第23話 封じられた母の部屋
旧塔封印目録の一頁だけ、角が柔らかく潰れていた。
それは、先代公が使うことも読むことも禁じた部屋と、封を解く条件を残した帳面だ。
朝の文書庫で、ユリアンはそこへ指を置いた。窓から入る冬の光はまだ低く、机の向こうでは町議会書記が資産調査票を広げている。リディアとミナ、家令も席についていた。
昨日、リディアが宮廷夢守りの称号とフェン家の籍を返したあと、北辺で選んだ仕事を町議会と領主の共同管理で守る北辺職分保護令が動いた。その保護対象になる資料と部屋を洗い直した結果、ここに一行だけ、長く眠っていた記録が出た。
机の端には、昨日の公開議会で使った返上書の写しも残っている。「北の夢守りリディア」と書かれた署名だけが、目録の黒い墨より新しかった。
旧塔上層。夢研究室。先代公封印。
共同研究者、エレナ。
黒墨で潰された名の下には、銀の粉が残っている。
「この部屋の存在だけは、知っていた」
ユリアンが言うと、リディアは目録から顔を上げた。
責める言葉は来ない。それがかえって、逃げ道をなくした。
「中身は知らない。幼い頃、旧塔へ近づくなと先代に言われた。成人してからも、封を改めなかった」
目録の頁角は、一度や二度ではこうならない。誰かが開き、見て、また閉じた。その中に自分の手が何度含まれているか、数える気にはなれなかった。
「知らなかったことと、知ろうとしなかったことは別だ。後者は私の責任だ」
家令が息をのみ、ミナは黙って鉛筆を持ち直した。
ユリアンは時計を見た。リディアの顔色も見る。昨夜の公開議会から、まだ半日も経っていない。
「今開く。立会人を替える。今日は延期する。どれを選んでも、研究室は再封印して記録を残す」
「開きます」
リディアの返事は短かった。
「ただし、公爵家だけの記録にはしません。町議会の書記に、最初から最後まで立ち会ってもらいます」
「分かった」
赦されたわけではない。
それでいい、とユリアンは思った。
◇
昼前、旧塔上層の廊下は息が白くなるほど冷えていた。
子どもの頃、この廊下を通るときだけは足音を立てるなと言われた。理由を尋ねたこともない。いまは自分たちの靴音まで、書記の筆が拾いそうに聞こえる。
警備兵二人を入口側に残し、ユリアンたちは封じられた扉の前へ立った。鉄で作られた北辺公家の家紋が、扉の中央を塞いでいる。その脇には古い封印札が垂れ、かすれた文字で、領主血統以外の接触を禁ず、とあった。
「閣下の血を使えば、内々に開けます」
家令が低く言った。
内々に。
その言葉は、今朝見た折り目より嫌な手触りがした。
「それでは、この部屋はまた公爵家だけの物になる」
ユリアンは封印札を持ち上げた。裏にも文字がある。
血を求める術式ではなかった。
現領主が封印理由を公に訂正し、開示の責任を記すこと。それが解除条件だった。
「先代公は、家名を守るため夢研究を封じた。現領主である私、ユリアン・ノルドは、その理由を開示の妨げとして認めない」
書記が一語ずつ書き取る。
ユリアンは開示書へ署名し、公印を押した。
鉄の家紋が、乾いた音を立てて外れる。
その裏から現れた銀の糸模様を見て、リディアの呼吸が止まった。
「母の……」
罪状書の封蝋の下に残っていたものと、同じ形だった。
今度は黒墨にも蝋にも隠されていない。
扉が、内側へゆっくり開いた。
扉の隙間から、冷えた埃の匂いが流れてくる。
長く閉じた部屋の匂いのはずなのに、ユリアンには家の中へ初めて入るように思えた。
足を踏み入れても、何かが崩れる音はしない。聞こえるのは、書記が紙をめくる乾いた音と、ミナが位置を読み上げる声だけだ。
研究室の中央には、小さな椅子を輪にした模型があった。
「十二……」
ミナが数える。
「先生、触る前に読みます。位置、中央。椅子、十二。右から三つ目だけ焦げてます」
リディアは伸ばしかけた手を止めた。
「ありがとう、ミナ」
書記が箱番号を振り、家令が窓の封を確かめる。ユリアンは入口と時計を見てから、ようやく模型へ近づいた。
十二の席には、それぞれ短い刻みがある。
休止。
交代。
撤退。
一人を使い続けないための順番だった。
けれど、一席だけ座面が黒く焼け、そこから太い線が一本、王都の方角を示す板へつなぎ直されている。
「最初から、こうだったのでしょうか」
「分からない」
リディアは即答した。
「分からないままにして、次を見ます」
母の名を見つけた娘が、母に都合のいい答えを急がない。
その横で、自分だけが先祖に都合のいい答えを選ぶわけにはいかなかった。
奥の机には、共同研究手帳が一冊残されている。
最初の数頁には二つの筆跡が交互に並んでいた。一つは先代公。もう一つを、リディアは死亡通知に添えられた古い署名と見比べる。
「母の筆跡と考えてよさそうです。ただ、頁ごとに確認します」
途中には夢晶石の輸送記録が挟まっていた。
北辺から王宮へ。
その許可欄に、先代公の印がある。
罪状書は、エレナが王宮の晶石を北へ運んだと書いていた。ここにあるのは逆向きで、しかも先代公の印がある。二つを同じ出来事だと決めることも、別だと切り捨てることも、まだできない。
家令の顔から血の気が引いた。
「閣下。まず私どもで内容を精査してから、必要な頁を――」
ユリアンは返事より先に、資料箱へ手を掛けた。
まだ自分が読んでいない頁も入っている。
その箱を、そのまま机の向こうへ滑らせた。
リディアの前で止まる。
「必要な頁を私が選んだら、王宮と同じことをする」
家令は唇を結んだ。
「家に不利なものほど、私の手元だけに置くべきではない。原本は職分資料として、リディアと町議会との共同保管にする」
「ユリアン」
呼ばれて、彼は顔を上げた。
リディアは箱ではなく、彼を見ていた。
「私は、先代公がしたことまで、あなたがしていないことにはしません」
「ああ」
「でも、今あなたが開けたことも、していないことにはしません」
胸の奥で、固くしていた何かが少しだけほどけた。
赦しではない。
同じ記録を、同じ机で見る。その程度の場所をもらっただけだ。
今は、それで十分だった。
手帳の中ほどで、頁が数枚まとめて切り取られていた。
綴じ糸には、古い封蝋とは色の違う黒い蝋がこびりついている。
「封じる前から、ですか?」
ミナが尋ねる。
「断定できない」
ユリアンは言った。
「蝋も採って記録する。誰が抜いたかは、それからだ」
夕方になるころには、資料の大半が番号を付けられ、箱へ戻されていた。
机に残ったのは共同研究手帳一冊だけだった。
西日が細く差し込み、紙の凹凸を照らしている。
リディアは死亡通知の署名写しを横へ置いた。ミナが頁を押さえ、ユリアンは少し離れて待った。
最後の数行には、十二の輪を崩す改変について書かれていた。
王宮地下。
夜機。
停止方法の一部を北へ移したこと。
そして、最後に短い一文があった。
リディアの指が止まる。
「……母です」
声は震えなかった。
「筆跡も、最後の癖も一致します」
ユリアンは頁をのぞき込んだ。
そこには、たった六文字が残されていた。
『夜機を止めて』
最後の「て」の一画だけ、墨が薄かった。
書き終える力さえ残っていなかったのかもしれない。
だが、そこから先を想像で埋めることはできない。
ユリアンは欠けた頁と、十二席の模型と、リディアの横顔を順に見た。
「次は、夜機が何なのかを調べる」
「はい」
窓の外では、冬の日が落ちようとしていた。
西日に照らされた手帳の上で、『夜機を止めて』の最後の一画だけが薄く残っていた。




