が手を二度離します。それを中止合図にします。ユリアン様から止める場合は、指を二度動かしてください」
「分かった」
「眠れなくても失敗ではありません」
その言葉は、昼なら患者へ向けた説明に聞こえただろう。
今は妙に近かった。
ユリアンは目を閉じた。
眠りへ落ちる直前は、いつも身体が先に抗う。胸が浅くなり、次に見るものを思い出す前から指が強ばる。
今日は手首に、リディアの指が軽く触れている。
押さえつける力はない。
時計の針が一つ進む。
もう一つ。
音が遠くなった。
次に足の裏へ触れたのは、冷たい雪だった。
暗い雪原がどこまでも続いている。
隣にリディアが立っていた。
背後には、現実へ戻るための淡い光が細い輪を作っている。
まだ帰れる。
そう確認した瞬間だった。
遠くで、鐘が鳴った。
低く、黒い音だった。
リディアの肩が硬くなる。
「どうした」
彼女は鐘のある方ではなく、ユリアンを見た。
「この音を、王宮の夢で聞きました」
雪の向こうで、黒い鐘がもう一度揺れた。




