第15話 死を先に見る人
熱が下がって二日目の昼、北辺城の小応接室には、暖炉の火より窓から差す白い光のほうが強かった。
ユリアン・ノルドは出口に近い椅子へ座り、向かいのリディア・フェンと、扉の外で待つ記録係の気配を順に確かめた。熱はもうない。ただ、茶器を持つ指にはまだ少し力が戻りきっていなかった。
机には、あの夜の交代看護表と公爵印が並んでいた。
看護表には、三十分ごとの体温、飲水、呼吸と担当者が記されている。公爵印は、その紙の横で窓の光を鈍く返していた。
二日前、リディアは高熱で朦朧とした自分の「助けてくれ」を、夢へ入る許可にはしなかった。だから今度は、起きている自分の言葉で話すと決めた。
「記録係は外に置いた。ここから先を残すかは、話した後に決める」
「分かりました」
リディアはそれだけ答えた。机の上ではなく、ユリアンの手元を一度見た。震えてはいないかを見ているのだろう。
その視線に気づける程度には、もう頭は働いている。
「私は、眠ると人が死ぬところを見る」
言ってしまえば、十年抱えていたものにしては短かった。
リディアの指が止まる。
「近しい者ほど多い。日時が出るわけではない。場所も、いつも正しいとは限らない。ただ、見たあとで配置を変え、人を遠ざけ、それで別の事故が起きたこともある」
窓の外で風が鳴った。ユリアンは茶へ手を伸ばし、やめた。
「だから長く眠らないようにした。近くに人を置かなければ、見るものも減ると思った」
「減りましたか」
「少しは」
まだ、リディアのことを言っていない。
「最近は、君がいる」
リディアは目を逸らさなかった。
「私が、ですか」
「ああ。死んでいる」
公爵印は指一本ぶんのところにある。紙を出し、治療から外すと書き、押せば済む。
守るためなら、それが領主として正しい。十年間、そうやってきた。
「だから、治療から――」
言葉を切った。
リディアは急かさなかった。
机の反対側にある交代看護表が目に入る。自分が何も決められなかった夜を、一人ではなく何人もの名前が支えていた。
ユリアンは公爵印から手を離した。
「……外すべきだと、思った」
「では、そこを分けましょう」
リディアが新しい紙を一枚取った。
縦に二本、線を引く。紙が三つの細長い欄に分かれた。
「一つ目は、夢で見たことです」
左端にそう書く。
「二つ目は、現実で確認したこと」
中央は空白のまま残した。
「三つ目は、今選べることです」
ユリアンは三つの見出しを見比べた。
「君が死ぬ夢を見た。だから治療から外すべきだ」
「前半は一つ目ですね」
リディアは左の欄へ、ユリアンが見た内容だけを書く。
「後半は三つ目です。同じ文にしないでください」
声は穏やかだったが、ペン先は迷わない。
ユリアンは息を吐いた。
「手厳しいな」
「分けるための欄ですから」
中央の空白が妙に目についた。
まだ現実では、リディアは目の前にいる。生きていて、紙に線を引き、冷めかけた茶を一口も飲んでいない。
「これを、予知三欄記録にしましょう。夢を捨てるためではありません。夢だけで決めないための記録です」
「分かった」
ユリアンは公爵印を机の端へ押した。
「次は、入る条件を決めたいです」
一時間。現実側には医師と記録係を置く。停止は銀鈴。夢の中でどちらか一人が死者を追い始めたら、その時点で帰る。
戻ってから現実を確かめ、それから行動を決める。
条件が一つ増えるたび、逃げ道が減るのに、不思議と息はしやすくなった。
「私にも止める権利を」
「もちろんです」
「君にも」
「はい」
ユリアンは最後に署名した。
「未来を知らせる。選ぶのは二人だ」
リディアも隣へ名を書いた。
施術は翌朝、医師が体調を見てから始めることにした。
◇
翌朝、銀鈴の小さな音を最後に聞いて目を閉じたはずだった。
次に目を開けると、雪が靴の甲まで積もっていた。
白い雪原の向こうに、北辺城の中庭がある。隣にはリディアが立ち、背後には帰還口の淡い光が残っていた。
足跡がいくつもある。
城門へ。医務室へ。相談所へ。ほかにも、雪に半分埋もれた細い跡が続いていた。
鐘が鳴った。
黒い鐘だった。
一度、低く響いただけで、雪原の景色が変わる。
一本の足跡だけが濃くなった。ほかの跡は急に薄れ、その道の先に人が倒れている。
リディアだった。
隣にもリディアがいる。それなのに前方では、同じ顔が雪の上に横たわり、動かない。
ユリアンの身体は、考えるより先に濃い足跡へ向いた。
「ユリアン」
呼ばれて止まる。
「鐘が鳴る前、道は何本ありましたか」
死んだリディアから目を離すことのほうが、走り出すより難しかった。
「……三本は見た」
「私は四本です。医務室、城門、相談所。それから右奥に一つ」
「この道を追わなければ、死因が分からない」
「戻って現実を確かめることもできます」
見捨てるようで、ひどく気分が悪い。
だが、それは夢で見たことだ。
現実で確認したことではない。
ユリアンは雪の上へ視線を落とした。
黒い鐘の影だけが、太陽とは逆の方向へ長く伸びていた。影の下で、薄い足跡が消えかけている。
「相談所へ行く」
死の像を追わず、別の足跡へ踏み出した。
背後で鐘がもう一度鳴る。
倒れていたリディアの姿が雪ごと崩れ、白くほどけた。
代わりに帰還口の光が細くなる。
答えを一つ得るたび、戻る道を削られているようだった。
◇
相談所の前まで来ると、窓の中に朝の景色がいくつも浮かんだ。
一つの窓では、リディアがミナと机を挟み、記録票を束ねている。
さきほど雪の上で死んでいた人物が、ここでは少し困った顔で紙の順番を直していた。
「生きているな」
「少なくとも、この道では」
それだけで十分なはずだった。
それでもユリアンは、次の窓へ目を向けた。あと一つ見れば、もう少し分かるかもしれない。死の理由まで見つければ、現実へ戻ってすぐ手を打てる。
「時間です」
リディアが言った。
夢の中に持ち込んだ銀鈴が、ユリアンの手元にある。
合意した一時間。完全に理解できなくても帰る。
ユリアンは鈴を鳴らした。
帰還口へ振り返った、そのときだった。
黒い鐘の下に、死者の列が一瞬だけ現れた。
端に、見慣れた王宮の衣装がある。
王宮で夢の象徴を読む聖夢聖女、セラフィナ・ベルだった。
彼女はユリアンと親しい人間ではない。
その手には聖具ではなく、綴じ糸を切られた記録簿があった。背後の床には、王宮で使われる石の模様が見える。
「セラフィナ……?」
確かめる前に、帰還口の光が細く揺れた。
それでも追う道は選ばず、ユリアンはリディアと一緒に光の中へ戻った。
◇
次に見えたのは、自室の天井だった。
夢から戻ったところまでは覚えている。その後の記憶が、きれいに抜けていた。
「お目覚めですか」
枕元にいた医師が時計を見る。
針は、施術を始めた時刻から一時間進んでいた。
「……一時間?」
「はい。帰還後、そのまま眠っておられました」
胸の奥が、遅れてざわつく。
夢を見て、帰った。それでも身体は起き上がらず、時計の針が一時間ぶん進むまで眠っていた。
扉が開き、リディアと記録係が入ってくる。契約どおり、彼女は眠っている間ずっと枕元にはいなかった。
「体調は」
「任務に支障はない、と言うと怒られそうだな」
「医師が困ります」
リディアはそう言って、自分で左袖を肘まで上げた。
「私は左腕だけ確認します」
前に自分で決めた範囲だった。
古い夜傷は残っている。けれど、新しい線は増えていない。
記録係が、以前の「十二分」の隣へ「一時間」と書いた。
「睡眠時間だけではありません」
リディアがその下を指す。
「合意どおり帰還、も成果です」
「十年ぶりなら、一時間だけでも十分に大勝だと思ったが」
「二つ勝ったことにしてください」
ユリアンは少しだけ笑った。
だが、すぐにセラフィナの姿が戻ってくる。
「王宮へ使者を出す」
言いかけて、止めた。
机には昨日の三欄の紙がある。
ユリアンは「夢で見たこと」の欄へ、セラフィナが死者の列にいたことを書いた。
次に「現実で確認したこと」へ移る。
北辺へ届いている情報では、セラフィナの死亡報告はない。少なくとも、夢の像を現実の死として扱う根拠はなかった。
最後の欄へ、すぐ警告を命じる代わりに書く。
王宮側の記録と、本人の状況を確かめる。
ペンを置く。
一時間眠れたことは、まだ身体の中で現実になりきっていなかった。嬉しいと決めるには、少し大きすぎる。
ただ、見た死を一人で命令へ変えずに済んだことだけは分かる。
それでも、なぜセラフィナがあの列にいたのかは、三つのどの欄にもまだ書けなかった。




