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もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

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第21話 母は国を裏切ったのか

 冬至祭の翌朝、公開相談所の記録室には、昨夜の暖炉の匂いがまだ薄く残っていた。


 封を切ってから、まだ十分もたっていない。開いた罪状書を前にリディアが座り、向かいにはユリアンがいる。扉からは、朝食の籠と厚い帳面を両腕に抱えたミナが入ってきた。


 昨夜は数時間、途切れずに眠れた。腕に新しい夜傷もない。ようやく受け取った静かな朝を、母の罪状が待っていた。


 第一項は、王宮保管夢晶石の窃取。


 母の名を罪人として残す紙だった。ここで傷つければ、王宮へ反論するための証拠まで自分で失う。


「先生。パンと証拠写し簿、どっちを先に置きます?」


「帳面をお願いします。パンは、まだ逃げません」


「逃げませんけど、冷えます」


 籠の布をほどくと、焼き林檎の甘い匂いが立つ。空腹には気づいていたが、今はその匂いが、昨夜の休息まで仕事へ戻さないための細い境界に思える。


 ミナは籠を窓際へ置き、帳面を開いた。証拠写し簿は、原本の傷も、誰がいつ写したかも一緒に残す帳面だ。あとから紙をすり替えられても、ここを見れば比べられる。


「封を切った時刻は書きました。欠けの位置も、ユリアン様と見比べています」


「じゃあ、わたしは絵にします。字で『右上がちょっと欠けてる』だと、右がどっちかで揉めそうなので」


 黒い封蝋の欠けを、ミナが細い線で写す。剥がれた蝋の裏には、削り切れなかった銀色の糸が一本だけ残っていた。


 王宮の印の下に、別の印があった。


 それが母のものか、北辺のものか、誰かが後から重ねたのか。今の三人には、まだ決められない。


 ユリアンが原本の左右へ重しを置き、ミナが薄紙を重ねる。リディアは一行読むごとに止まった。文字が抜けていないか、原本と写しを往復する。急げば早く答えへ近づける気がする。だからこそ、急がない。


 リディアは罪状の続きを読んだ。


 エレナ・フェンは王宮の保管庫から夢晶石を持ち出し、北辺へ運んだ。追及を逃れるため、同日中に北へ逃亡した――。


 紙を持つ指へ、力が入る。


 母は、逃げたのではない。


 そう言い切りたい言葉が、喉まで上がった。


 けれど今あるのは、娘の記憶と、王宮が作った一枚の文書だけだ。


 紙の端がわずかに曲がる。リディアは自分で指を開き、封蝋の欠けを数え直した。


 一つ。細いひびが二本。銀色の線が一本。


「止めるなら、今でもいい」


 ユリアンは罪状書へ手を伸ばさずに言った。


「いいえ。続けます」


 リディアは息を吐いた。


「ただし、母が無実だとも、罪状書が正しいとも、まだ書きません。分かることから分けます」


 ミナの筆が、すぐに動き出した。



 リディアは鞄の底から、何度も開いた薄い封筒を取り出した。


 王宮療養棟死亡通知。王宮の中で亡くなった者の日時と場所を、遺族へ知らせる紙だ。母の死について、リディアが渡された正式な記録はこれ一枚しかない。


 折り目だけが白くなっている。


 母が亡くなったあと、リディアはその紙を何度も開いた。「王宮療養棟で死亡」と書かれた行を読めば、理由まで分かると思っていた。実際に分かったのは、翌夜も王太子のもとへ行く時刻だけだった。


 机の上へ、罪状書と死亡通知を並べる。リディアは新しい紙を三つに区切った。


 犯行。


 死亡。


 承認。


「罪状書では、母が夢晶石を持ち出したのはこの日です」


 左の欄へ日付を写す。


「死亡通知では、同じ日の夕刻に、母は王宮療養棟で亡くなっています」


 中央へ同じ日付を書く。


 罪状書の本文は、墨が紙へ沈んでいる。それなのに署名欄だけが妙に黒い。承認印の脇の日付は、母が死んだ翌日だった。


「同じ日に、母は王宮で死に、北へ逃げたことになっています」


 部屋が静かになった。


 ミナが紙を覗き込み、いつもの早口を止める。


「どっちかが、違う?」


「少なくとも、二つをそのまま同時に事実とは扱えません」


 ユリアンが答えた。


「だが、どちらが誤っているかは、まだ分からない」


「はい」


 リディアは署名の線を指で追った。本文の文字より筆圧が強く、墨のにじみ方も違う。


「この罪状書だけで、母の罪を証明することはできません。ですが、これだけで母の潔白も証明できません」


 痛いほど、もどかしかった。


 それでも、さっきまで胸の内にしかなかった怒りが、机の上の三つの日付へ変わっていた。


 ユリアンは慰めの言葉を置く代わりに、定規で三つの欄の下端をそろえた。


「原簿が来るまでは、ここが結論だ」


「ええ。結論を急がないことも、母の記録を守ることになります」


 言ってから、ようやく肩の力を少し抜けた。


「原本を求めます」


 リディアは写しの上へ、必要な記録を書き始めた。



 同じ日の昼、四人は町議会の書記室にいた。


 雪で濡れた外套が壁際に並び、乾きかけの墨の匂いがする。リディアの前には、王宮へ送る照会状が置かれていた。


 リディアは照会状へ三つの名を書いた。


 夢晶石の出入りを残す移送原簿。母の死を記した療養棟死亡簿。罪状へ誰が印を押したかが分かる承認簿。


 母を「逃亡した」とした一枚の紙を確かめるには、その三つが要る。


「原本そのものの移送は求めないのですね」


 町議会書記が尋ねる。


「はい。原本をこちらへ動かせば、途中で失ったと言われかねません。該当頁の写しと、原本を見て写したと分かる印を求めます」


「公爵家の照会として出すこともできる」


 ユリアンが言った。


 リディアは首を振った。


「これは、私の母のことです。それに、北辺での私の職務にも関わります。町議会の記録として出してください」


 署名欄へ筆を置く。


 手が先に書きかけたのは、宮廷夢守り、の五文字だった。


 その職名なら、王宮の扉は開いた。代わりに、自分の夜が閉じられたことは一度もなかった。


 リディアはそこで止まり、一本の線を引く。


 その下へ、町議会公認夢守り、と書き直した。


「先生、そっちのほうが今の名前ですね」


「職名です」


「名前の横に付くなら、だいぶ名前です」


 ミナはそう言いながら、三つの文書番号を別紙へ写していく。


 照会状へ公印が押された。


 公印が乾けば、この紙は王宮へ向かう。リディアが北辺にいて、母の記録を調べ始めたことも、もう知らなかったとは言わせられない。


「原簿ではなく、帰還を求めてくる可能性がある」


 ユリアンの声は低かった。


「その場合も、届いたものを記録します」


 リディアは乾きかけた署名を見た。


「母の真実と、私が戻るかどうかは、別の問題です」



 数日後の夕方、公開相談所へ王宮の伝令が来た。


 原簿の写しは一枚も持っていなかった。


 差し出された勅書の宛名には、宮廷夢守りリディア・フェン、とある。町議会が与えた新しい職名は、どこにもなかった。


 古い呼び名を見た瞬間、肩が仕事へ戻るときのように固くなる。けれど、今の机にはミナの記録簿があり、ユリアンは隣ではなく少し後ろに立っていた。


「受領時刻をお願いします」


 リディアが言うと、伝令はわずかに眉を寄せた。


「先に内容をご確認ください」


「受領と同時に確認しています。時刻を」


 ミナが時計を読み、町議会書記が書き留める。ユリアンは伝令と扉の間に立ったが、返答を代わりにしなかった。


 勅書は短かった。


 求めた三つの原簿は、どれも送らない。閲覧したければ、リディア本人が王宮へ帰還し、審理を受けた後に限る。


 帰還を拒めば、宮廷夢守りの称号は剥奪対象だ。


 さらに、フェン家の籍と爵位についても処分する。


 処分が自分一人へ及ぶのか、家の名の下にいる誰まで巻き込むのか。その範囲さえ、勅書には書かれていない。


 母の記録を見たければ戻れ。戻らなければ、仕事の名も家の名も取り上げる。


 別々だったはずのものを、王宮は一本の縄に結んでいた。


「ご帰還の意思を、こちらへ」


 伝令が返答欄を示した。


 リディアは筆を取らなかった。


「本日は受領のみです」


「命令への回答を保留なさると?」


「回答の期限は、この勅書に書かれていません」


 伝令が口を閉じる。


「書かれていないことを、今ここで足すことはできません」


 リディアは勅書を折らず、受領記録と一緒に証拠箱へ入れた。


 箱の中には、母の罪状書と、回答の代わりに届いた帰還命令が並ぶ。


 どちらにも、北辺の公認夢守りという今の職名は書かれていない。


 原簿を見るなら、王宮へ戻れ。


 戻らないなら、称号も家名も失う。


 リディアは蓋を閉め、鍵を回した。


 次に選ばなければならないのは、返事の文面だけではなかった。

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