第11話 夢を忘れない少女
王宮からは、封印箱の開封と相談所の施術を調べる監査団が北辺へ向かっていた。
それでも、リディア・フェンは今朝の予約票をいつもどおり机に並べた。待合には、予約札を握った相談者が三人と、記録係が一人いる。
リディアは次の相談票へ手を伸ばしかけて、その手を止めた。
入口で、擦り切れた靴の少女が息も継がずに話していたからだ。
「赤い革靴の女の人は、井戸の底に銀の魚がいて、茶色い紐靴のおじさんは、屋根の上に歯が生えてて、それから右だけ踵の減った人は――」
「ミナ」
少女を連れてきた宿屋の女主人が、疲れた声で遮った。
「この子です。ミナ・オルテ。客から聞いた夢を、何もかも覚えてるんです。昨日なんて、食堂で別の客の夢をそのまま……」
女主人は待合を見回し、声を落とした。
「頭から消してやることは、できませんか」
ミナの口が、もっと速く動いた。
「役に立つのもあります。王宮の夢も知ってます。鉱山の人のも、兵隊さんのも、名前が分からなくても靴なら――」
腕に抱えた紙片が床へ落ちる。
リディアは一枚拾った。夢の内容より先に、〈黒い短靴、左の紐が切れている〉と書いてある。
追い出されないために、持っているものを先に全部差し出す。
見覚えのある速さだった。
「個室へ移りましょう」
「消してくれるんですか」
「いいえ。記憶を消す施術はしません」
女主人の眉が寄った。
「でも、このままじゃ宿には置けません。あの子が悪いと言いたいんじゃないんです。客の秘密を守れない」
「その危険は残ります」
正しいことを一つ言えば済む話ではない。リディアは予約札を記録係へ戻し、再開時刻を書いてもらった。
「だから先に、何を覚えているかではなく、どこから来た記憶かを分けます」
個室で、リディアは白い紙へ三つの印を置いた。
「今朝、食べたものは?」
「黒パン。端っこ。ちょっと固かったです」
「昨夜、あなた自身が見た夢は?」
「宿の屋根から雪が落ちて、私の靴だけ埋まりました」
「では、誰かから聞いた夢を一つ」
ミナはそこで初めて、答える前に黙った。
「……赤い革靴の女の人。銀の魚」
リディアは三つの答えを別々の場所へ書いた。
「消す前に、あなたの記憶と他人の夢を分けましょう。覚えていることは罪ではありません」
ミナは紙を見たまま、小さく鼻をすすった。
「全部、言わなくていいんですか」
「はい。言ってよいか分からないものは、言わないまま残せます」
◇
昼の記録室は、廊下へ続く扉が開いたままだ。
机の向こうにミナ、その斜め後ろに記録係。リディアは二人きりにならない位置へ椅子を引いた。
紙には〈自分が見た〉〈誰かから聞いた〉〈持ち主不明〉の三つだけを書いた。
ミナの鉛筆だけは迷わない。
「これは宿の三番室の人。これは市場の魚屋さん。これはたぶん、昨日の――」
「たぶん、なら止めましょう」
「でも、空欄になります」
「空欄で構いません」
ミナは空いた欄へ斜線を引こうとした。
「分からない、と書けるのも記録です」
手が止まる。
リディアはその一か所だけ、短くうなずいた。
「今のはできています」
「……分からないのに?」
「分からないことを、分かったことにしませんでした」
相談者の許可がない夢は、中身を書かず、封をした記号だけ残すことにした。
「それじゃ、覚えてる意味なくないですか」
「意味を決めるのは、夢を話した本人です。必要になったら、その人に聞きます」
ミナは不満そうに口を尖らせたが、次の紙では勝手に名前を補わなかった。
全部を埋めなくても、机から追い出されない。
そのことを確かめるように、空欄を何度も見ていた。
◇
午後、食事室の丸机には椅子が一脚増えていた。
ミナは契約書より先に、それを数えた。
「私のですか」
「今はな」
ユリアンが答えた。彼は保護の書類と相談所の書類を、最初から別の束にしている。
「城で寝床と食事を用意する。相談所で働くかどうかは、それとは別だ」
「働きます。何でも覚えます。今日からでも」
「今日から働かなくても、寝床はなくならない」
ミナの返事が消えた。
さっきまで止める方が難しかったのに、今度は指先だけが膝の上で動いている。
リディアは湯気の立つ皿を、ミナの前へ少し寄せた。
「一週間は見学にしましょう。記録する力も使わなくて構いません」
「何もしなくても?」
「見学するのも手順です。その後、まだ学びたいなら弟子候補になれます」
弟子候補になっても、能力を使うことが食事や寝床の代金にはならない。一週間の見学のあと、ミナが望んだときだけ夢守りの手順を学ぶ。
ミナは契約書を見た。次に椅子へ目を移し、最後に皿を見た。
「……先に食べてもいいですか」
「もちろんです」
スプーンが一口目を運ぶまで、誰も仕事の話をしなかった。
リディアはそれを見て、自分の胸の奥にあった力まで少し抜けるのを感じた。
役に立ってから食べる。
頼まれたことを終えてから休む。
似た順番を、自分も長く当然だと思っていた。
「先生」
急に呼ばれ、リディアは顔を上げた。
「まだ弟子候補です」
「じゃあ、候補の先生」
ユリアンがわずかに目を伏せた。笑ったのかもしれない。
リディアは訂正を一度だけ諦めた。
◇
夕刻、分類を終えた紙の中に、一枚だけ置き場所の決まらないものが残った。
記録室の扉の外には記録係がいる。リディアはミナと向かい合い、紙にはまだ〈持ち主不明〉とだけ書いた。
「王宮には行ったことがないんですね」
「ないです」
「では、知っている場所の名前は付けず、見えた順に話してください」
ミナは目を閉じた。
「長い廊下。窓が並んでます。床に、細い線の模様。次に、閉まってる記録庫。鍵穴が二つ」
王宮で働いていたリディアには、床の模様と窓の並びに見覚えがあった。
それでも、紙には王宮と書かなかった。
「次は?」
「男の人。寝台にいるのに、目が開いてます。ずっと眠れてないみたいで……そのあと、窓の外」
ミナは新しい紙を引き寄せ、黒い輪を描いた。
真円ではない。一部が欠けている。
「先生。この月、丸くないです」
欠けた縁は、遠くから見た鐘の口にも似ていた。
リディアは黒い鐘のことを思い出したが、その言葉を記録の結論にはしなかった。
「似ています。でも、同じものとは書きません」
「分からない、ですか」
「はい」
ミナは少し考えてから、月の横へ自分で書いた。
〈持ち主不明。黒い月。丸ではない〉。
リディアは原紙を封じ、写しを別々の保管先へ回す封筒に分けた。
一人の頭にも、一つの棚にも、全部は置かない。
最後に残った空欄を、ミナはもう埋めようとしなかった。
ただ、欠けた黒い月だけが紙の上に残っていた。




