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もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

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第17話 穀倉に棲む眠り獣

 夜明けの大穀倉には、麦の匂いより先に湿った土の匂いが満ちていた。


 リディア・フェンは外された通気窓から中へ入り、麦粉の白い床で足を止めた。ミナがすぐ後ろに降り、医師と穀倉責任者が続く。


 床には獣の足跡があった。濡れているのに、麦粉は少しも沈んでいない。


 足跡が触れた麦袋だけが、底から黒く湿っていた。


「先生。これ、靴じゃないです。靴なら左右があります」


 ミナがしゃがみ込みかけ、リディアは袖をつまんで止めた。


「触らないでください。まず人を見ます」


 番人は六人いた。壁際や秤のそば、帳場の机で、昨夜の持ち場のまま眠り込み、呼びかけにも目を開けない。


 ユリアンの予知に現れた王宮の聖女セラフィナのことも、現実ではまだ確かめられていない。そこへ監査団が来る前の朝、冬の備蓄を守る穀倉で、番人が全員眠り込んだ。


 麦を失えば、困るのは城ではない。町の食卓だ。


「夢守りなんだろう」


 責任者の声が裏返った。


「全員の夢へ入って、今すぐ起こしてくれ。黒くなるのが見えないのか」


 見えている。だからこそ、急ぐ順番を間違えたくなかった。


「医師は呼吸と体温を。火は全部落としてください。乾いた区画から搬出します。黒くなった袋には触れないで」


「そんなことをしている間にも腐る!」


「眠っていることは、同意ではありません」


 責任者が口を開いたまま止まる。


 リディアは一瞬だけ、床を這う夢糸へ指を伸ばしかけた。


 六人まとめて引けば早い。王宮にいたころなら、それで済ませていた。


 左腕の古い夜傷が、袖の下でじわりと熱を持った。


 手を戻す。


「起こせる人を探します。それまでは現実で守れるものを守ります」


 言い切ってから、ミナを見る。


「名札と靴を合わせてください。誰がどこで倒れていたか、順番に」


「はい。夢の中身は?」


「今はいりません」


 ミナは一度だけ目を丸くし、それから勢いよく頷いた。


「名前と靴。そっちは混ざりません」


 搬出が始まる。袋を抱えた使用人たちが乾いた列から外へ走るたび、黒い染みは一列ずつ追いかけてきた。


 全部は間に合わない。そのことだけは、数えなくても分かった。



 最初に目を開けたのは、年長の番人だった。


 医師が冷水で頬を拭くと、男はひどく長い坂を登ってきたように、肩で何度か呼吸した。


「獣が……麦を食ってる」


「どんな獣ですか」


「でかい。濡れてて……腹が空いてる。冬を越せないって鳴くんだ」


 夢守りは、こういうものを眠り獣と呼ぶ。複数人の同じ恐れが一つにまとまり、夢の外へまで湿気や腐敗を滲ませたものだ。


 男のまぶたが落ちかける。


「入ってくれ。町のためなら何でもしていい」


「何でも、では困ります」


「時間がないんだぞ」


 責任者が横から言う。


 リディアは反論せず、男の手に銀鈴を置いた。


「あなたの夢にだけ入ります。十五分。ほかの番人の記憶へは進みません。この鈴が鳴ったら戻ります。途中で嫌になったら、それだけで終わりです」


「分かった。やってくれ」


「今の条件を、あなたの言葉で言えますか」


 男は苛立ったように眉を寄せた。


 それでも、ひとつずつ言い直した。


 自分の夢だけ。


 十五分。


 鈴で戻る。


 嫌ならやめる。


 最後に署名へ手を伸ばし、名前の途中で筆が止まった。


 責任者が紙を取ろうとする。


「続きを――」


「待ちます」


 数十秒が、ひどく長かった。


 男がもう一度目を開け、自分で残りの文字を書いた。


 ミナはその手元をじっと見ていた。


「先生。『はい』だけじゃ駄目なんですね」


「はいと言えることより、何にはいと言ったか分かることの方が大事です」


 言い終わるころには、男はまた眠りへ引かれていた。


 十五分は長くない。けれど、今度は一人で持つ十五分ではなかった。



 穀倉の入口に椅子を並べ、男とリディアを座らせる。


 銀鈴から細い糸を伸ばし、二人の手元へ結ぶ。その外側にミナ、医師、記録係が残った。


 夢へ入る者の名前と現在時刻を現実側から繰り返し伝え、帰る条件を保つ役を、夢の錨と呼ぶ。


「わたし、六人分の夢、言えます」


 ミナが早口になった。


「さっき聞こえたのもあります。麦の棚と、雪と、空っぽのお皿と、それから――」


「四つだけです」


 リディアは小さな紙を渡した。


 そこには、四語しか書いていない。


 名前。


 時刻。


 麦。


 帰る。


「少なっ」


 ミナの口から素直な声が漏れた。


「全部覚えている必要はありません。必要なものを守ってください。混ざったら記録係へ渡す。怖くなったら、あなたが鈴を鳴らしていい」


「わたしが止めても?」


「止めてください」


 ミナは紙と、眠る番人の靴を見比べた。


「じゃあ、こっちの茶色い靴がハンスさん。底の釘が一本だけ銀色。夢より靴の方が覚えやすいです」


 少しだけ笑う声が周囲に生まれた。


 リディアの肩から、わずかに力が抜けた。


「お願いします、ミナ」


「はい、先生」


 今度の返事は速かったが、浮ついてはいなかった。


 銀鈴へ指を添えると、穀倉の壁が暗く溶けた。



 夢の中でも、麦は濡れていた。


 天井まで積まれた袋の間を、巨大な獣が這っている。麦殻の背に黴のような毛がまとわりつき、口元から腐った甘い匂いが広がった。


 番人はすぐに壁の剣を取った。


「こいつを殺せば終わる」


 獣が袋へ牙を立てると、身体が一回り大きくなる。


「待ってください」


「待っていたら食われる!」


 男が剣を振り上げた。


 リディアは獣ではなく、その腹を見た。


 麦殻の間に、数字が刻まれている。


 七。


 十二。


 二十。


 規則的ではない。けれど男は、その数字から目を逸らした。


「知っていますね」


「知らん」


 答えが早すぎた。


 獣の向こうで穀倉の壁が薄くなり、代わりに古い配給棚が現れた。空の棚。小さな手。袋を数える声。


 男の握る剣が震えた。


「昔の冬ですか」


「……子どものころだ」


 獣が吠えるたび、腹の数字が増える。


「空の袋を数えた。何袋あれば春まで持つか、大人が毎晩数えてた。足りないって、ずっと」


 男は剣を下ろさない。


「こんなものを怖がってたなんて言えるか。俺は穀倉番だぞ」


 外から、ミナの声が届いた。


「ハンスさん。朝六時。麦。帰るまで十一分です」


 夢の中に、細い音が一本通った。


 リディアは獣へ手を伸ばさなかった。


 吸い取れば静かになる。


 その早さを、身体はまだ覚えている。


「怖くなくなったら、何をしますか」


 男は答えない。獣がまた袋を裂くのを見て、リディアは言い直した。


「怖いままでも構いません。朝になったら、最初に何をしますか」


 剣先が下がった。


「……量る」


「何を?」


「最初の一袋を。俺一人じゃなく、皆で量る。残りを数える」


 その瞬間、獣の肋骨が軋み、骨だと思っていた線が一本ずつ平らになった。


 穀物を量る木の目盛りだった。


 番人が剣を捨てると、夢の穀倉に扉が戻った。


「ハンスさん。朝六時二分。麦。帰るまで九分」


 ミナの声が、今度は近い。


 男は自分で扉の掛け金を外した。


 白い朝の光が差し込み、眠り獣はもう吠えなかった。


 麦殻へ、黴へ、湿った息へとほどけていく。


 怖さそのものは消えていない。それでも、扉は開いた。


 最後に、黒いものが床へ落ちた。


 革の首輪だった。



 目を開けると、穀倉はひどく騒がしかった。


 けれど、黒変は止まっていた。


 搬出された麦袋の山を見て、リディアは最初にそれを確かめた。


「先生。十五分以内です」


 ミナが錨の紙を両手で差し出す。


「名前は十四回。時刻は五回。麦は四回。帰るは三回。途中で一回、わたしが順番を飛ばしました」


「戻せましたか」


「記録係さんが指で教えてくれました」


「なら、そこまで書いてください」


 ミナは一瞬だけ肩を落とし、それから頷いた。


「失敗を消さないやつですね」


「次に使えます」


 眠っていた番人たちも、医師の呼びかけに少しずつ目を開け始めていた。


 穀倉責任者が笑いながら、黒い革輪を火ばさみで持ち上げる。


「こいつが元凶か。焼いてしまおう」


「待ってください」


 リディアは触れずにしゃがみ込んだ。


 夢の中で見たものと同じ革だった。


 首の内側だけ、妙に新しい刻印がある。


 そこへユリアンが入ってきた。呼ばれて城から来たらしく、上着の留め具もまだ片方しか掛かっていない。


「被害は」


「大半の穀物は無事です。番人も目覚め始めています」


 まずそれを伝えてから、革輪を示した。


「夢の外に残りました」


 ユリアンは近づきすぎず、記録係へ箱を持ってこさせた。


「印があるな」


 ユリアンは懐から、北辺へ向かっている王宮監査団の通行文を出した。紙の端に押された印と革輪の刻印を並べると、同じ形だった。


 ミナが息を呑む。


「じゃあ、監査団がこれを?」


「まだ言えません」


 リディアは首を振った。


「同じ印がある。それだけです」


 ユリアンも頷く。


「断定はしない。発見位置、状態、触れた者を残す。錨の記録は別に複写して保管する」


「せっかく全部覚えてるのに、紙も要ります?」


 ミナが少しだけ不満そうに言う。


 リディアは彼女の握った四語の紙を見た。


「あなた一人にしないために必要です」


 ミナは口を閉じた。


 それから、今度は笑わずに頷いた。


「はい。じゃあ二枚。別の箱です」


 外では、救い出した麦袋を数える声が始まっていた。


 一袋、二袋と、複数の声で数えている。


 冬は、まだ守れた。


 けれど監査団は、間もなくここへ来る。


 黒い革輪の印だけが、朝の光の中で新しいまま残っていた。

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