第3話 私の夢を、初めて見る
王宮外れの安宿は、夕方になると焼いた玉ねぎの匂いがした。
リディア・フェンは受付机の前に立ち、片手で鞄の持ち手を握っていた。王宮を出てから、まだ半刻ほどしか経っていない。眠っていない時間なら、もう丸一日を越えている。
今夜の仕事はない。
そう分かっているのに、身体だけが次の予定を探していた。
「一晩でよろしいですか?」
宿の主人に聞かれ、リディアは反射的に窓の向きを見た。東側なら王宮の塔が見える。何かあれば、すぐ戻れる距離だ。
何かあれば。
胸元へ手をやりかけて、途中で止めた。そこにあった夢鍵は、今朝返した。辞職書も、夜傷の報告も、返却物の一覧も、受領印をもらっている。
「西側の部屋をお願いします。王宮の見えない方で」
主人は少しだけ目を丸くしたが、すぐに帳面を差し出した。
名前。リディア・フェン。
職業。
ペン先が止まる。
宮廷夢守り、と書く必要はもうない。だからといって、代わりの言葉があるわけでもなかった。
リディアはその欄を空けたまま、名前の最後の一文字だけを丁寧に書いた。
「夕食はどうします? 固いパンなら部屋へ持っていけますが」
「……温かいものはありますか」
「豆と玉ねぎのスープなら」
「それをお願いします。パンも」
誰かの夢へ入る前なら、胃が重くならない栄養薬だけで済ませていた。
今日は、熱いスープを選んでもよかった。
小部屋は狭かった。寝台と椅子が一脚、壁際に小さな水差し。窓を開けても王宮の塔は見えず、屋根の向こうへ夕日が沈んでいくばかりだった。
リディアは鞄を枕元へ置き、受領印のある三枚の控えを確かめた。
それから、スープを一口飲んだ。
熱さが舌に残る。
少しだけ、ほっとした。
◇
深夜、リディアは目を開けた。
部屋は暗い。廊下の向こうで誰かが寝返りを打ったらしく、古い床板が一度だけ鳴った。
呼び出しの鐘ではない。
もう一度、目を閉じる。
しばらくして、また目が開いた。
以前なら王太子棟から使いが来る頃だった。悪夢の兆候を確認し、夢鍵を使い、殿下が朝まで眠れるよう処置へ入る。
今夜は来ない。
左腕の古い夜傷が、遅れて思い出したように疼いた。
殿下は昨夜、一睡もしていない。代わりに入った夢守り二人でも鎮められなかった。
知っている。
それでも、戻らなかった。
胸の奥が少し狭くなる。
リディアは掛布の上で手を開いた。誰かの手を握るためでも、術式を結ぶためでもない。ただ、自分の指が震えていないかを見るために。
問題ありません、と言いそうになって、やめた。
今は誰にも報告しなくていい。
「今夜の依頼人はいない」
声に出すと、妙に頼りない言葉だった。
患者へなら、もっと自然に言えるのに。
「途中で起きても、失敗ではない」
もう一度言う。
枕元に目覚ましの術具は置かない。戸口へ追加の結界も張らない。
薄い掛布は、王宮の重い天蓋よりずっと軽かった。
眠れば誰かの悲鳴が聞こえる。
その身体の思い込みが消えるまで、どれくらいかかるのだろう。
答えはまだ出ない。
それでもリディアは、三度目に目を閉じた。
◇
糸の音がした。
風に触れた細い糸が、かすかに震える音だった。
リディアは古い織り部屋に立っていた。子どもの頃に見た気がするのに、どこの部屋だったかは思い出せない。窓の外は夜明け前の青さで、部屋いっぱいに銀色の糸が張られている。
最初に探したのは、悲鳴だった。
ない。
誰かの泣き声も、助けを呼ぶ声も、悪夢の中で必ず聞こえた荒い呼吸もない。
聞こえるのは、糸が揺れる音だけだった。
向こう側に人影があった。
細い肩。髪を低い位置でまとめた輪郭。
「お母さま?」
呼ぶと、人影が少しだけ振り向いた。
母エレナ・フェンに似ていた。かつて夢守りだった母は、リディアがまだ幼い頃に亡くなっている。
近づこうとすると、床に落ちていた銀糸がほどけた。
聞きたいことが多すぎた。
なぜ私の記録がないの。
お母さまも同じだったの。
どうして死んだの。
一つ口にするたび、この夢まで消えてしまいそうだった。
リディアは息を止め、それから質問を一つだけ選んだ。
「私は、もう持たなくてもいいの」
人影はすぐには答えなかった。
やがて、母に似た声がした。
「夜は一人で持つものではない」
銀糸が一本、宙で輪を作った。
けれど輪は閉じきらず、端がいくつも外へ伸びている。
リディアはそれを見つめた。
母は、耐えた人だった。
だから自分も耐えるのだと思ってきた。
もしかすると、同じことをしろという意味ではなかったのかもしれない。
「お母さま、これは――」
問いの途中で、部屋が朝の光にほどけた。
◇
目を開けると、知らない天井だった。
安宿の白い天井。窓の隙間から朝日が差し、昨夜脱いだ靴が寝台の脇に揃ったまま置かれている。
リディアはしばらく動かなかった。
夢を覚えている。
織り部屋。銀糸。母に似た声。
そして、誰の悲鳴もなかった。
「……私の夢」
口にした途端、胸の奥がゆっくりほどけた。
今の夢は、私のものだった。
リディアは起き上がり、手帳を取り出した。忘れないうちに、一文ずつ書く。
銀色の糸。
閉じきらない輪。
夜は一人で持つものではない。
最後まで書いてから、鞄の中へ手を入れた。
受領印の控えの下に、封を切っていない手紙が一通残っている。
昨日、宮廷夢守局の配達棚から私物として返されたものだ。
封筒を裏返す。
王宮の受付印は、夜会より数日前の日付だった。
婚約破棄を知ってから送られたものではない。
表には役職名ではなく、こうあった。
リディア・フェン殿。
封を開く。
差出人はユリアン・ノルド。王国北部の北辺を治める公爵だった。
十年にわたり長く眠れない状態が続いていること。
まず治療が可能かどうかの確認だけを求めること。
移動と滞在にかかる費用は依頼側が負担すること。
途中で施術を中止しても、理由の説明を求めないこと。
リディアはそこで一度、読む手を止めた。
その次の一文を、もう一度最初から読む。
依頼人への悪夢移転を成果に数えない。
意味を取り違えたのかと思った。
夢守りが依頼人を眠らせるなら、苦痛を代わりに引き受けるのが最も早い。少なくとも王宮では、それが当然だった。
けれど、この依頼書は、それを成果として認めないと先に書いている。
使ってほしい能力より、使わないでよい方法が先にあった。
リディアは封筒の封蝋へ目を落とした。
銀の糸が輪を作る紋章。
銀糸紋と呼ばれる北辺公家の印だった。
息が止まる。
鞄の底から、小さな銀糸飾りを取り出した。母が遺した、何に使うものかも教えられなかった飾りだ。
輪の形が、同じだった。
夢で見たものとも似ている。
記憶が夢を作っただけかもしれない。
それでも、現実の封蝋まで同じ形をしている理由は残った。
◇
朝の食堂で、リディアは二杯目のスープを頼んだ。
昨夜と同じ豆と玉ねぎだった。少し塩が強い。
そんなことを気にした自分がおかしくて、ほんの少し口元が緩んだ。
手帳を開く。
手紙を受けたから北へ行く。
そう書きかけて、ペンを止めた。
頼まれたから行くのでは、昨日までと変わらない。
新しい頁に、三行だけ書いた。
目的:母の銀糸紋の確認。
条件:悪夢の肩代わりはしない。
撤退:契約違反時。
三行を読み返してから、リディアは依頼を受ける返書を書いた。
宿の主人に郵便の出し方を聞き、自分の硬貨で切手代を払う。
その足で、北行きの乗合馬車の受付へ向かった。
「北辺まで、一人です」
係の男が行き先札を指した。
「明朝発だ。北はもう冷える。厚い外套がいるよ」
「ありがとうございます。用意します」
代金を払い、乗車券を受け取る。
板札には、大きく『北辺』と書かれていた。
リディアはその二文字を、手帳の次の頁へ写した。
手紙が丁寧だからといって、送り主まで信じられるとは限らない。
会って、確かめる。
条件が違えば、帰る。
それでも今は、北へ行きたいと思った。
王宮から逃げるためではない。
母の残した形を確かめ、自分がこれからどんな夜を持つのか、自分で決めるために。
リディアは乗車券を手帳へ挟んだ。
初めて自分で決めた予定は、北へ続いていた。




