第19話 名前を呼ぶ町
監査団が北辺へ着いた翌朝、町議会広場には冷たい朝日より先に、城門鐘の黒い影が落ちていた。
監査団長と書記官は王宮印の告発状の下。リディアは発言席に一人で立ち、ユリアンは町議員の席の脇にいる。ミナは集まった住民の後ろで、記録板の縁を親指でこすっていた。
昨夜、白墨の線は夢守りがいなくても黒い鐘の残響を一拍止めた。監査団長は、その線を違法な夢術だと言った。
今日ここで相談所の仕事を示せなければ、閉鎖される。リディアは連れていかれるかもしれない。
「公開聴取を始めます」
町議長の声が広場を通った。告発と反論を人前で読み、どちらも議事録へ残す手続きだ。
監査団長が紙を開く。
「王宮資格を持たぬ者による夢への介入。王宮管理物の不正開封。住民の夢の収集。さらに、白墨を用いた無許可術式の頒布」
言葉が一つずつ積まれるたび、ミナの口の中が乾いた。
「以上により、相談所の即時閉鎖と当該人物の拘束を求めます」
当該人物。
告発状には、先生の名前がなかった。
昨日、監査団長の靴で崩れた白墨を、町の夜番が黙って引き直した。そのときよりも、今のほうが腹が立つ。
「名前くらい、書けばいいのに」
思わず漏れた声に、隣の記録係がちらりとこちらを見る。
ユリアンが立った。
「拘束の判断まで公開の議事録に残してもらう。非公開で連れ出すことは認めない」
「ノルド公は当事者でしょう」
「だから私の発言も、利害関係者の発言として記録すればいい」
監査団長は口元を動かさなかった。
ミナは記録板を握り直した。
王宮には印がある。紙も資格も、向こう側だ。
こちらにも、積み上げてきたものはある。
けれど、先生が守ってきた紙ほど、人前では開けなかった。
◇
休止の鐘が鳴るなり、ミナは公開相談所の記録室へ駆け込んだ。
「言えます」
扉が閉まりきる前に言った。
「誰が、いつ、どんな夢を見て、先生が何をして、そのあとどうなったか。わたし、だいたい覚えてます。全部言えば、あの人たちの言ってること、違うって分かります」
机の向こうで、リディアが顔を上げた。
「ミナ」
「勝てます。たぶん。かなり」
「覚えていることと、使っていいことは別です」
胸の奥が、すとんと落ちた。
まただ、と一瞬思った。役に立たないから、余計なことをするから、ここにも置けないと言われるときの前触れ。
「……じゃあ、わたしは何をすればいいですか」
早口だった声が、そこで止まった。
リディアはすぐに答えた。
「誰に、もう一度許可を聞く必要があるか。あなたなら漏らさず分かります」
ミナは顔を上げた。
「夢の中身は使いません。治療の前、私がしたこと、その後の生活。この三つだけ、本人が話してよい範囲を選べる札にします」
「公開と、名前なしと、話さない、も選べます?」
「ええ」
ミナは紙を三つに折った。
治療前の生活。
先生がしたこと。
治療後の生活。
裏には大きく書いた。
話さないを選べる。
「証言札、ですね」
記録係が言う。
本人が公開してよい範囲だけを三欄に分ける札。夢の秘密を見せずに、生活の変化だけを残せる。
最初の家では、戸口で断られた。
「王宮に名前が渡るのは困る」
「分かりました」
ミナは理由を聞かなかった。
二軒目も、答えは非公開。
三軒目で、紙を受け取った手が少しだけ戻ってきた。
「名前は出していい。夢の話はしないでくれ」
「そこは最初から書きません」
ミナは札の一番上へ、その人が自分で選んだ名前を書いた。
◇
午後、広場へ戻ったミナの手元にある公開の証言札は、思ったほど厚くない。
監査団長はそれを見て、わずかに眉を上げた。
「感謝状ですか」
「違います」
声が速くなりそうで、ミナは札の三つの欄を指でなぞった。
「日付。本人の同意。治療前の生活。先生がしたこと。治療後の生活。その順で読みます」
「患者の感謝は資格の証明にならない」
「だから、感謝は読まないです」
最初の札を持ち上げる。
その前に、広場の端から男が歩いてきた。
「ロルフです。俺の分は、俺が話します」
帰還兵ロルフは監査団ではなく、町議員の方を見た。
「眠ると家族に手を上げることがあった。夢へ入る前に、まず寝室を分けて、刃物と重い道具を移した。妻が一人で起こしに来ないようにもした」
監査団長が何か言おうとしたが、ロルフは続けた。
「死んだ仲間が俺を許した、なんて話はされてない。俺が何をしたかを、一緒に思い出した。今は仕事に戻ってる」
ミナは次の札を開いた。
「ハンスです」
今度は穀倉番が自分で名乗った。
「六人まとめて眠ったとき、この人は勝手に全員の夢へ入らなかった。先に麦を運ばせた。俺が起きて話せるようになってから、十五分だけ、俺の夢だけだと決めた」
「結果は?」
町議員の一人が尋ねる。
「冬の麦は残った。俺たちも起きた」
別の家族は、子どもの朝食の記録を出した。
夢の中身は一行もない。
代わりに、食べられなかった朝と、食べられた朝が日付で並んでいた。
ミナはそこで気づいた。
先生を褒める言葉が増えているわけではない。
事故が減った。仕事へ戻った。朝ごはんを食べた。眠っている人へ勝手に入らなかった。
昨日と今日の違いが、名前のついた人から出てくる。
「私も公開で」
後ろから声がした。
「名前も出してください」
さっきまで匿名に印をつけていた人が、自分で札を持って前へ出る。
監査団長は、今度は札を感謝状とは呼ばなかった。
「実績があることと、王宮資格がないことは別問題です」
論点が、一つになった。
◇
町議長は古い領法の綴じ本を机へ置いた。
「北辺には、地域の医療と防災に必要な実務者を、領内で公認する権限がある」
王宮の資格とは別だ。王国中で通る身分にはならない。
それでも、ここで働く根拠にはなる。
「リディア・フェンを、北辺領内の公認夢守りとして任命する議案を出します」
広場がざわめいた。
ミナは先生へ目を向ける。
リディアはすぐにはうなずかなかった。任命状の空欄を見て、それから町議長へ向き直る。
「受けます。ただし、条件があります」
監査団長が鼻で息を吐いた。
「条件?」
「同意の記録。報酬。休養。途中で退く権利。それから、手順を私一人のものにしないことです」
町議長が書記へ目を向ける。
「議事録へ」
ユリアンは何も足さなかった。
採決が始まった。
町議員の手が上がる。住民代表の手も上がる。
ミナは数えようとして、途中でやめた。
結果は、町議長が読んだ。
「可決。北辺の公認夢守り、リディア・フェン」
名前が広場へ返ってきた。
書記が任命状へ書き込む。
一番上の担当欄に、補助員ではなく、リディア・フェン。
その下には夜番、記録係、医師の共同欄が並んだ。
一人に戻すための名前ではなかった。
監査団長が告発状を畳む。
「北辺領内での即時拘束は求めません。ただし、王宮がこの任命を承認したわけではない」
勝った、と言っていいのか、ミナにはまだ分からなかった。
でも、先生の名前は消されなかった。
◇
夕暮れ、広場の灯りが増え始めたころだった。
城へ戻る石段の下で、監査団長がもう一度リディアを呼び止めた。
「最後に、こちらを」
差し出された紙には黒い封蝋があった。
表に書かれているのは、短い文字だけだった。
エレナ・フェン罪状。
リディアの指が封へかかった。
ミナは息を止めた。
「母君の件が事実なら、今日の任命にも意味はありません」
監査団長の声は静かだった。
リディアの指が、封から離れた。
「記録してください」
隣の書記へ言う。
「受領した時刻。封の状態。渡した方の氏名と立場」
「今、開かないのですか」
「開く時は、私が決めます」
リディアは文書をユリアンへ渡さなかった。
自分の管理箱を開く。文書を中へ入れ、鍵をかけた。
ミナは表の名前を覚えた。
覚えていても、まだ中身は知らない。
だから、言わなかった。




