第22話 宮廷名を捨てる
翌朝、公開相談所の記録室には、細い冬の日が差していた。
机の中央には、母の罪状書。その隣に、昨夕届いた帰還命令がある。王宮の伝令は壁際で返答を待ち、リディアは勅書の余白へ指を置いていた。
母の罪状書では、王宮で死んだ日と北へ逃げた日が重なっていた。町議会名義で三つの原簿を求めたのに、返ってきたのは写しではなく、この命令だった。
今朝確かめるのは、代わりに何が書かれていて、何が書かれていないかだった。
「回答期限は」
「記載がありません」
記録係が答える。
「フェン家の籍を処分する、とあります。対象となる方の範囲は」
「それもありません」
リディアは別紙へ一本線を引いた。もう一本。紙を四つに分ける。
出頭。宮廷称号。家籍。原簿閲覧。
最後の欄で、ペン先が止まった。
「閲覧できる原簿名も、ありませんね」
伝令がわずかに眉を動かした。
「ご帰還のうえ審理を受けられれば、必要と認められた資料は閲覧できます」
「誰が必要と認めるのでしょう」
「王宮にて判断されます」
「三原簿すべてが対象になる保証は」
返事はなかった。
空欄だった。
リディアはそこへ、書かれていない、と記した。
母の真実を調べることと、自分が王宮へ戻ること。その二つは、一本の縄で結ばれたように見せられていただけだ。
「帰還されれば、処分は保留できます」
「原簿の閲覧は、保留ではなく確約されますか」
また、返事はなかった。
リディアは紙を折らなかった。
「承知しました。では、書かれている条件だけを検討します」
◇
午前の終わり、北辺城の小会議室で、リディアの前には四枚の紙が並んでいた。
三つある。帰還するか、回答を保留するか。それとも拒否するか。
三つの選択肢の下へ、ユリアンが影響を書き込んでいく。帰還なら、王宮の資料へ近づけるかもしれない。その横には、以前の施術へ戻される危険。拒否なら家籍処分と北辺の仕事への影響。保留なら、そのどちらも決まらないまま残る。
最後の一欄だけが白かった。
ミナが首を傾げる。
「公爵さま、ここ、書き忘れですか」
「いや」
ユリアンは乾いた声で答えた。
「書かないために作った」
欄の名は、〈公爵の推奨〉だった。
リディアはそこをしばらく見た。
空欄なのに、昨日の勅書よりずっと多くのことが書かれているように思えた。
「私が伝令を追い返し、城内で君を保護することはできる」
ユリアンは続けた。
「だが、それを先にすれば、君が何を選んだのかが分からなくなる。決めた後の手続きは引き受ける。決める前の結論は、引き受けない」
帰れば、母の記録へ近づけるかもしれない。
けれど、近づけるだけだ。
戻らなければ、家の名を失うかもしれない。自分だけで済むとも書かれていない。
リディアは遠縁と、かつてフェン家で働いていた人々の欄を別に作った。自分の決断で誰に何が起きるか、分からないものまで分かったふりはできない。
「今日、返事をします」
そう言ってから、リディアは空白の推奨欄から目を離した。
◇
午後、町議会の公開席には、王宮の小さな金属箱と、厚い記録簿が並べられた。
金属箱には宮廷夢守りの印が入っている。
記録簿には、北辺でリディアがした仕事を、住民が自分の言葉で残していた。
王宮伝令が勅書を読み上げる。
「帰還を拒まれる場合、宮廷夢守りとしての称号、およびフェン家籍に対する処分が行われます」
「はい」
「フェン家の名まで失えば、あなたには何が残るのです」
その問いに、胸の奥が一度だけ冷えた。
母の名。
王宮で過ごした十年。
眠らせた朝の数。誰にも書かれなかった夜。
返したくないものは、たくさんあった。
だから、返すものを間違えない。
リディアは旧任命状を畳み、王宮印と一緒に金属箱へ入れた。
厚い仕事の記録簿は、机のこちら側へ残す。
「十年間、王宮で働いた事実は返しません」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
「母の記録を求めることも、やめません。ですが、宮廷夢守りの称号は返上します。フェン家籍も、私を帰還させる条件として使われるのであれば、私の名から外します」
伝令が何か言いかける。
「家に連なる方へ処分が及ぶなら、対象と根拠を文書で出してください。それは別に記録し、別に争います」
リディアは返上書へ署名する。
一度、手が止まった。
リディア・フェン、と書く癖が指に残っている。
その癖を消す必要はなかった。
過去まで消すわけではない。
新しい行へ、今の仕事を書く。
北の夢守り。
その後ろに、リディア。
「残るものではなく、私が続けるものを名にします」
議場はしばらく静かだった。
やがて記録係が、確認のために読み上げる。
「北の夢守り、リディア」
それだけでいい。
◇
伝令が退いた後も、ユリアンは前へ出なかった。
議長が返上書の受領時刻を書き終え、リディアが最後に自分で確認してから、ようやく彼は一枚の申請書を机へ置いた。
「今から、職分保護令を申請していいか」
北辺職分保護令。
町議会が必要と認めた仕事を、住居と報酬、記録へのアクセスまで含めて守る領法だ。夜番の交代と本人の撤退権も一緒に定め、領主一人で雇ったり解除したりはできない。
リディアは紙の下を見た。
署名欄が四つある。
自分。議長。夜番代表。領主。
「ユリアン一人の署名では、効かないのですね」
「ああ」
「領主なのに」
「だから使う」
わずかに、口元が緩んだ。
リディアもペンを取った。
紙を上から指で追う。報酬表と夜番の交代。途中で退く権利。
最後に、夢研究に必要な記録を見る権利があった。
どれも、守ってもらうというより、仕事を続けるための欄だった。
最後の署名が揃う。
その瞬間、議長が別紙を差し出した。
「保護対象の資料と施設を、今日から目録に入れます。記録閲覧権を作った以上、城側の資料も例外にはできません」
ユリアンはうなずいた。
「当然だ」
◇
夕方、北辺城の文書庫は昼より冷えていた。
リディアとミナが目録を読み、ユリアンと家令が城側の保管場所を照合する。
薬箱。旧い施術記録。使われていない夢晶石の保管棚。
頁をめくるたび、対象欄に印が増えていく。
最後の一枚で、家令の手が止まった。
「これは……先代公の封印命令が残っております」
帳簿を閉じようとした指を、ユリアンが押さえる。
「保護令の対象か」
「夢研究に関わる資産ではあります。しかし、家の――」
「なら、読む」
リディアは行を追った。
旧塔上層。
夢研究室。
先代公封印。
共同研究者――。
最後の名前だけ、黒い墨で乱暴に潰されていた。
ミナが灯りを寄せる。
「先生、下に字があります」
黒の下で、細い銀の粉が光った。
リディアは紙を傾ける。
消しきれなかった文字が読めた。
エレナ。
母の名だった。
ユリアンは目録を閉じなかった。
公開確認の欄へ、旧塔上層・夢研究室、と自分の手で書き写す。
その筆先が、ほんの一瞬だけ止まった。
「ユリアン」
リディアが呼ぶと、彼は銀粉の残る一行を見たまま答えた。
「この部屋の存在だけは、知っていた」




