第12話 帰還兵の靴音
「昨夜、子どもの顔のすぐ横を腕が通りました」
公開相談所の午後。リディア・フェンは机を挟んで帰還兵ロルフと向かい合い、その妻は彼の隣、記録係は少し離れた壁際に座っていた。見学中のミナは別室にいる。ロルフが同席を望んでいないからだ。
床には脱いだ軍靴が一足、出口へ爪先を揃えて置かれていた。靴底に詰まった乾いた赤土は、雪と黒土の多い北辺ではまず見ない色だ。ロルフは扉へ背を向けない角度で、椅子に浅く腰掛けている。両手は膝に置かれていたが、廊下で誰かが歩くたび、右の指だけが先に動いた。
「靴音は、どこから聞こえますか」
「門からだ。だんだん近づいて、寝台の周りを回る。一足だけ、踵を引きずる音がする」
「その音がした後に、腕が動くのですね」
「起こそうとしただけなんです。あの人も、起きてからずっと謝っていて。でも、次は当たるかもしれません」
妻が膝の上で前掛けを握った。ロルフの右手が止まる。
「俺を縛ってくれ」
声は低かった。頼みというより、自分へ言い渡す処分に近い。
「柱でも寝台でもいい。眠っている間だけで済む」
「縛ることを、治療にはしません」
リディアは机の紙を二枚に分けた。
一枚には今夜の安全策を書く。妻子とは寝室を分けること。刃物と重い道具は別室へ移すこと。妻は扉の外から三度叩き、返事がなければ一人で入らないこと。
もう一枚には、夢へ入る条件を書く。
「夢の中で、亡くなった方の言葉をこちらから作ることはできません。途中で止めることもできます」
ロルフは紙ではなく、床の軍靴を見た。
「俺だけ帰った。毎晩あいつらが来る。せめて夢の中で、全員に謝りたい」
「聞こえた言葉を、実際に起きた順に確かめます。赦す言葉は、私には作れません」
妻の指が前掛けへ深く沈んだ。早く眠らせてほしいという願いも、死者の返事を作らないという条件も、どちらも消えない。
「夢を消すことは」
「今夜だけ音を塞ぐことはできます。けれど、何を聞いて腕が動いたのか分からないままなら、別の音で同じことが起きます」
「なら、あいつらを出してくれ。俺が謝る」
「出すのではありません。残っている記憶を、あなたと一緒に辿ります」
ロルフの靴先が床を擦り、乾いた音を立てた。
「……俺が止めろと言ったら、止まるのか」
「止まります。理由も要りません」
ロルフはようやく紙へ手を伸ばした。署名を終えても、軍靴の爪先は出口を向いたままだった。
◇
同じ日の夕刻、相談所奥の施術室で、ロルフは寝台に横たわった。妻と記録係は扉の外にいる。リディアは枕元の椅子へ座り、止めるときは右手を二度握るという合図を、もう一度だけ確かめた。
夢へ入ると、夜の戦場だった。
冷たい雨が赤土を泥へ変え、顔の見えない隊友たちが道の向こうから歩いてくる。濡れた外套も、傷も、名前も見えない。ただ軍靴の音だけが、一歩ごとに近づいてきた。
現実の寝台で決めた停止合図を思い出させるため、リディアはロルフの右手が見える位置に立った。指はまだ開いている。進めるという選択は、いまも彼の側にあった。
ロルフは列の後ろで膝をついた。
「悪かった」
足音が一段大きくなる。
「俺だけ帰った。置いていった。悪かった」
黒い夢糸が軍靴から伸び、ロルフの腕へ巻きついた。残りの糸は、リディアの袖の下にある古い夜傷を探ってくる。
引き受ければ静かになる。王宮で何度も選んだ方法が、身体のほうから先に浮かんだ。
リディアは糸へ手を伸ばさず、泥へ半ば埋もれた足跡を見る。どれも同じではない。一足だけ、右の踵が欠けていた。
「最後にあなたへ命じた言葉を、聞こえた順に戻しましょう」
「命令なんてなかった。俺は逃げた」
「では、最後に持ち上げたものは何ですか」
「何も。走っただけだ」
「左の肩が下がっています。走る前に、そこへ何を掛けましたか」
泥の中から、破れた布の端が現れた。ロルフの左手は、見えない重さを持ち上げるように下がる。
「担架だ」
「誰が乗っていましたか」
「脚をやられた兵だ。動けなかった」
「右手は?」
「札だ。あいつが押しつけた」
掌に、小さな金属札が現れた。認識票――兵士の名と所属を刻み、死者も生者も誰であるかを残す札だ。角がロルフの皮膚へ食い込み、赤い跡を作っている。
「そのとき、踵の欠けた軍靴はどこにありましたか」
靴音が乱れた。
泥の道が裂け、崩れかけた橋が現れる。こちら側にはロルフと担架の負傷兵。向こう側には、右の踵が欠けた軍靴の隊友がいた。
「ロルフ。そいつを連れて帰れ」
靴音に潰されていた声が戻った。
「でも、お前が」
「橋が落ちる。戻るな。連れて帰れ」
ロルフの掌で、認識票が鳴った。
「俺は……担架を持った」
足音はまだ前から迫っている。
「札を握った。治療所まで走った。あいつの家族にも、返した」
「治療所へ着いたとき、担架の兵は」
「生きていた。三日後には、自分で水を飲んだ」
「認識票を渡したときは」
「母親が、あいつの名前を読んだ」
泥の向こうに、朝の野戦治療所が重なった。担架の兵が息をし、皺のある手が認識票を受け取る。ロルフが生きて帰った後に行ったことが、初めて一続きの記憶になった。
「逃げたんじゃない」
ロルフは顔を上げた。
「連れて帰れと言われて、連れて帰った。俺は、あいつに託された役目を果たした」
隊友が赦したわけではない。死者が帰るわけでもない。ロルフが橋を渡り直せるわけでもなかった。
それでも、踵の欠けた軍靴は彼を追い越し、背後へ回った。
一足ずつ、ほかの靴音も続く。
「聞こえる」
ロルフは立ち上がった。
「でも、前じゃない。後ろを歩いてる」
夢糸が腕からほどけた。リディアの夜傷へ伸びていた糸も、吸収されないまま泥へ落ちた。
◇
施術室へ戻ると、窓の外は薄暮だった。記録係が夢糸の流れを確かめ、術者への移りはなかったと欄へ書く。妻はその文字ではなく、夫の顔で返事を待っている。
「今夜も、靴音は消えないと思います」
ロルフは目を閉じ、しばらく耳を澄ませた。
「聞こえる。でも、前じゃない。後ろを歩いてる」
妻の手から、前掛けの皺がゆっくりほどけた。
「朝になったら、あいつの家へ手紙を書く。謝るだけじゃなく、最後に何を言われたかも書く」
「返事を求める手紙ですか」
「いや。あいつが最後まで兵を帰そうとしたことを、俺が黙っていたくない」
その選択を記録係が書き留める。今夜は別室で眠ることも、妻が一人で起こしに入らないことも変えない。夢が変わっても、現実の安全策まで消してはならない。
リディアが施術記録を閉じようとしたとき、ロルフの指が紙の端を押さえた。
「まだ、ひとつある」
彼の記憶へ、雨を弾く黒い外套が差し込んだ。野戦治療所で眠れない兵士の枕元へ、王宮の制服を着た男が細い器具を置いている。兵士の胸元から伸びた夢糸が器具の先で固まり、黒銀色の石になって箱へ落ちた。
宮廷夢守局採取官。強い恐怖が集まる場所で夢晶石を回収していた王宮職員を、リディアは喉元の留め具で知っていた。右側の欠けた冠と星が、封印箱に残っていた印と重なる。
「この男の顔を覚えていますか」
「いや。そこだけだ」
ロルフは自分の喉元を指した。
「光ってた。あとは……この後から、ところどころ思い出せない」
確かめるべきことは多い。けれど、今日の同意は治療のためのものだ。戦場採取の調査へ、そのまま使うことはできない。
「続きは、明日あらためて伺ってもよろしいですか。断っても、今日の治療結果は変わりません」
ロルフは少し迷ってから、頷いた。
その瞬間、リディアの左腕に古い火が走った。採取官の印を見た場所から、袖の下の夜傷が脈打つ。
彼女は記録用紙を右手だけで揃え、熱を持つ腕を机の下へ隠した。
「まずは、今夜の手順を守ってください」
戸口から夕食を運ぶ足音が近づいてくる。昼の皿にもほとんど手をつけていないことを思い出したが、いま立てば袖がずれる。
リディアは皿を置く場所を空けず、採取官の留め具を記録の最後へ書き足した。左腕の熱は、紙を一枚重ねても消えなかった。




