第10話 眠れない王宮
「発送を止めてください、殿下」
夜明け前の王太子執務室で、文官の声が落ちた。机の向こうに文官、背後に侍従。アルベルト・ルーゼンは署名したばかりの紙へ目を落とした。七夜ほとんど眠っていない目には、黒い文字の端が二重ににじんでいる。
リディアが王宮を去って七夜。眠れない夜が続き、アルベルトは彼女へ即時帰還を命じる使者を北辺へ送った。返事は、まだ届いていない。
だからこそ、公務はいつもどおり進めるつもりだった。
「何を止める」
「冬季輸送の文書です。施行日が、一か月早くなっております」
アルベルトは眉を寄せた。
「書記の転記ではないのか」
「読み上げでは正しい月を申し上げました」
文官が記録を差し出す。読み上げた日付は正しい。その下の承認欄だけが、一か月前になっていた。
自分の字だった。
署名の最後の線が二重になっている。乾く前のインクの上で、手が一度止まった跡まで残っていた。
昨夜も眠りかけるたび、名を呼ばない人影が背後へ並んだ。目を開ければ消える。閉じれば追ってくる。それを朝まで繰り返した。
「訂正文を用意しろ。発送前でよかった」
「承知しました」
文官が紙を下げる。
次の決裁箱が机の端に置かれたままだった。
アルベルトは手を伸ばしかけ、止めた。
今の一枚だけが偶然だったと、次の一枚で証明したかった。
けれど同じことをもう一度すれば、今度は発送前に止まる保証がない。
◇
朝の小礼拝室には、香の匂いより紙の匂いが残っていた。
セラフィナ・ベルの机には、黒い鐘と、その鐘から逃げる人影を描いた紙が並んでいる。色や形についての細かな書き込みはあるのに、薬も術具も、睡眠時間を測る時計もなかった。
「セラフィナ。昨夜のような夢を見ないようにしてくれ」
彼女の指が、紙の上で止まった。
「殿下。夢の意味なら、読めます」
「なら、以前と同じように眠らせてくれ」
「できません」
返事が短すぎて、アルベルトは聞き違えたかと思った。
「力が弱っているのか」
「違います」
セラフィナは一度だけ侍女へ目をやり、それからアルベルトを見た。
「私は殿下を眠らせたことがありません。読んだだけです」
礼拝室が妙に静かになった。
「何を言っている。私は何度も、君の祈りの後に眠った」
「私は、黒い鐘が恐怖の区切りを示すことや、追う人影が置き去りにしたものを示すことをお話ししました。でも、眠りへ導く処置はしていません」
アルベルトは机を見る。
夢の絵。解釈文。祈祷の時刻。
治療後の脈拍も、何時間眠ったかも、施術者の傷もない。
「では、誰がした」
セラフィナの唇がわずかに動いた。
「記録を確認してください。私が今、確かに言えるのは一つだけです」
彼女は視線を逸らさなかった。
「殿下を眠らせたのは、私ではありません」
◇
宮廷夢守局の記録庫は、昼でも薄暗かった。
背後の棚には、年度ごとに革表紙の帳簿が並んでいる。
王太子本人が来ると思っていなかったらしく、記録官は要約簿を三冊も抱えて現れた。
「夜間処置簿を見せろ」
夜間処置簿は、王族が眠っている間に誰がいつ処置を終えたか、完了印とともに残す帳簿だ。アルベルトは存在こそ知っていたが、自分の欄を開いたことはなかった。
「要約でしたら、こちらに」
「要約ではない。日付のあるものだ」
記録官は一瞬だけ棚の奥へ目をやった。
「原記録の一部は、局長管理となっております」
「まず、ここにあるものを出せ」
公務日誌も運ばせた。
最初の年を開く。
夜間処置、完了。翌朝、睡眠評価、良好。
担当欄には聖女儀礼の名。その下に、細い字がある。
補助員リディア・フェン、準備及び後処理。
次の月も同じだった。
祝賀使節を迎えた朝。良好。
補助員リディア・フェン、準備及び後処理。
冬の長い評議会を終えた翌朝。良好。
補助員リディア・フェン、準備及び後処理。
年を替える。
また同じ名がある。
アルベルトは頁をめくった。
良好。
補助員。
良好。
補助員。
十年分の朝が、同じ二つの言葉で並んでいた。
リディアは何も言わなかった。
そう思った瞬間、指が止まる。
言わなかったから、問題がないと思っていた。
反論しなかったから、続けることを承認していると思っていた。
だが、この帳簿には夜ごとの彼女の名がある。自分の朝には、毎回のように「良好」の印がある。
「補助であるなら」
声が思ったより低くなった。
「主担当は誰だ」
記録官は答えなかった。
「聞こえなかったのか」
「主担当欄には、儀礼名が記されているか、空欄でございます」
「処置内容は」
「要約にはございません」
「睡眠時間は」
「翌朝評価のみです」
「施術者の傷の記録は」
そこで、完全に沈黙した。
アルベルトは帳簿を閉じなかった。
「原記録を出せ。十年分だ」
◇
「閲覧の手配に混乱があったようですね」
オスカー・グレイヴは、怒鳴り声とは無縁の調子で扉の向こうから入ってきた。
記録官の肩が目に見えて下がる。
「局長。これはどういう記録だ」
「補助員という分類でしたら、職階上は正確です。治療は複数工程で行われます。聖女様が全工程をご覧になる必要はありません」
「セラフィナ本人が、自分は私を眠らせていないと言った」
「象徴を読み、儀礼を整え、必要な補助人員が処置を支える。一人が全体を把握していなくとも、治療は成立いたします」
以前なら、それで話を終えたかもしれない。
仕組みは局長が知っている。必要な人員は配置されている。それで王宮は動く。
だが今、目の前には十年分の同じ名があった。
「補助人員ではない。リディアだ」
オスカーは一拍だけ黙った。
すぐに穏やかな表情へ戻る。
「もちろんです、殿下。ただ、現在の不眠については別の懸念がございます」
「別の懸念?」
「北辺です。王宮管理の封印箱が開封され、夢守局の管理外で施術が続けられている。処置量の均衡が崩れ、王宮側へ影響が返っている可能性があります」
「可能性か」
「だからこそ監査が必要です。箱と記録を確認すれば、原因を切り分けられます」
分かりやすい説明だった。
北辺で規則が破られた。だから王宮が乱れた。そこを正せば元へ戻せる。
七夜眠れていない頭には、その単純さがひどく楽に思えた。
アルベルトは手元の帳簿へ視線を戻した。
「その前に、原記録だ」
「もちろん確認いたします。ただ、証拠が北辺で動かされる前に、現地を押さえる必要がございます」
答えは、また北辺へ戻った。
◇
夕刻の王太子執務室。机には、訂正済みの外交文書が戻っている。
今度は日付を指で追ってから署名した。
机の左には、記録庫から持ち出した夜間処置簿が一冊置いてある。
右には、オスカーが用意した北辺監査の派遣書があった。
北辺監査団は、違法施術と王宮管理物の開封を調べるため、夢守局が北辺へ送る一団だ。その責任者まで、すでに執務室へ呼ばれている。
「封印箱を破棄するな」
アルベルトは派遣書を読みながら言った。
「現地の記録は、見つけた状態を保存しろ。リディア・フェンを強制的に連行することも認めない。この三点を追記しろ」
監査団の責任者がオスカーを見る。
オスカーは静かに頷いた。
「殿下のご意向として添えましょう。ただし、監査そのものは局の権限ですでに発令しております」
止めるなら、王宮管理物の回収まで止めることになる。
その判断を、今の頭で即座に覆す材料はなかった。
「夜間処置簿は現状のまま保存しろ。原記録は私へ直接届ける。北辺へ出した使者の帰還報告も、局を通さず私へ回せ」
「承知いたしました」
書記が追記した派遣書を差し出す。
アルベルトは署名欄ではなく、紙の下端にある小さな印へ目を留めた。
出発印。
時刻を読む。
もう一度、左の夜間処置簿に挟んだ原記録提出命令の控えを見る。
監査団の出発印の方が早かった。
自分が「主担当は誰だ」と尋ねるより前から、北辺へ向かう準備だけは始まっていたことになる。
窓の外で、石畳を打つ車輪の音が遠ざかっていった。
北へ向かう音だった。




