表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/34

第13話 腕に残った夜

 昼食のスープには、もう薄い膜が張っていた。


 北辺城の記録室。帰還兵ロルフの治療から一夜が明けた昼、ユリアン・ノルドは報告書より先に、机の端へ置かれた盆を見ていた。


 向かいではリディア・フェンが紙をめくっている。右手だけが妙に速い。左腕は机の下へ引かれ、袖口は一度も見えなかった。


「ロルフが確実に覚えているのは、黒い外套と留め具です。冠と星の意匠で、右側が欠けていました。採取官の顔は分かりません」


 声はいつもどおりだった。だからこそ、ユリアンには気になった。


「封印箱の印と似ています。ただし、そこは私の認識です。ロルフ本人の証言と混ぜないでください。戦場での採取について追加で聞くなら、今日あらためて本人の同意を取ります」


「分かった」


 記録係が筆を走らせる。


 昨日、ロルフは夢の中で、置いてきた隊友から「連れて帰れ」と命じられていたことを思い出した。リディアは悪夢を引き受けず、彼自身の言葉で生還の意味をほどいた。


 その治療の最後に現れたのが、王宮の採取官を示す留め具だった。


 そして、リディアの左腕が熱を持った。


 そこまでが報告書にある。


 今朝から何も食べていないことは、どこにもない。


「リディア殿」


「はい」


「報告は続けていい。ただ、その前に聞く」


 休め。


 医師を呼ぶ。


 公爵としてなら、短く命じれば済む言葉が二つ浮かんだ。


 ユリアンはどちらも使わなかった。


「診察を受ける。先に食べる。休む。今は何も説明しない。四つある」


 リディアの指が、紙の角で止まった。


「今すぐ答えなくていい」


「……記録を終えれば休みます」


「それは五つ目だな」


 思ったより乾いた言い方になった。


 リディアが少しだけ目を上げる。


「仕事が終わるまで、自分のことは後にする。君がよく選ぶ案だ」


「記録は、監査団が来る前に残す必要があります」


「同意する。だから報告は止めない」


 ユリアンは盆のスープを見た。


「食べないことまで、報告の条件にはしていない」


 リディアは返事をしなかった。


 だが、左袖をさらに隠すこともしなかった。



 隣は小さな応接室だった。記録係には扉の外へ下がってもらった。


 ユリアンは白紙を一枚、リディアとの間へ置いた。


「診察を選ぶなら、条件を先に決めよう」


「条件、ですか」


「どこまで話すか。どこまで見せるか。誰が記録を見るか」


 リディアは紙ではなく、ユリアンを見た。


「診察を受ければ、施術から外されますか」


 それでようやく、彼女が何を警戒しているのか分かった。


 傷を見せることは、治してもらうためではない。


 王宮では、まだ働ける身体かを判定されるためのものだったのだろう。


「外さない」


 ユリアンは短く答え、続けて書いた。


 医師へ伝えるのは症状だけでもよい。


 見せる範囲は本人が決める。


 診察記録のうち、残す範囲も本人が選ぶ。


 断っても、現在の契約と報酬は変えない。


 最後に、署名欄の横へ小さな空欄を残す。


「ここは?」


「見せない範囲だ。書かなくてもいい」


 リディアはしばらくそこを見ていた。


「……左腕だけ、限定で診察を受けます。その後は休みます」


「分かった」


 ユリアンは手を伸ばさなかった。


 何があるのか知りたい気持ちと、自分に見る権利があるかどうかは、別の話だった。



 医務室では、リディアが決めたとおり、ユリアンと記録係は扉際に残った。


 医師が袖を上げてもよい範囲をもう一度尋ねる。リディアが頷いてから、左腕の一部だけが外気へ出た。


 ユリアンは息を止めかけた。


 新しい傷ではない。


 古い線がいくつも重なっていた。そのうち何本かだけが赤く、周囲の皮膚まで熱を持っている。


「これは以前の施術で――」


 リディアが説明を始める。


「何年前のものが何本、どの依頼で――」


「今日は数えません」


 医師は机の端にあった細い定規を脇へ置いた。


 残したのは体温計と水差しだった。


「昨夜から変わったことだけ教えてください。熱。痛み。息苦しさ。眠れたかどうか」


 リディアが黙る。


 やがて、熱を持った時刻と、採取官の留め具を見た直後だったことを答えた。


 医師は赤い傷へ触れる前にも許可を取り、短く診た。


「新しい夜傷は増えていません。印を見た直後に反応したなら、同じ系統の術式へ古い傷が反応した可能性はあります」


「原因は王宮の術式ですか」


 ユリアンが聞く。


「そこまでは言えません。似た時刻に起きた。それ以上は、まだです」


 断定されなかったことに、むしろ安堵した。


 分からないものを、分かったことにしない。


 それだけで次の選択肢が残る。


「今日は炎症を抑える薬を。食事を取って、休んでください」


 リディアは腕を隠し直した。


「原因が分からなくても、休むのですか」


「原因が分かるまで熱を上げておく治療はありませんよ」


 医師の返事はあっさりしていた。


 ユリアンの胸に残ったのは、怒りだった。


 何本あるのか。


 何晩分なのか。


 誰がそれを当然として見ていたのか。


 問いはどれも、今の彼女を治さない。


「今日、悪化させないために必要なことを記録してくれ」


 ユリアンはそれだけを頼んだ。



 夕方、執務室へ戻ったリディアの前には、空になった薬杯と、半分まで減った食事の皿があった。


 完全ではない。


 だが、昼よりはいい。


 ユリアンは契約書の末尾を開いた。


「施術前後の診察。体調不良の申告。食事。最低限の休養。途中で中止した日の報酬を減らさないこと」


 一項ずつ読み上げる。


 リディアの眉がわずかに寄った。


「施術をしていない時間まで、勤務として扱うのですか」


「扱う」


「ですが、休んでいる間は成果を出していません」


「昨日の成果には、新しい夜傷が増えなかったことも入れた」


 十二分眠れた朝から、二人でそう決めてきた。


「なら、その状態を翌日まで守る時間を、成果の外へ追い出す理由はない」


 リディアは契約書へ視線を落とした。


 ユリアンは見出しだけを書かずに残していた。


 名前をつけるのは、彼女がいいと思った。


「治療を受ける時間も、君の仕事を守る時間だ。北辺では、そう扱いたい」


「私が同意するなら、ですか」


「そうだ」


 少し間があった。


 リディアはペンを取る。


 空いていた見出しに、丁寧な字で書いた。


 『治療を受ける権利』


 その下へ、自分で一行足す。


「診察を受けたかどうかは医師にも確認してもらいます。休養については記録係にも。二人だけの約束にしたくありません」


 ユリアンは一瞬、返事を忘れた。


 守るための条項を増やしたつもりだった。


 彼女はそれを、誰でも確かめられる仕組みに変えた。


「賛成する」


 二人の署名だけだった契約の下に、医師と記録係の小さな確認欄が増えた。



 夜、客室から呼ばれた。


 扉は開いたままだった。廊下には使用人の足音があり、室内の机には古い薬箱が置かれている。


「母の塗り薬が残っていれば、医師に成分を見てもらえると思って」


 リディアはそう言って、箱を自分の手で開いた。


 亡母エレナの遺品だった。


 薬瓶を包んでいた布を持ち上げたとき、内蓋の隅で銀色が光った。


 ユリアンは身を寄せかけ、止まった。


「見ても?」


「はい」


 許可を得てから、近づく。


 細い銀糸が輪を作っていた。


 今の北辺公家の紋より細い。糸は十二本。薬瓶が擦れていたところだけ、古い銀がまだ光を返している。


 飾りとしてしまわれていた箱ではない。


 長く使われていた。


「ユリアン様」


「北辺公家の古い家印だ」


 リディアの指が、箱の縁で止まった。


「母は、北辺に来たことがあるのでしょうか」


「分からない」


 ユリアンはすぐに答えた。


 知らないことを、家の名で埋める気はなかった。


「今の台帳にはない。封じた古い家蔵記録を見なければ、誰にこの箱を渡したのかも分からない」


「その記録を、見せていただけますか」


「一緒に調べよう。開ける手順から記録する」


 リディアは小さく頷いた。


 昼には隠されていた左腕が、今は机の上にあった。薬箱へ触れる手はまだ慎重だったが、少なくとも仕事の下へ押し込まれてはいない。


 そのとき、ユリアンの背に寒気が走った。


 一瞬だけだ。


 暖炉の火は落ちていない。窓も閉じている。


 ユリアンは指先を握り、何事もなかったように薬箱の銀糸へ視線を戻した。


 任務に支障はない。


 その寒気を、彼はそういう一行へ押し込めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ