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もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

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12/30

第12話 帰還兵の靴音

「昨夜、子どもの顔のすぐ横を腕が通りました」


 公開相談所の午後。リディア・フェンは机を挟んで帰還兵ロルフと向かい合い、その妻は彼の隣、記録係は少し離れた壁際に座っていた。見学中のミナは別室にいる。ロルフが同席を望んでいないからだ。


 床には脱いだ軍靴が一足、出口へ爪先を揃えて置かれていた。靴底に詰まった乾いた赤土は、雪と黒土の多い北辺ではまず見ない色だ。ロルフは扉へ背を向けない角度で、椅子に浅く腰掛けている。両手は膝に置かれていたが、廊下で誰かが歩くたび、右の指だけが先に動いた。


「靴音は、どこから聞こえますか」


「門からだ。だんだん近づいて、寝台の周りを回る。一足だけ、踵を引きずる音がする」


「その音がした後に、腕が動くのですね」


「起こそうとしただけなんです。あの人も、起きてからずっと謝っていて。でも、次は当たるかもしれません」


 妻が膝の上で前掛けを握った。ロルフの右手が止まる。


「俺を縛ってくれ」


 声は低かった。頼みというより、自分へ言い渡す処分に近い。


「柱でも寝台でもいい。眠っている間だけで済む」


「縛ることを、治療にはしません」


 リディアは机の紙を二枚に分けた。


 一枚には今夜の安全策を書く。妻子とは寝室を分けること。刃物と重い道具は別室へ移すこと。妻は扉の外から三度叩き、返事がなければ一人で入らないこと。


 もう一枚には、夢へ入る条件を書く。


「夢の中で、亡くなった方の言葉をこちらから作ることはできません。途中で止めることもできます」


 ロルフは紙ではなく、床の軍靴を見た。


「俺だけ帰った。毎晩あいつらが来る。せめて夢の中で、全員に謝りたい」


「聞こえた言葉を、実際に起きた順に確かめます。赦す言葉は、私には作れません」


 妻の指が前掛けへ深く沈んだ。早く眠らせてほしいという願いも、死者の返事を作らないという条件も、どちらも消えない。


「夢を消すことは」


「今夜だけ音を塞ぐことはできます。けれど、何を聞いて腕が動いたのか分からないままなら、別の音で同じことが起きます」


「なら、あいつらを出してくれ。俺が謝る」


「出すのではありません。残っている記憶を、あなたと一緒に辿ります」


 ロルフの靴先が床を擦り、乾いた音を立てた。


「……俺が止めろと言ったら、止まるのか」


「止まります。理由も要りません」


 ロルフはようやく紙へ手を伸ばした。署名を終えても、軍靴の爪先は出口を向いたままだった。



 同じ日の夕刻、相談所奥の施術室で、ロルフは寝台に横たわった。妻と記録係は扉の外にいる。リディアは枕元の椅子へ座り、止めるときは右手を二度握るという合図を、もう一度だけ確かめた。


 夢へ入ると、夜の戦場だった。


 冷たい雨が赤土を泥へ変え、顔の見えない隊友たちが道の向こうから歩いてくる。濡れた外套も、傷も、名前も見えない。ただ軍靴の音だけが、一歩ごとに近づいてきた。


 現実の寝台で決めた停止合図を思い出させるため、リディアはロルフの右手が見える位置に立った。指はまだ開いている。進めるという選択は、いまも彼の側にあった。


 ロルフは列の後ろで膝をついた。


「悪かった」


 足音が一段大きくなる。


「俺だけ帰った。置いていった。悪かった」


 黒い夢糸が軍靴から伸び、ロルフの腕へ巻きついた。残りの糸は、リディアの袖の下にある古い夜傷を探ってくる。


 引き受ければ静かになる。王宮で何度も選んだ方法が、身体のほうから先に浮かんだ。


 リディアは糸へ手を伸ばさず、泥へ半ば埋もれた足跡を見る。どれも同じではない。一足だけ、右の踵が欠けていた。


「最後にあなたへ命じた言葉を、聞こえた順に戻しましょう」


「命令なんてなかった。俺は逃げた」


「では、最後に持ち上げたものは何ですか」


「何も。走っただけだ」


「左の肩が下がっています。走る前に、そこへ何を掛けましたか」


 泥の中から、破れた布の端が現れた。ロルフの左手は、見えない重さを持ち上げるように下がる。


「担架だ」


「誰が乗っていましたか」


「脚をやられた兵だ。動けなかった」


「右手は?」


「札だ。あいつが押しつけた」


 掌に、小さな金属札が現れた。認識票――兵士の名と所属を刻み、死者も生者も誰であるかを残す札だ。角がロルフの皮膚へ食い込み、赤い跡を作っている。


「そのとき、踵の欠けた軍靴はどこにありましたか」


 靴音が乱れた。


 泥の道が裂け、崩れかけた橋が現れる。こちら側にはロルフと担架の負傷兵。向こう側には、右の踵が欠けた軍靴の隊友がいた。


「ロルフ。そいつを連れて帰れ」


 靴音に潰されていた声が戻った。


「でも、お前が」


「橋が落ちる。戻るな。連れて帰れ」


 ロルフの掌で、認識票が鳴った。


「俺は……担架を持った」


 足音はまだ前から迫っている。


「札を握った。治療所まで走った。あいつの家族にも、返した」


「治療所へ着いたとき、担架の兵は」


「生きていた。三日後には、自分で水を飲んだ」


「認識票を渡したときは」


「母親が、あいつの名前を読んだ」


 泥の向こうに、朝の野戦治療所が重なった。担架の兵が息をし、皺のある手が認識票を受け取る。ロルフが生きて帰った後に行ったことが、初めて一続きの記憶になった。


「逃げたんじゃない」


 ロルフは顔を上げた。


「連れて帰れと言われて、連れて帰った。俺は、あいつに託された役目を果たした」


 隊友が赦したわけではない。死者が帰るわけでもない。ロルフが橋を渡り直せるわけでもなかった。


 それでも、踵の欠けた軍靴は彼を追い越し、背後へ回った。


 一足ずつ、ほかの靴音も続く。


「聞こえる」


 ロルフは立ち上がった。


「でも、前じゃない。後ろを歩いてる」


 夢糸が腕からほどけた。リディアの夜傷へ伸びていた糸も、吸収されないまま泥へ落ちた。



 施術室へ戻ると、窓の外は薄暮だった。記録係が夢糸の流れを確かめ、術者への移りはなかったと欄へ書く。妻はその文字ではなく、夫の顔で返事を待っている。


「今夜も、靴音は消えないと思います」


 ロルフは目を閉じ、しばらく耳を澄ませた。


「聞こえる。でも、前じゃない。後ろを歩いてる」


 妻の手から、前掛けの皺がゆっくりほどけた。


「朝になったら、あいつの家へ手紙を書く。謝るだけじゃなく、最後に何を言われたかも書く」


「返事を求める手紙ですか」


「いや。あいつが最後まで兵を帰そうとしたことを、俺が黙っていたくない」


 その選択を記録係が書き留める。今夜は別室で眠ることも、妻が一人で起こしに入らないことも変えない。夢が変わっても、現実の安全策まで消してはならない。


 リディアが施術記録を閉じようとしたとき、ロルフの指が紙の端を押さえた。


「まだ、ひとつある」


 彼の記憶へ、雨を弾く黒い外套が差し込んだ。野戦治療所で眠れない兵士の枕元へ、王宮の制服を着た男が細い器具を置いている。兵士の胸元から伸びた夢糸が器具の先で固まり、黒銀色の石になって箱へ落ちた。


 宮廷夢守局採取官。強い恐怖が集まる場所で夢晶石を回収していた王宮職員を、リディアは喉元の留め具で知っていた。右側の欠けた冠と星が、封印箱に残っていた印と重なる。


「この男の顔を覚えていますか」


「いや。そこだけだ」


 ロルフは自分の喉元を指した。


「光ってた。あとは……この後から、ところどころ思い出せない」


 確かめるべきことは多い。けれど、今日の同意は治療のためのものだ。戦場採取の調査へ、そのまま使うことはできない。


「続きは、明日あらためて伺ってもよろしいですか。断っても、今日の治療結果は変わりません」


 ロルフは少し迷ってから、頷いた。


 その瞬間、リディアの左腕に古い火が走った。採取官の印を見た場所から、袖の下の夜傷が脈打つ。


 彼女は記録用紙を右手だけで揃え、熱を持つ腕を机の下へ隠した。


「まずは、今夜の手順を守ってください」


 戸口から夕食を運ぶ足音が近づいてくる。昼の皿にもほとんど手をつけていないことを思い出したが、いま立てば袖がずれる。


 リディアは皿を置く場所を空けず、採取官の留め具を記録の最後へ書き足した。左腕の熱は、紙を一枚重ねても消えなかった。

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