第20話 眠る人の隣で
冬至祭の夕方、公開相談所の窓には小さな灯りが並んでいた。
一年でいちばん長い夜を、町じゅうで灯りと交代夜番をつないで越す日だ。不要不急の仕事は止める。それが北辺の決まりらしい。
昼の公開聴取で町から北辺の公認夢守りに任命されたばかりのリディア・フェンは、その決まりより先に夜番表の空欄を見つけた。
「私の名前がありません」
机の向こうで、ミナがぱちりと瞬いた。
「ありません。ちゃんと、ないんです」
妙な返事だった。
リディアは紙を引き寄せる。白墨、銀鈴、医師への連絡、城門側の警備。必要なものは全部、欄ごとに担当者が付いている。
最後まで見ても、やはり自分の名だけがない。
「緊急時の呼び出しは?」
「三つです。白墨の外まで誰かが出ちゃったとき。銀鈴を鳴らしても戻らないとき。お医者さまが夢の方も危ないって言ったとき」
ミナは指を一本ずつ立てた。
「そこまでは、わたしたちが持ちます。先生を呼ばない、じゃなくて」
「そこまでは、皆さんの仕事」
「はい」
夜番の使用人が自分の欄へ署名した。医師も、記録係も、その隣へ続く。
リディアは筆を取った。
空いている場所へ自分の名を書けば、たぶん落ち着く。何かあったとき、最初から自分が動ける。
けれど、欄の下には小さく別の文字があった。
――休務・呼出条件外。
忘れられているのではない。
外されている。
休むために。
リディアは筆先を紙から離した。
「では、お願いします」
「はい。……先生、今の、けっこう大仕事でしたね」
「署名していませんが」
「しなかった仕事です」
ミナは得意そうに言った。
その言い方がおかしくて、リディアの口元がほんの少し緩む。
◇
日が落ちた後、北辺城の小応接室には、黒い封蝋の文書が一通だけ残った。
表には、エレナ・フェン罪状。
母の名だった。
監査団は去り際に、母の罪が事実なら今日の任命にも意味はない、と言い残した。
リディアは受領記録と封の傷をもう一度見比べ、小刀へ手を伸ばした。
「選択肢は四つある」
向かいのユリアンが言った。
彼は文書へ触れていない。
「今、一人で読む。今、私と読む。明日の朝に読む。当面、開けない」
リディアの指が小刀の柄で止まる。
「最後でもよいのですか」
「よい。どれを選んでも、今日の任命が消える理由にはならない」
昔なら、王宮の印が付いた文書は届いた時刻が読む時刻だった。
読む。判断する。必要なら夜を使う。
その順番に、自分の眠気が入る余地はなかった。
「……明日の朝にします」
「分かった」
「開封は、私が。立会いをお願いしても?」
「もちろん」
ユリアンは、それ以上を引き受けなかった。
リディアは白い紙片へ時刻を書いた。
翌朝、本人選択により開封。
黒い封蝋の横へ、その紙を置く。
文書を箱へ戻し、鍵は自分のポケットへ入れておく。
これで、今夜の仕事はなくなった。
なくなってしまった。
◇
暖炉前の小部屋には、冬至祭の残りの丸パンと薄いスープ、焼き林檎が運ばれていた。
リディアは椅子へ座ってから、机の上に紙が一枚もないことに気づいた。
「落ち着かない顔をしている」
「そう見えますか」
「書類の置き場所を探している顔だ」
否定できなかった。
ユリアンは丸パンへナイフを入れかけて、止めた。
「大きい方と小さい方、どちらがいい」
「半分で結構です」
「それは答えになっていないな」
言われて、リディアはパンを見る。
こんなものまで選ぶ必要があるのだろうか。
けれど彼は待っている。
「……小さい方を」
「では私は大きい方をもらう」
たったそれだけで、食事が始まる。
治療の話も、監査団の話も出なかった。ユリアンは少年のころ、冬至祭の焼き林檎を暖炉へ落とし、拾おうとして袖まで焦がしかけた話をした。
「公爵にも、そういう失敗があるのですね」
「公爵になる前だったから無罪だと思っている」
「記録が残っていれば有罪です」
「君は厳しいな」
リディアは笑った。
笑ってから、何の役にも立たない会話で笑っている自分に気づく。
食後、二人は別々の本を開いた。
同じ部屋で、別の頁を読む。
それだけだった。
外では遠く、交代の鐘が鳴った。
誰も来なかった。
◇
夜が深くなるころには、暖炉の火も低くなっていた。
リディアは同じ行を三度読んでいた。
文字が頭へ入らないのではない。目を閉じるたび、身体がそのまま眠ろうとするのだ。
反射的に背を伸ばす。
「灯りを落とすか?」
ユリアンの声がした。
「……いいえ」
「椅子を離そうか」
「いいえ」
「私はここに残る?」
リディアは少しだけ考えた。
二人の間の卓には銀鈴がある。
施術を始める合図ではない。今夜は、目を覚ましたいときだけ使うと決めたものだ。
ユリアンが眠るたびに見る死の予知は、まだ消えていない。今夜は夢へ入る予定もない。自分が先に眠るのは、思っていたより怖かった。
「そのままで、お願いします」
「分かった」
また静かになった。
予定なら、そろそろ相談所から最初の確認が来る時刻だった。
何も来ない。
リディアは本を閉じた。
「確認だけでも――」
立ち上がりかけたとき、ユリアンは止めなかった。
代わりに、扉の外へ置かれていた夜番表を取って、机へ置いた。
最初の時刻にはミナの署名。その次には使用人。医師。警備兵。
小さな異常が一件。
白墨の内側で呼吸を整え、解消。呼出条件外。
文字はそこで終わっていた。
「行くなら、止めない」
ユリアンは言った。
「ただ、今ここで分かるのはこれだけだ」
リディアは夜番表を見た。
誰かが一人で、自分の代わりになっているわけではない。
名前が違う。
時間も違う。
夜が、分かれている。
彼女は立つのをやめた。
長椅子へ背を預ける。
「……おやすみなさい」
「おやすみ、リディア」
銀鈴には触れなかった。
遠くで、もう一度だけ交代鐘が鳴る。
今度は、それを数える前に目を閉じた。
◇
朝、最初に見えたのは薄い冬の光だった。
リディアは反射的に腕を確かめた。
古い夜傷はある。けれど、新しい傷は増えていない。
卓上の時計は、昨夜から数時間ぶん進んでいる。
その次に気づいたのは、隣のユリアンだった。
椅子へ深く身体を預け、眉間にも力が入っていない。
リディアは息を止めかけて、やめた。
起こす必要はない。
机の夜番表には、夜明けまで別々の署名が続いていた。最後の欄にも、リディアの名前はない。
それでも夜は終わっている。
扉が小さく叩かれた。
「先生、起きてます?」
ミナの声だった。
「起きています」
「朝ごはんです。あと、呼び出しはゼロでした。小さいの一件は、こっちで終わりました」
「記録は?」
「あります」
そこでミナは少し笑った。
「でも、読むのは朝ごはんのあとでも逃げません」
昨日なら、すぐに受け取っていたかもしれない。
リディアは眠っているユリアンへ目を向けた。
「では、あとで」
「はい」
返事のあと、足音が遠ざかった。
やがてユリアンが目を開けた。
「……朝か」
「朝です」
彼は一度だけ窓を見て、それからリディアの腕へ視線を落とした。
「傷は」
「増えていません」
「私も、生きているらしい」
「見れば分かります」
「よかった。確認の手間が一つ減った」
眠気の残った声だった。
リディアは少し迷ってから、ポケットの鍵へ触れた。
「罪状書を読みます」
ユリアンの顔から眠気が少し引く。
「一緒に読んでいただけますか」
「もちろん」
今度は、頼めた。
二人で時刻を書き、黒い封蝋の欠けを見比べる。
リディア自身の手で封を切った。
最初の項目には、こうあった。
――王宮保管夢晶石の窃取。
母の名の下に並ぶ罪状を追い、リディアの目が一か所で止まる。
本文の古びた文字に比べて、その下の署名日だけが不自然に新しかった。
朝の光の中で、そこだけが妙にくっきり見えた。




