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もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

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第3話 私の夢を、初めて見る

 王宮外れの安宿は、夕方になると焼いた玉ねぎの匂いがした。


 リディア・フェンは受付机の前に立ち、片手で鞄の持ち手を握っていた。王宮を出てから、まだ半刻ほどしか経っていない。眠っていない時間なら、もう丸一日を越えている。


 今夜の仕事はない。


 そう分かっているのに、身体だけが次の予定を探していた。


「一晩でよろしいですか?」


 宿の主人に聞かれ、リディアは反射的に窓の向きを見た。東側なら王宮の塔が見える。何かあれば、すぐ戻れる距離だ。


 何かあれば。


 胸元へ手をやりかけて、途中で止めた。そこにあった夢鍵は、今朝返した。辞職書も、夜傷の報告も、返却物の一覧も、受領印をもらっている。


「西側の部屋をお願いします。王宮の見えない方で」


 主人は少しだけ目を丸くしたが、すぐに帳面を差し出した。


 名前。リディア・フェン。


 職業。


 ペン先が止まる。


 宮廷夢守り、と書く必要はもうない。だからといって、代わりの言葉があるわけでもなかった。


 リディアはその欄を空けたまま、名前の最後の一文字だけを丁寧に書いた。


「夕食はどうします? 固いパンなら部屋へ持っていけますが」


「……温かいものはありますか」


「豆と玉ねぎのスープなら」


「それをお願いします。パンも」


 誰かの夢へ入る前なら、胃が重くならない栄養薬だけで済ませていた。


 今日は、熱いスープを選んでもよかった。


 小部屋は狭かった。寝台と椅子が一脚、壁際に小さな水差し。窓を開けても王宮の塔は見えず、屋根の向こうへ夕日が沈んでいくばかりだった。


 リディアは鞄を枕元へ置き、受領印のある三枚の控えを確かめた。


 それから、スープを一口飲んだ。


 熱さが舌に残る。


 少しだけ、ほっとした。



 深夜、リディアは目を開けた。


 部屋は暗い。廊下の向こうで誰かが寝返りを打ったらしく、古い床板が一度だけ鳴った。


 呼び出しの鐘ではない。


 もう一度、目を閉じる。


 しばらくして、また目が開いた。


 以前なら王太子棟から使いが来る頃だった。悪夢の兆候を確認し、夢鍵を使い、殿下が朝まで眠れるよう処置へ入る。


 今夜は来ない。


 左腕の古い夜傷が、遅れて思い出したように疼いた。


 殿下は昨夜、一睡もしていない。代わりに入った夢守り二人でも鎮められなかった。


 知っている。


 それでも、戻らなかった。


 胸の奥が少し狭くなる。


 リディアは掛布の上で手を開いた。誰かの手を握るためでも、術式を結ぶためでもない。ただ、自分の指が震えていないかを見るために。


 問題ありません、と言いそうになって、やめた。


 今は誰にも報告しなくていい。


「今夜の依頼人はいない」


 声に出すと、妙に頼りない言葉だった。


 患者へなら、もっと自然に言えるのに。


「途中で起きても、失敗ではない」


 もう一度言う。


 枕元に目覚ましの術具は置かない。戸口へ追加の結界も張らない。


 薄い掛布は、王宮の重い天蓋よりずっと軽かった。


 眠れば誰かの悲鳴が聞こえる。


 その身体の思い込みが消えるまで、どれくらいかかるのだろう。


 答えはまだ出ない。


 それでもリディアは、三度目に目を閉じた。



 糸の音がした。


 風に触れた細い糸が、かすかに震える音だった。


 リディアは古い織り部屋に立っていた。子どもの頃に見た気がするのに、どこの部屋だったかは思い出せない。窓の外は夜明け前の青さで、部屋いっぱいに銀色の糸が張られている。


 最初に探したのは、悲鳴だった。


 ない。


 誰かの泣き声も、助けを呼ぶ声も、悪夢の中で必ず聞こえた荒い呼吸もない。


 聞こえるのは、糸が揺れる音だけだった。


 向こう側に人影があった。


 細い肩。髪を低い位置でまとめた輪郭。


「お母さま?」


 呼ぶと、人影が少しだけ振り向いた。


 母エレナ・フェンに似ていた。かつて夢守りだった母は、リディアがまだ幼い頃に亡くなっている。


 近づこうとすると、床に落ちていた銀糸がほどけた。


 聞きたいことが多すぎた。


 なぜ私の記録がないの。


 お母さまも同じだったの。


 どうして死んだの。


 一つ口にするたび、この夢まで消えてしまいそうだった。


 リディアは息を止め、それから質問を一つだけ選んだ。


「私は、もう持たなくてもいいの」


 人影はすぐには答えなかった。


 やがて、母に似た声がした。


「夜は一人で持つものではない」


 銀糸が一本、宙で輪を作った。


 けれど輪は閉じきらず、端がいくつも外へ伸びている。


 リディアはそれを見つめた。


 母は、耐えた人だった。


 だから自分も耐えるのだと思ってきた。


 もしかすると、同じことをしろという意味ではなかったのかもしれない。


「お母さま、これは――」


 問いの途中で、部屋が朝の光にほどけた。



 目を開けると、知らない天井だった。


 安宿の白い天井。窓の隙間から朝日が差し、昨夜脱いだ靴が寝台の脇に揃ったまま置かれている。


 リディアはしばらく動かなかった。


 夢を覚えている。


 織り部屋。銀糸。母に似た声。


 そして、誰の悲鳴もなかった。


「……私の夢」


 口にした途端、胸の奥がゆっくりほどけた。


 今の夢は、私のものだった。


 リディアは起き上がり、手帳を取り出した。忘れないうちに、一文ずつ書く。


 銀色の糸。


 閉じきらない輪。


 夜は一人で持つものではない。


 最後まで書いてから、鞄の中へ手を入れた。


 受領印の控えの下に、封を切っていない手紙が一通残っている。


 昨日、宮廷夢守局の配達棚から私物として返されたものだ。


 封筒を裏返す。


 王宮の受付印は、夜会より数日前の日付だった。


 婚約破棄を知ってから送られたものではない。


 表には役職名ではなく、こうあった。


 リディア・フェン殿。


 封を開く。


 差出人はユリアン・ノルド。王国北部の北辺を治める公爵だった。


 十年にわたり長く眠れない状態が続いていること。


 まず治療が可能かどうかの確認だけを求めること。


 移動と滞在にかかる費用は依頼側が負担すること。


 途中で施術を中止しても、理由の説明を求めないこと。


 リディアはそこで一度、読む手を止めた。


 その次の一文を、もう一度最初から読む。


 依頼人への悪夢移転を成果に数えない。


 意味を取り違えたのかと思った。


 夢守りが依頼人を眠らせるなら、苦痛を代わりに引き受けるのが最も早い。少なくとも王宮では、それが当然だった。


 けれど、この依頼書は、それを成果として認めないと先に書いている。


 使ってほしい能力より、使わないでよい方法が先にあった。


 リディアは封筒の封蝋へ目を落とした。


 銀の糸が輪を作る紋章。


 銀糸紋と呼ばれる北辺公家の印だった。


 息が止まる。


 鞄の底から、小さな銀糸飾りを取り出した。母が遺した、何に使うものかも教えられなかった飾りだ。


 輪の形が、同じだった。


 夢で見たものとも似ている。


 記憶が夢を作っただけかもしれない。


 それでも、現実の封蝋まで同じ形をしている理由は残った。



 朝の食堂で、リディアは二杯目のスープを頼んだ。


 昨夜と同じ豆と玉ねぎだった。少し塩が強い。


 そんなことを気にした自分がおかしくて、ほんの少し口元が緩んだ。


 手帳を開く。


 手紙を受けたから北へ行く。


 そう書きかけて、ペンを止めた。


 頼まれたから行くのでは、昨日までと変わらない。


 新しい頁に、三行だけ書いた。


 目的:母の銀糸紋の確認。


 条件:悪夢の肩代わりはしない。


 撤退:契約違反時。


 三行を読み返してから、リディアは依頼を受ける返書を書いた。


 宿の主人に郵便の出し方を聞き、自分の硬貨で切手代を払う。


 その足で、北行きの乗合馬車の受付へ向かった。


「北辺まで、一人です」


 係の男が行き先札を指した。


「明朝発だ。北はもう冷える。厚い外套がいるよ」


「ありがとうございます。用意します」


 代金を払い、乗車券を受け取る。


 板札には、大きく『北辺』と書かれていた。


 リディアはその二文字を、手帳の次の頁へ写した。


 手紙が丁寧だからといって、送り主まで信じられるとは限らない。


 会って、確かめる。


 条件が違えば、帰る。


 それでも今は、北へ行きたいと思った。


 王宮から逃げるためではない。


 母の残した形を確かめ、自分がこれからどんな夜を持つのか、自分で決めるために。


 リディアは乗車券を手帳へ挟んだ。


 初めて自分で決めた予定は、北へ続いていた。

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