第2話 夢鍵を返す朝
婚約者用宿舎の窓から、朝の白い光が机まで伸びていた。夜会から戻って一睡もしていないリディア・フェンは、机の左に私物、右に返却物、中央に二部ずつの書類を置いた。胸元にはもう、銀の夢鍵がない。
昨夜、婚約解消を受け入れた。そして、夜間奉仕も終えると告げた。
今日は、その言葉を紙に変える日だった。
リディアは左袖を肘までまくった。細い傷が、古いものから新しいものまで腕を横切っている。夜傷。他人の悪夢を引き受けたあと、身体へ残る傷痕だ。
今までは増えても、「問題ありません」と袖を下ろして終わりだった。
けれど、今日は下ろさない。
机の端に置いた古い当番表と、自分の手帳を見比べる。分かる日付は書く。分からないものには、分からないと書く。傷の位置を簡単な腕の図へ移していると、袖口の内側に並ぶ補修跡が目に入った。
糸が擦り切れるたび、縫い直してきた跡だ。
傷を隠すための布だけは、ずいぶん丁寧に直していたらしい。
リディアは少しだけ手を止め、それから最後の一本を書き足した。
辞職書は二部。返却物一覧も二部。夜傷の記録にも控えをつける。
一部は王宮へ。もう一部には、受け取った証明となる受領印をもらう。
紙なら、あとから「そんな話は聞いていない」とは言いにくい。
少なくとも、昨夜の自分の言葉よりは長く残る。
◇
宮廷夢守局は、王族と王宮の夢守業務を管理する部署だ。母の代から出入りしてきた場所だから、受付までの廊下を目を閉じても歩ける気がした。
その受付机に、リディアの知らない書類が一枚用意されていた。
上には「フェン補助員」。その下には「療養休暇」とある。
さらに横には、赤い紙が置かれていた。
王太子棟。悪夢再発。代替夢守二名。鎮静不能。
四つの文字列を読んだところで、リディアの指が止まった。
「フェンさん。ちょうどよかった。局長からは、しばらく療養休暇として処理するようにと」
受付担当者は、最初から署名欄をこちらへ向けた。
「辞職です」
「ですが、殿下が昨夜から一睡もできていません。代わりに入った二名でも鎮められなかったそうで……せめて今夜だけでも戻っていただければ」
今夜だけ。
その言葉は、少し前までならそのまま予定になっていた。
リディアは赤い緊急票へ視線を戻した。受領時刻を見る。失敗した人数を見る。紙の端を指で押さえたまま、一度だけ息を吐いた。
アルベルトは、眠れなかったのだ。
胸の奥が痛まなかったわけではない。十年も毎夜見てきた相手の不調だ。身体の方が先に、行くべき場所を思い出しかける。
けれど、胸元には夢鍵がない。
「それは新規依頼です。昨夜終了した契約とは別に扱ってください」
「新規……」
「婚約と雇用は別です。夜間奉仕は昨夜で終了しました。新しい依頼であれば、依頼条件と報酬、担当者を改めて書面にしてください」
受付担当者は休暇届と緊急票を見比べた。
リディアはその間に、二部の辞職書を机へ置いた。
「受け付けられない場合は、拒否理由とご担当者のお名前を、こちらの控えへお願いいたします」
周囲で紙をめくっていた音が、少しだけ減った。
「……局長へ確認します」
「お願いいたします」
◇
宮廷夢守局長オスカー・グレイヴの部屋には、朝だというのに温かい茶が用意されていた。
「まず座りなさい、リディア君。眠っていないだろう」
「手続きが終わりましたら休みます」
リディアは椅子へ座る前に、扉と机の上の書類を見た。自分の辞職書は、まだ右端に置かれたままだった。
オスカーは怒っていなかった。昔からそうだ。声を荒らげるより、こちらが自分で頷くまで穏やかに話す人だった。
「休暇にしておこう。数日眠れば考えも変わる。殿下も今は混乱しておられるだけだ」
「辞職を希望しています」
「君一人の不眠で、何万人が眠れたと思う」
数字を置く声は、ひどく優しい。
「エレナも同じだった。君の母なら、王国を見捨てる選択はしなかったよ」
母の名を聞いた瞬間、左腕の古い夜傷が熱を持った気がした。
母なら。
その言葉を聞くたび、これまでは自分の答えまで決まっていた。
リディアは辞職書の角を揃えた。
「母が何を選んだかは、母の記録で確認します」
オスカーの目が、ほんの少し細くなる。
「私の辞職については、書面で回答してください」
「リディア君。これは君一人の気持ちで決めてよい話ではない」
リディアは二部の辞職書を、机の中央へ押し出した。
「では、その判断も書面でお願いいたします」
しばらく、茶器から立つ湯気だけが動いていた。
オスカーはリディアではなく、二枚の紙を見た。
「……ずいぶん、手続きを覚えたね」
「十年働きましたので」
自分でも驚くほど短く言えた。
◇
正午前、リディアは局内の記録庫で、自分の名前を探していた。
並んでいるはずの日付はあった。
けれど、仕事がなかった。
「補助員・夜間待機」
同じ記載が続き、施術回数の欄は空白のままだ。昨夜まで腕に増えていたものが、紙の上では最初から一度も起きていないことになっている。
「正式な施術者としての登録ではありませんので」
記録担当者は、リディアが持参した夜傷の報告書を返そうとした。
「ですから、こちらは正本へは添付できません」
「内容の承認は求めていません」
リディアは報告書の控えを開き、受領欄を指で示した。
「受け取った事実への印をお願いします」
「しかし」
「受領できない場合は、拒否理由とお名前をこちらへ」
記録担当者の手が止まった。
やがて、小さなため息と一緒に印章が持ち上がる。
ぽん、と紙へ赤い印が落ちた。
たったそれだけの音で、肩の奥が少し軽くなる。
控えを鞄へしまおうとしたとき、廊下からオスカーの声がした。
「その台帳は封印してください」
振り向くと、赤い封印札を持った書記の前で、オスカーがこちらの台帳を指していた。
十年分の欄は、削った跡さえない。
最初から、数えないことになっていたような空白だった。
リディアは鞄の口を閉じた。
◇
午後、最後に残った印章と宿舎鍵まで返却が済んだ。
昨夜、大広間の卓上へ置いた夢鍵も、返却物一覧には正式に記載された。辞職書の控え、夜傷の報告、返却物一覧。三枚とも、受領印がある。
「宿舎は数日そのままでも構いませんよ」
返却担当者が言った。
「落ち着かれたら、いつでも戻れますから」
「本日で返却します」
リディアは宿舎鍵を渡した。
「ああ、それと。配達棚に保留されていた私信が一通あります。私物扱いでお返ししますね」
差し出された封筒は、まだ閉じたままだ。
リディアは宛名だけ確かめ、開かずに鞄へ入れた。
王宮正門へ向かう途中、記録庫の前を通った。
扉には、もう赤い封印札が貼られている。
足が一度だけ止まった。
母の記録も、あの奥にある。
何が消されているのか。なぜ消す必要があるのか。今のリディアには分からない。
それでも、戻らなかった。
門衛へ通行証を返し、王宮の外へ出る。
鞄の最上部には、まだ乾ききっていない受領印の控えがある。その下には、未開封の私信が一通。
今夜どこで眠るかも、明日から何をするかも決まっていない。
けれど、今夜呼び出される予定だけは、もうなかった。




