第18話 白墨の境界線
北辺城の作戦室では、朝の光より先に、リディアの名前が三つの色で増えていた。
穀倉の騒ぎから一夜。長机には大穀倉、公開相談所、城門の地図が並び、それぞれに彼女の巡回時刻が書き込まれている。向かい側にはユリアン、記録板の横にはミナが立ち、黒い革の首輪は封印箱の中だ。
首輪には、北辺へ向かっている王宮監査団の通行文と同じ印があった。誰が眠り獣を放ったかは、まだ分からない。
分かっているのは、監査団が来るまで一日もなく、次に三か所で同時に何か起きれば、夢守りはリディア一人しかいないということだった。
「この表から、私の名前を消してください」
城の管理責任者が目を瞬いた。
「しかし、フェン殿。穀倉、相談所、城門。確実なのは、あなたに順に回っていただくことです」
「順に、で間に合わない場合の話をしています」
言いながら、リディアは赤で書かれた自分の名を布で消した。次に青。最後に緑。
胸の奥が、妙に落ち着かなかった。予定から自分を外す作業は、いまだに仕事を捨てているように見える。
「治療が必要なら、私が行きます。ただ、私が着くまでの数分まで、私である必要はありません」
「夢へ入れない者に、何ができます?」
警備隊長の問いに、リディアは地図を見直した。
昨日、ミナは夢の外から名前と時刻を読み上げた。医師は眠った番人の身体を見て、搬出班は麦を運んだ。夢の中に入れなくても、守れたものはあった。
「名前を保つこと。今いる場所を忘れないこと。逃げる道を見えるようにすること。朝に何をするか、自分で一つ決めておくこと」
ユリアンが三色の線を見てから、管理責任者へ顔を向けた。
「リディア・フェンを三か所分の配置資源として数える案は却下する。必要なのは人数ではなく、彼女が着くまでに持たせる手順だ」
ミナが消えた名前の横へ、四つの空欄を作った。
「先生。じゃあ、ここに書きます。退路、呼ぶ名前、場所、それから朝?」
「朝の仕事、でいきましょう」
空白だった地図に、初めてリディア以外の答えが増えた。
◇
午前の終わり、城の空き食堂には白い粉が落ちていた。
特別な術具ではない。穀倉で麦袋の数を書くのに使っている白墨を、使用人が箱ごと持ってきただけだ。
リディアは床へ大きな円を描き、六人の使用人を中へ入れた。足元には、一人につき一本の短い白線を置く。ミナは名札を並べ、記録係が壁際に座る。
「この線の内側を、安全な範囲にします」
「外に出たら、失敗ですか?」
端にいた使用人が、すぐに尋ねた。
リディアは白墨を持ったまま止まった。
安全のために囲った円だった。けれど、出れば失敗になるなら、それは出口のない線になる。
「いいえ。今のはやめます」
円の一部を靴先で消し、そこへ外向きの二重線を引いた。
「ここが退路です。出る理由は言わなくて構いません。戻らなくても失敗にはしません」
今度は名札を一人ずつ本人へ返した。書くのは、呼ばれたい名前だけでいい。
恐怖も同じだった。詳しく話す必要はない。昨夜、本当に怖かったことを一つ。朝になったら、自分でやりたいことを一つ。
「長いです、先生」
ミナが早口で割り込んだ。
「名前、場所、怖い、朝。四つにしましょう」
リディアは一度考えて、うなずいた。
「その四つで」
呼吸もそろえた。四つ数えて吸い、四つ止め、四つで吐く。その間に、名前と場所、怖かったこと、朝にすることを順に確かめる。
四拍呼吸、と記録係が欄外へ書いた。
白墨は魔法ではない。ただ、誰がここにいて、どこから抜けられるかを全員が同じ床で見られる。
それなら、夢を扱えない人にも使える。
そう思いたかった。
◇
午後の最初の訓練は、きれいすぎて失敗した。
「怖いことはありません」
「朝も任務を果たします」
六人が似た答えを並べるたび、封印箱の首輪から漏らしたごく弱い鐘の残響が、食堂の隅に残った。
六人の足元の白線が黒くにじみ、六本あったはずの線が一本へ寄っていく。
リディアは輪の外に立ったまま、口を開きかけた。
何を言えば残響が弱まるかは、もう分かり始めている。けれど、彼女が正解を渡せば、次も彼女が必要になる。
「立派な答えでなくて構いません。昨夜、一度でも本当に考えたことを選んでください」
沈黙が落ちた。
しばらくして、炊事場の女が視線を下げた。
「麦がなくなるのが、怖かったです」
黒いにじみが少し止まる。
「朝は?」
「娘にパンを持って帰りたい」
一本に溶けていた白線が、ゆっくり二つへ分かれていく。
別の使用人が「また皆が眠るのが怖い」と言った。朝は井戸の氷を割るという者もいた。夜番へ鍵を渡す、犬へ餌をやる、昨日運び出した麦袋を数える。
どれも勇ましくはなかった。
だからこそ、同じ夢の中へ溶けなかった。
ミナが名札を見ながら声を上げる。
「名前。ここは北辺城。怖かったこと。朝にすること」
残響は細くなった。
消えはしなかった。
リディアが同じ部屋にいる限り、最後に誰が支えているのかは分からない。
「次は、私は外にいます」
◇
日が落ちるころ、城門脇の夜番詰所に同じ白い線が引かれた。
訓練を受けた使用人と夜番、ミナ、記録係が中にいる。リディアは壁一枚隔てた隣室で、呼ばれるまで入らない。
封印箱の首輪が、かすかに王宮の方角へ震えた。
鐘が一拍だけ鳴る。
壁の向こうで椅子が倒れた。
リディアの手は、先に扉へ伸びていた。
「名前」
ミナの声が聞こえる。
「場所」
別の声が続いた。
「城門の夜番詰所」
そこで、若い夜番の声が震えた。
「出たいです」
一瞬の間。
「出ていいです。理由は言わなくていいです」
ミナが答えた。
足音が白墨の退路を越え、廊下へ出てくる。若い夜番は壁へ背をつけたまま、リディアを見た。
リディアは何も聞かなかった。
中では手順が続いている。
「鐘が怖い」
「朝、交代の人へ鍵を渡す」
「昨日みたいに麦が腐るのが怖い」
「朝、倉庫へ乾いた袋を返す」
四つ吸う。四つ止める。四つ吐く。
扉のこちら側でも、その間が分かった。
リディアの指は取っ手のすぐ前にあった。
停止の銀鈴は、鳴らない。
手を下ろす。
次の瞬間、黒い鐘の残響が途切れた。
壁の向こうで、誰かが大きく息を吸う音がした。眠りへ引かれていた夜番が、自分で目を開けたらしい。
ミナが扉を二度叩いた。
成功の合図だった。
リディアは返事をする前に、自分の空いた両手を見た。
何もしていない。
それでも、夜は一拍ぶん守られている。
そのとき、城の外から本物の鐘が鳴った。
◇
門鐘の音は、先ほどの残響より低い。
リディアたちが城門へ出ると、街道の先に王宮印を付けた馬車が並んでいた。ユリアンはすでに門前に立ち、警備兵へ開門の範囲を指示している。
先頭の馬車が門をくぐる。
青銅の鐘そのものは変わらないのに、その影だけが墨を流したように黒く染まった。
もう一度、鐘が鳴る。
白墨の境界へ音が触れたところで、一拍だけ途切れた。
監査団長の視線が、床の線へ落ちた。
「これは何だ」
「夢へ入れない者が、夢守りの到着まで自分の名前と現在地を保つための手順です」
「無資格者へ夢術を行わせた、と」
「夢へは入っていません」
団長は答えず、靴先で白墨の端を踏んだ。線が少し崩れる。
すぐ隣にいた夜番がしゃがみ込み、腰の袋から白墨を出した。
リディアを見なかった。
命令も待たず、消えた二重線を同じ幅で引き直す。
監査団長の眉が動いた。
ユリアンが差し出された文書を受け取り、封を確かめる。
「監査権限の範囲を、ここで読み上げてもらおう。相談所の停止命令が含まれるなら、その根拠条項もだ」
リディアは訓練記録を抱え直した。誰が参加し、誰が途中で離れ、誰も戻ることを強制されなかったか。今夜の紙には、それが残っている。
隣でミナが封印箱を見た。
「先生、その人たちの印――」
言い切る前に、口を閉じた。
首輪の印と同じだ。けれど、同じ印があることと、誰が何をしたかは別だった。
ミナは封印箱を記録係へ渡す。
監査団長は白い線の向こうから告発状を開いた。
「明朝、公開聴取を行う。無資格者による違法な夢術と、この相談所についてだ」
門鐘の黒い影が、引き直された白墨の手前で揺れていた。




