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もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

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第22話 宮廷名を捨てる

 翌朝、公開相談所の記録室には、細い冬の日が差していた。


 机の中央には、母の罪状書。その隣に、昨夕届いた帰還命令がある。王宮の伝令は壁際で返答を待ち、リディアは勅書の余白へ指を置いていた。


 母の罪状書では、王宮で死んだ日と北へ逃げた日が重なっていた。町議会名義で三つの原簿を求めたのに、返ってきたのは写しではなく、この命令だった。


 今朝確かめるのは、代わりに何が書かれていて、何が書かれていないかだった。


「回答期限は」


「記載がありません」


 記録係が答える。


「フェン家の籍を処分する、とあります。対象となる方の範囲は」


「それもありません」


 リディアは別紙へ一本線を引いた。もう一本。紙を四つに分ける。


 出頭。宮廷称号。家籍。原簿閲覧。


 最後の欄で、ペン先が止まった。


「閲覧できる原簿名も、ありませんね」


 伝令がわずかに眉を動かした。


「ご帰還のうえ審理を受けられれば、必要と認められた資料は閲覧できます」


「誰が必要と認めるのでしょう」


「王宮にて判断されます」


「三原簿すべてが対象になる保証は」


 返事はなかった。


 空欄だった。


 リディアはそこへ、書かれていない、と記した。


 母の真実を調べることと、自分が王宮へ戻ること。その二つは、一本の縄で結ばれたように見せられていただけだ。


「帰還されれば、処分は保留できます」


「原簿の閲覧は、保留ではなく確約されますか」


 また、返事はなかった。


 リディアは紙を折らなかった。


「承知しました。では、書かれている条件だけを検討します」



 午前の終わり、北辺城の小会議室で、リディアの前には四枚の紙が並んでいた。


 三つある。帰還するか、回答を保留するか。それとも拒否するか。


 三つの選択肢の下へ、ユリアンが影響を書き込んでいく。帰還なら、王宮の資料へ近づけるかもしれない。その横には、以前の施術へ戻される危険。拒否なら家籍処分と北辺の仕事への影響。保留なら、そのどちらも決まらないまま残る。


 最後の一欄だけが白かった。


 ミナが首を傾げる。


「公爵さま、ここ、書き忘れですか」


「いや」


 ユリアンは乾いた声で答えた。


「書かないために作った」


 欄の名は、〈公爵の推奨〉だった。


 リディアはそこをしばらく見た。


 空欄なのに、昨日の勅書よりずっと多くのことが書かれているように思えた。


「私が伝令を追い返し、城内で君を保護することはできる」


 ユリアンは続けた。


「だが、それを先にすれば、君が何を選んだのかが分からなくなる。決めた後の手続きは引き受ける。決める前の結論は、引き受けない」


 帰れば、母の記録へ近づけるかもしれない。


 けれど、近づけるだけだ。


 戻らなければ、家の名を失うかもしれない。自分だけで済むとも書かれていない。


 リディアは遠縁と、かつてフェン家で働いていた人々の欄を別に作った。自分の決断で誰に何が起きるか、分からないものまで分かったふりはできない。


「今日、返事をします」


 そう言ってから、リディアは空白の推奨欄から目を離した。



 午後、町議会の公開席には、王宮の小さな金属箱と、厚い記録簿が並べられた。


 金属箱には宮廷夢守りの印が入っている。


 記録簿には、北辺でリディアがした仕事を、住民が自分の言葉で残していた。


 王宮伝令が勅書を読み上げる。


「帰還を拒まれる場合、宮廷夢守りとしての称号、およびフェン家籍に対する処分が行われます」


「はい」


「フェン家の名まで失えば、あなたには何が残るのです」


 その問いに、胸の奥が一度だけ冷えた。


 母の名。


 王宮で過ごした十年。


 眠らせた朝の数。誰にも書かれなかった夜。


 返したくないものは、たくさんあった。


 だから、返すものを間違えない。


 リディアは旧任命状を畳み、王宮印と一緒に金属箱へ入れた。


 厚い仕事の記録簿は、机のこちら側へ残す。


「十年間、王宮で働いた事実は返しません」


 声は、自分でも驚くほど静かだった。


「母の記録を求めることも、やめません。ですが、宮廷夢守りの称号は返上します。フェン家籍も、私を帰還させる条件として使われるのであれば、私の名から外します」


 伝令が何か言いかける。


「家に連なる方へ処分が及ぶなら、対象と根拠を文書で出してください。それは別に記録し、別に争います」


 リディアは返上書へ署名する。


 一度、手が止まった。


 リディア・フェン、と書く癖が指に残っている。


 その癖を消す必要はなかった。


 過去まで消すわけではない。


 新しい行へ、今の仕事を書く。


 北の夢守り。


 その後ろに、リディア。


「残るものではなく、私が続けるものを名にします」


 議場はしばらく静かだった。


 やがて記録係が、確認のために読み上げる。


「北の夢守り、リディア」


 それだけでいい。



 伝令が退いた後も、ユリアンは前へ出なかった。


 議長が返上書の受領時刻を書き終え、リディアが最後に自分で確認してから、ようやく彼は一枚の申請書を机へ置いた。


「今から、職分保護令を申請していいか」


 北辺職分保護令。


 町議会が必要と認めた仕事を、住居と報酬、記録へのアクセスまで含めて守る領法だ。夜番の交代と本人の撤退権も一緒に定め、領主一人で雇ったり解除したりはできない。


 リディアは紙の下を見た。


 署名欄が四つある。


 自分。議長。夜番代表。領主。


「ユリアン一人の署名では、効かないのですね」


「ああ」


「領主なのに」


「だから使う」


 わずかに、口元が緩んだ。


 リディアもペンを取った。


 紙を上から指で追う。報酬表と夜番の交代。途中で退く権利。


 最後に、夢研究に必要な記録を見る権利があった。


 どれも、守ってもらうというより、仕事を続けるための欄だった。


 最後の署名が揃う。


 その瞬間、議長が別紙を差し出した。


「保護対象の資料と施設を、今日から目録に入れます。記録閲覧権を作った以上、城側の資料も例外にはできません」


 ユリアンはうなずいた。


「当然だ」



 夕方、北辺城の文書庫は昼より冷えていた。


 リディアとミナが目録を読み、ユリアンと家令が城側の保管場所を照合する。


 薬箱。旧い施術記録。使われていない夢晶石の保管棚。


 頁をめくるたび、対象欄に印が増えていく。


 最後の一枚で、家令の手が止まった。


「これは……先代公の封印命令が残っております」


 帳簿を閉じようとした指を、ユリアンが押さえる。


「保護令の対象か」


「夢研究に関わる資産ではあります。しかし、家の――」


「なら、読む」


 リディアは行を追った。


 旧塔上層。


 夢研究室。


 先代公封印。


 共同研究者――。


 最後の名前だけ、黒い墨で乱暴に潰されていた。


 ミナが灯りを寄せる。


「先生、下に字があります」


 黒の下で、細い銀の粉が光った。


 リディアは紙を傾ける。


 消しきれなかった文字が読めた。


 エレナ。


 母の名だった。


 ユリアンは目録を閉じなかった。


 公開確認の欄へ、旧塔上層・夢研究室、と自分の手で書き写す。


 その筆先が、ほんの一瞬だけ止まった。


「ユリアン」


 リディアが呼ぶと、彼は銀粉の残る一行を見たまま答えた。


「この部屋の存在だけは、知っていた」

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