第14話 眠っているからこそ、待つ
北辺城の廊下は、監査団の到着に備える会議が終わるころには、石床の冷たさが靴底まで上がってきていた。
リディア・フェンは、医師に言われた休養を守って客室へ戻るところだった。左腕の古い夜傷は、薬で熱が落ち着いている。母エレナの薬箱にあった古い銀糸紋は、明日、立会人を置いて調べることになった。
今夜はもう、二人とも休むはずだった。
半歩先を歩くユリアン・ノルドの右手には、昨日書き足した契約の控えがある。『治療を受ける権利』の見出しが、折った紙の端から見えていた。
紙が落ちた。
続いて、ユリアンの膝が石床へつく。
「ユリアン様」
リディアは駆け寄り、先に顔を見る。目は開いているが、焦点が合わない。
「ここがどこか分かりますか」
「……会議は」
「終わりました。今は廊下です」
ユリアンは壁へ手をつこうとして、位置を外した。呼吸が浅い。頬は、離れていても分かるほど赤かった。
「医師を呼んでください。二人で寝室へ。夢の施術はまだしません」
駆け寄った侍従が、ユリアンの反対側へ回る。
「公爵様は、ずっと眠れておられません。夢の方が先では」
「先に身体です」
リディアは短く答えた。
呼びかけへの反応、呼吸、手足の動き。水を飲めるか尋ねたところで、ユリアンの目が閉じる。
侍従と使用人が身体を支え、寝室へ運んだ。上着を緩める者、濡れた靴を脱がせる者、暖炉の火を弱める者。リディアは全部を自分でしようとせず、空いた道を医師のために残した。
医師は体温を確かめると、薬箱を開いた。
「急な発熱です。まず冷やします。飲める間に少しずつ水を。解熱の薬も使います」
「夢が原因でしょうか」
「今は決めません。身体を先に診ます」
分からないものを、分かったことにしない。
リディアは頷いた。
床から拾われた契約控えが、枕元の机へ置かれる。
昨夜、ユリアンは寒気を隠し、任務に支障はないと言った。
自分が何度も使ってきた言葉だった。
昨日までは、あの契約はリディアを休ませるためのものだった。
今夜は、ユリアンにも使う。
◇
深夜になっても、熱は下がらなかった。
寝室の灯りは二つまで落とされ、医師は寝台の横、侍従は少し離れた椅子にいる。記録係は扉の外で筆を持っていた。
リディアの左腕で、古い傷が薄く熱を返す。
ユリアンの枕元から、黒い糸が一瞬だけ窓へ伸びた。
夢の異常かもしれない。熱に引かれただけかもしれない。
まだ、どちらとも決められない。
「……行くな」
ユリアンの指が宙を探った。
「助けてくれ」
その手が、リディアの方へ伸びる。
「リディア様」
侍従が立ち上がった。
「今なら、公爵様もあなたを求めています。夢へ入っていただけませんか」
手を取れば早い。
そう考えた自分に気づくまで、ほとんど時間はかからなかった。
苦しんでいる。呼ばれた。自分なら入れる。
王宮では、それだけで十分だった。
リディアは一歩、寝台へ近づく。
そして止まった。
枕元の契約控えを開く。
「意識が明瞭であること。施術の内容を理解できること。途中で撤回できること」
一つずつ読む。
「今は、どれも確認できません」
「ですが、助けてくれと」
「はい。苦しいのだと思います」
その苦しさまで否定する必要はない。
「でも、苦しいことと、私が夢へ入ってよいことは別です」
リディアは伸ばされた手へ、冷たい布を渡した。ユリアンの指は布を弱く握り、やがて枕元へ落ちる。
指先が、小さな銀鈴に触れた。
施術を止める合図に使う鈴だった。
何を探していたのかは分からない。
だから、意味を足さない。
「今の言葉は、うわ言として残してください。施術への同意とは書かないでください」
扉の外で、筆が動いた。
左腕の熱は消えない。黒い糸も、また見えるかもしれない。
それでも、リディアは夢へ手を伸ばさなかった。
「眠っているからこそ、待ちます」
医師が薬を量り、侍従が額の布を替える。使用人が水差しを新しくする。
夢へ入らないなら、何もしないのではない。
今できることを、身体の側から続ける。
◇
「私が朝まで残ります」
熱がさらに上がったころ、リディアはそう言いかけた。
医師が薬杯を置き、こちらを見る。
「昨日、休養を権利にした方が、今夜だけ例外を作るのですか」
リディアは口を閉じた。
「……作りません」
夜は長い。体温は繰り返し見なければならず、水を飲ませる役も、冷却を替える役もいる。だからこそ、一人で持つ必要はなかった。
リディアは紙を一枚広げた。
三十分ごとの体温、飲水、呼吸、うわ言。
医療判断は医師。冷却と給水は侍従と使用人。記録は記録係。変化があれば銀鈴を鳴らす。
交代看護表の最初の欄へ、自分の名を書いた。
次の欄には書かない。
「一交代したら、隣室で休みます。変化があれば起こしてください」
言葉にすると、胸の奥が落ち着かなかった。
自分がいない間に悪くなったら。
けれど、ここに残って倒れれば、朝に使える手が一つ減る。
隣室の長椅子へ横になり、目を閉じた。
呼ばれない時間は、思ったより長かった。
再び寝室へ戻ると、看護表の欄が埋まっている。
丸い字。細い字。急いで書かれた数字。医師の短い所見。
自分の筆跡ではない夜が、紙の上に続いていた。
「熱が下がり始めました」
医師が小声で言う。
リディアは表を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
自分がいない時間にも、夜は進んだ。
治療も、止まっていなかった。
◇
朝の薄い光がカーテンの隙間へ入るころ、ユリアンは自分で水を飲めるまでに戻っていた。
医師が会話は短くするよう念を押す。リディアは看護表と契約控えを持ち、昨夜の経緯を順に報告した。
「夢施術は行っていません」
ユリアンの目が止まる。
「……入らなかったのか」
「はい。意識が明瞭ではありませんでした。『助けてくれ』という言葉も、施術への同意には扱っていません」
期待された力を使わなかった。
その事実を、リディアはまっすぐ置いた。
ユリアンは目を閉じる。
少しして、掠れた声で言った。
「ありがとう」
リディアは返事を忘れた。
「覚えていない私の言葉を、起きている私の意思の代わりにしなかった。それでいい」
水をもう一口飲み、ユリアンは看護表を受け取った。
上から順に、署名を読む。
「私の夜なのに、筆跡が多いな」
「一人で持たないようにしました」
「それは、よい記録だ」
指先が、最後の空欄で止まる。
「判断できないときは始めない。誰か一人を朝まで立たせない。次にも同じようにできるよう、残してくれ」
「はい」
今度はすぐ答えられた。
ユリアンは少し黙ったあと、契約控えではなくリディアを見た。
「熱が下がったら、話す」
「何をですか」
「私が、眠るたびに見ているものを」
声は弱い。それでも、昨夜のうわ言とは違った。
「今度は、起きた私が選んで話す」
リディアは看護表の最後へ、その約束を書いた。
昨夜のうわ言ではない。
朝の本人が選んだ言葉だった。




