第13話 腕に残った夜
昼食のスープには、もう薄い膜が張っていた。
北辺城の記録室。帰還兵ロルフの治療から一夜が明けた昼、ユリアン・ノルドは報告書より先に、机の端へ置かれた盆を見ていた。
向かいではリディア・フェンが紙をめくっている。右手だけが妙に速い。左腕は机の下へ引かれ、袖口は一度も見えなかった。
「ロルフが確実に覚えているのは、黒い外套と留め具です。冠と星の意匠で、右側が欠けていました。採取官の顔は分かりません」
声はいつもどおりだった。だからこそ、ユリアンには気になった。
「封印箱の印と似ています。ただし、そこは私の認識です。ロルフ本人の証言と混ぜないでください。戦場での採取について追加で聞くなら、今日あらためて本人の同意を取ります」
「分かった」
記録係が筆を走らせる。
昨日、ロルフは夢の中で、置いてきた隊友から「連れて帰れ」と命じられていたことを思い出した。リディアは悪夢を引き受けず、彼自身の言葉で生還の意味をほどいた。
その治療の最後に現れたのが、王宮の採取官を示す留め具だった。
そして、リディアの左腕が熱を持った。
そこまでが報告書にある。
今朝から何も食べていないことは、どこにもない。
「リディア殿」
「はい」
「報告は続けていい。ただ、その前に聞く」
休め。
医師を呼ぶ。
公爵としてなら、短く命じれば済む言葉が二つ浮かんだ。
ユリアンはどちらも使わなかった。
「診察を受ける。先に食べる。休む。今は何も説明しない。四つある」
リディアの指が、紙の角で止まった。
「今すぐ答えなくていい」
「……記録を終えれば休みます」
「それは五つ目だな」
思ったより乾いた言い方になった。
リディアが少しだけ目を上げる。
「仕事が終わるまで、自分のことは後にする。君がよく選ぶ案だ」
「記録は、監査団が来る前に残す必要があります」
「同意する。だから報告は止めない」
ユリアンは盆のスープを見た。
「食べないことまで、報告の条件にはしていない」
リディアは返事をしなかった。
だが、左袖をさらに隠すこともしなかった。
◇
隣は小さな応接室だった。記録係には扉の外へ下がってもらった。
ユリアンは白紙を一枚、リディアとの間へ置いた。
「診察を選ぶなら、条件を先に決めよう」
「条件、ですか」
「どこまで話すか。どこまで見せるか。誰が記録を見るか」
リディアは紙ではなく、ユリアンを見た。
「診察を受ければ、施術から外されますか」
それでようやく、彼女が何を警戒しているのか分かった。
傷を見せることは、治してもらうためではない。
王宮では、まだ働ける身体かを判定されるためのものだったのだろう。
「外さない」
ユリアンは短く答え、続けて書いた。
医師へ伝えるのは症状だけでもよい。
見せる範囲は本人が決める。
診察記録のうち、残す範囲も本人が選ぶ。
断っても、現在の契約と報酬は変えない。
最後に、署名欄の横へ小さな空欄を残す。
「ここは?」
「見せない範囲だ。書かなくてもいい」
リディアはしばらくそこを見ていた。
「……左腕だけ、限定で診察を受けます。その後は休みます」
「分かった」
ユリアンは手を伸ばさなかった。
何があるのか知りたい気持ちと、自分に見る権利があるかどうかは、別の話だった。
◇
医務室では、リディアが決めたとおり、ユリアンと記録係は扉際に残った。
医師が袖を上げてもよい範囲をもう一度尋ねる。リディアが頷いてから、左腕の一部だけが外気へ出た。
ユリアンは息を止めかけた。
新しい傷ではない。
古い線がいくつも重なっていた。そのうち何本かだけが赤く、周囲の皮膚まで熱を持っている。
「これは以前の施術で――」
リディアが説明を始める。
「何年前のものが何本、どの依頼で――」
「今日は数えません」
医師は机の端にあった細い定規を脇へ置いた。
残したのは体温計と水差しだった。
「昨夜から変わったことだけ教えてください。熱。痛み。息苦しさ。眠れたかどうか」
リディアが黙る。
やがて、熱を持った時刻と、採取官の留め具を見た直後だったことを答えた。
医師は赤い傷へ触れる前にも許可を取り、短く診た。
「新しい夜傷は増えていません。印を見た直後に反応したなら、同じ系統の術式へ古い傷が反応した可能性はあります」
「原因は王宮の術式ですか」
ユリアンが聞く。
「そこまでは言えません。似た時刻に起きた。それ以上は、まだです」
断定されなかったことに、むしろ安堵した。
分からないものを、分かったことにしない。
それだけで次の選択肢が残る。
「今日は炎症を抑える薬を。食事を取って、休んでください」
リディアは腕を隠し直した。
「原因が分からなくても、休むのですか」
「原因が分かるまで熱を上げておく治療はありませんよ」
医師の返事はあっさりしていた。
ユリアンの胸に残ったのは、怒りだった。
何本あるのか。
何晩分なのか。
誰がそれを当然として見ていたのか。
問いはどれも、今の彼女を治さない。
「今日、悪化させないために必要なことを記録してくれ」
ユリアンはそれだけを頼んだ。
◇
夕方、執務室へ戻ったリディアの前には、空になった薬杯と、半分まで減った食事の皿があった。
完全ではない。
だが、昼よりはいい。
ユリアンは契約書の末尾を開いた。
「施術前後の診察。体調不良の申告。食事。最低限の休養。途中で中止した日の報酬を減らさないこと」
一項ずつ読み上げる。
リディアの眉がわずかに寄った。
「施術をしていない時間まで、勤務として扱うのですか」
「扱う」
「ですが、休んでいる間は成果を出していません」
「昨日の成果には、新しい夜傷が増えなかったことも入れた」
十二分眠れた朝から、二人でそう決めてきた。
「なら、その状態を翌日まで守る時間を、成果の外へ追い出す理由はない」
リディアは契約書へ視線を落とした。
ユリアンは見出しだけを書かずに残していた。
名前をつけるのは、彼女がいいと思った。
「治療を受ける時間も、君の仕事を守る時間だ。北辺では、そう扱いたい」
「私が同意するなら、ですか」
「そうだ」
少し間があった。
リディアはペンを取る。
空いていた見出しに、丁寧な字で書いた。
『治療を受ける権利』
その下へ、自分で一行足す。
「診察を受けたかどうかは医師にも確認してもらいます。休養については記録係にも。二人だけの約束にしたくありません」
ユリアンは一瞬、返事を忘れた。
守るための条項を増やしたつもりだった。
彼女はそれを、誰でも確かめられる仕組みに変えた。
「賛成する」
二人の署名だけだった契約の下に、医師と記録係の小さな確認欄が増えた。
◇
夜、客室から呼ばれた。
扉は開いたままだった。廊下には使用人の足音があり、室内の机には古い薬箱が置かれている。
「母の塗り薬が残っていれば、医師に成分を見てもらえると思って」
リディアはそう言って、箱を自分の手で開いた。
亡母エレナの遺品だった。
薬瓶を包んでいた布を持ち上げたとき、内蓋の隅で銀色が光った。
ユリアンは身を寄せかけ、止まった。
「見ても?」
「はい」
許可を得てから、近づく。
細い銀糸が輪を作っていた。
今の北辺公家の紋より細い。糸は十二本。薬瓶が擦れていたところだけ、古い銀がまだ光を返している。
飾りとしてしまわれていた箱ではない。
長く使われていた。
「ユリアン様」
「北辺公家の古い家印だ」
リディアの指が、箱の縁で止まった。
「母は、北辺に来たことがあるのでしょうか」
「分からない」
ユリアンはすぐに答えた。
知らないことを、家の名で埋める気はなかった。
「今の台帳にはない。封じた古い家蔵記録を見なければ、誰にこの箱を渡したのかも分からない」
「その記録を、見せていただけますか」
「一緒に調べよう。開ける手順から記録する」
リディアは小さく頷いた。
昼には隠されていた左腕が、今は机の上にあった。薬箱へ触れる手はまだ慎重だったが、少なくとも仕事の下へ押し込まれてはいない。
そのとき、ユリアンの背に寒気が走った。
一瞬だけだ。
暖炉の火は落ちていない。窓も閉じている。
ユリアンは指先を握り、何事もなかったように薬箱の銀糸へ視線を戻した。
任務に支障はない。
その寒気を、彼はそういう一行へ押し込めた。




