第16話 聖女は夢を治せない
夜明け前の王宮医務室は、薬湯の湯気で窓が白く曇っていた。
セラフィナ・ベルは寝台の左側に座り、若い侍女の冷えた指を見ていた。枕元には宮廷医師、足元には侍従が立っている。誰も次の処置へ動かず、聖女の奇跡が始まるのを待っていた。
侍女は眠るたびに目を覚ます。
そのたび、最初に確かめるように自分の指を握った。
「今は、私の声が分かりますか」
「はい、聖女様」
「では、今からするのは治療ではありません。見たものを一緒に確かめます。つらくなったら、そこでやめます」
侍女が小さくうなずいた。
枕元の紙には、震える線で黒い月が描かれている。その下に、欠けた冠。少し離れて、小さな鐘。
セラフィナは月の輪郭を指で追わず、目だけで見た。
丸くない。
右側がわずかに欠け、鐘の縁を横から見たような形をしている。
「鐘は、近くで鳴りますか」
「遠いです。でも……鳴ると、月がこっちを見るんです」
侍女の声が細くなる。
「冠は?」
「落ちています。拾わないといけないのに、手が……」
そこで指先がまた冷えた。
セラフィナは紙から顔を上げた。
黒い月。欠けた冠。遠い鐘。
形が繰り返していることは分かる。恐れがどこへ向いているのかも、言葉にできるところまでは読める。
けれど、読めることと、夢をほどけることは違う。
この娘の夢に出口を作ることも、鐘を止めることも、セラフィナにはできない。
「ここまでにします」
宮廷医師が目を上げた。
「ですが、聖女様。まだ奇跡が――」
「起きません」
口にすると、医務室がひどく静かになった。
セラフィナは侍女へ視線を戻す。
「私は、あなたの夢に出てくる形を読むことはできます。でも、悪夢を治すことはできません。今は眠らせず、身体を温めてください。指の冷えと呼吸も、もう一度診ていただきたいです」
医師は一瞬だけためらい、それから侍女の手首へ指を当てる。処置が動き出し、それだけのことにセラフィナは少し息がしやすくなった。
今までなら、もう少し待てば何かが起きるような顔をしていたかもしれない。
否定すれば、もっと多くの人が混乱する。ずっと、そう思ってきた。
けれど、今朝、その曖昧さの中で待たされていたのは自分ではない。
寝台の上の娘だった。
侍従が報告書を抱え直した。
この結果は、グレイヴ局長へ届く。
それでも、セラフィナは訂正しなかった。
◇
午前の宮廷夢守局記録室は、医務室よりずっと乾いていた。紙と革表紙の匂いがして、窓際の机には朝の光が細く落ちている。
セラフィナは記録係の向かいに座った。
「私の名で出された奇跡証明書を、過去十年分お願いします。それと、同じ日の王宮治癒記録、前夜の夜間処置簿も」
係は理由を尋ねず、棚の奥へ消えた。
記録係が運んできた王宮治癒記録には、症状と処置時刻、担当者が並ぶ。奇跡証明書は、同じ朝を誰の功績として外へ示したかを記す紙だ。夜間処置簿には、その前夜に誰が処置したかが残っている。
三つの束は、日付の書き方も整理番号の振り方も少しずつ違った。
セラフィナは、アルベルト殿下がよく眠れたと記された朝を一つ選んだ。朝の治癒記録、その日の奇跡証明書、前夜の処置簿を抜き出し、横一列に並べる。
奇跡証明書には金色の聖印が押され、その下に「聖夢聖女セラフィナの奇跡により、王太子殿下の睡眠は安定した」と記されていた。
けれど、その前夜の処置簿には、小さく「補助員リディア。夜間処置完了」とある。
セラフィナは次の日付を取り、さらに一枚めくった。どちらにも、同じ位置にリディアの名がある。
金の聖印の下に、細い銀糸のような処置印が透けている紙もあった。上から消そうとして、消し切れなかったように見えた。
指先が止まる。
自分に治せないことは、もともと知っていた。
それなのに、殿下が眠れた朝には花を受け取り、礼を受け取り、否定しないまま立っていた。
知らなかった、では足りない。
見ないままにしていた。
「こちらの番号を、複写していただけますか」
セラフィナは一致した番号を紙へ移し、係へ渡した。
しばらくして戻ってきた記録係は、紙を持ったまま首を傾げた。
「聖女様。この番号だけ、複写簿では欠番になっています」
「原本は?」
「棚にはあります。ですが複写番号がありません」
セラフィナは机の三つの束を見た。
分けて保管されているから今まで並べなかったが、こうして並べれば見えるものがある。
そして、並べられることを嫌った誰かがいるのかもしれない。
◇
午後、オスカー・グレイヴの執務室には、朝の医務室とは違う甘い香が焚かれていた。
机の中央に、奇跡証明書が一枚置かれている。
その横には金の署名筆と、封印用の赤い蝋。
「聖女様。今朝の侍女は落ち着いたそうですね」
オスカーの声は穏やかだった。
「身体の処置を受けています。私は治療していません」
「ですが、あなたが御覧になった後に安定した。民に必要なのは、処置の細目ではありません。一つの分かりやすい名です」
彼は証明書をこちらへ滑らせた。
聖女の奇跡により安定。
もう書かれている。
残っているのは署名欄だけだった。
「グレイヴ局長。今朝、私が行った治療は何ですか」
「象徴を読み、患者を安心させた」
「眠らせましたか」
「結果として落ち着いたのであれば――」
「悪夢をほどきましたか」
オスカーは答えなかった。
怒っているようには見えない。
むしろ、子どもへ難しい話を説明する前のように、少しだけ声を柔らかくした。
「秩序には象徴が要るのです。担当者の名を一人ずつ並べても、不安は減りません。あなたは、そのために選ばれた」
少し前までなら、その言葉を借りにして受け取っていた。
ここで否定すれば、皆を困らせる。
自分が我慢すれば、という形ではないぶん、なおさら断りにくかった。
セラフィナは金の筆を取らなかった。
袖の内側には、午前中に控えた番号がある。
代わりに、机の端の黒い記録筆を取った。
証明書の余白へ書く。
治療行為なし。象徴の観察のみ。
金の署名欄は空いたままだった。
「聖女様」
「この人を治したのは、私ではありません」
言葉に飾りを足さなかった。
「これまでの証明書についても確認します。殿下が眠れた前夜の処置簿に、リディア様の名が繰り返しあります」
「古い記録は分類の都合で混線することがあります」
「では、原本で確かめます」
オスカーの微笑みは崩れなかった。
「そうですか」
彼は金の筆を戻した。
「ちょうどよい。記録室は明朝から再整理させます。古い帳簿は、保全のため一度封じましょう」
セラフィナの指が、黒い筆を少し強く握った。
明朝。
原本へ自由に触れられるのは、今夜までだった。
◇
深夜の旧書庫は、灯りを一つ増やすだけでも影の場所が変わった。
セラフィナは原本を持ち出さなかった。
紙と筆、時刻計、それから目録番号を書いた控えだけを持って、棚の間を進む。
原本を盗めば後で何とでも言われるから、どの棚の、どの番号の、どの頁を見たかまで残す。
怖くなるほど説明を増やしたくなるが、そのたび書くものを絞った。欠番になっていた奇跡証明書の番号、その前後の目録、余白に残る欠けた輪の印。
朝、侍女が描いた黒い月とよく似ている。
同じ印を追うと、通常の棚番号から外れた一冊へ行き着いた。
背表紙に題名はなく、封の状態を写してから、開いた時刻と最初の頁番号、その前後の項目まで控える。
それから、問題の欄を開いた。
エレナ・フェン。
少し下に、リディア・フェン。
母娘と記されている。
二人の名の横にあったはずの役職だけが、紙を傷めるほど削られていた。
代わりに残っているのは、十二本の細い線が輪になる符号だった。
セラフィナは息を止めた。
北辺の古い銀糸紋について、記録の余白で似た形を見たことがある。
けれど、意味はまだ分からない。
分からないまま、同じ形が二人の名に付いている。
謝るだけなら、今すぐ北辺へ手紙を書ける。
けれど、証拠のない謝罪を渡して、自分だけ軽くなるわけにはいかなかった。
頁番号と封の状態、前後の項目。母と娘の名、その脇の削られた役職と十二本の細線。
セラフィナは、見えた事実だけを順に写した。
廊下で足音がし、続いて旧書庫の外側で鍵が触れ合う音がする。
セラフィナは写しを一枚に重ねず、袖の内側、胸元、腰帯の裏へ分ける。
原本は元の位置へ戻した。
最後にもう一度だけ、二人の名を見る。
リディアだけではない。
母の代から、同じ印がある。
扉の向こうで、鍵が回った。




