第24話 王国を眠らせる機械
十二席模型の休止札は、十一枚まで同じ向きに揃っていた。
一枚だけが裏返され、細い釘で席へ打ちつけられている。
旧塔研究室の高窓から朝の光が差し、釘の頭だけが白く光った。昨日、ユリアンが封印を解き、母エレナの共同研究手帳と「夜機を止めて」という最後の記述を見つけた部屋だ。
夜機。母の手帳で王宮地下にあるとだけ分かった、正体の知れない装置。
今朝のリディアが知っているのは、まだそこまでだった。
「これ、外せなかったんでしょうか」
ミナが模型へ顔を寄せる。名前や昨日との違いを見つけるのが早い少女は、十二枚を数え終えるより先に変な一枚を見つけていた。
「外せなかったのではなく、外さない形にされています」
リディアは釘へ触れず、その影を指で追った。
手帳の原設計では、十二の席に休止と交代と撤退がある。ところが黒墨で書き足された後年の線は、その一席から王都の方向へ太く伸びていた。
休む札だけが固定されている。
ずいぶん分かりやすい改良だった。
改良と呼ぶには、少し悪趣味なくらいに。
「効率化ではないのか」
向かいの机で記録を読んでいたユリアンが問うた。
「効率は上がります。一人を休ませなければ」
リディアは白墨を一本取り、床へ十二の小さな円を描いた。
「でも、これは人を減らしたのではありません。休止を減らしています」
十二の円を細い線でつなぐ。その上から、黒墨の追記どおり、一つの円だけを王宮側へ太くつないだ。
左腕の古い夜傷が、袖の下でかすかに熱を持った。
リディアは手を止めた。
「先生?」
「熱を感じただけです。まだ増えてはいません」
問題ありません、と続けかけて飲み込む。
その言葉で省いたものが、これまで少し多すぎた。
「書いておいてください。開始前、左腕に軽い発熱」
「はい。軽い、発熱。問題なし、とは書きません」
ミナがわざと復唱し、書記が小さく咳をして笑いを隠した。
少しだけ肩の力が抜けた。
◇
昼前、隣室の床には白墨の境界が引かれていた。
使うのは、研究室に残っていたごく少量の夢糸と、空の夢晶石、それから十二席模型だけだ。実物の夜機を動かすのではない。流れの向きだけを見るための、小さな再現だった。
「一回目。三息で止めます」
リディアが告げると、ミナが指を三本立てた。
「一。二――」
二まで数えたところで、一席が赤くなった。
同時に、左腕へ針を通したような熱が走る。
模型から浮いた黒い夢糸が、細い蛇のようにリディアの袖口へ向きを変えた。
取れる。
そう思った時には、右手がもう糸へ伸びていた。
吸ってしまえば早い。流れは自分の身体で分かる。
「三。先生、手」
ミナの声が飛んだ。
机の向こうで、ユリアンが停止札を返す。
「リディア。終わりだ」
命令ではなく、決めていた時刻を知らせる声だった。
リディアは黒い糸の手前で指を止めた。
一呼吸遅れて、自分から手を引く。
「止めます」
白墨の外へ下がると、腕の熱が少しずつ薄れた。
夢晶石には、ごく浅い黒い曇りだけが残っている。
成功ではない。
リディアは記録紙の最上段へ、そう書いた。
「先生、流れは見えましたよ」
「見えました。でも、一人で完成させた実験は、正しい結果でも失敗です」
ペン先で「失敗」の下へ線を引く。
母の手帳にあった休止、交代、撤退。
それを調べるために、自分だけが例外になっては意味がない。
二回目は役割を変えた。
ミナが呼名と三息ごとの確認。ユリアンが時間と停止札。書記が全員の状態を記し、リディアは境界の外から夢糸の向きだけを見る。
「開始」
空の夢晶石へ、今度はゆっくり黒い曇りが入った。
模型の外周――結界を示す輪が、冬の朝の霜ほど淡く光る。
その一方で、太い線につながれた一席の人形だけ、腕へ黒い筋が伸びた。
「先生。外と、人形。両方です」
「ええ」
入力は一つではない。
集められたものの一部は外周へ流れ、残りが一席へ落ちている。
リディアは母の手帳を開いた。十二人環――十二の席が交代し、休み、いつでも抜けられる原設計。その横にある古い記号と、北辺で自分たちが作った白墨手順が、驚くほどよく似ていた。
大事なのは十二人という数ではない。
見る者、止める者、代わる者が別にいることだ。
「私たち、昔の人と同じところまで来てたんですね」
ミナが嬉しそうに言う。
「途中までは」
「そこは全部って言ってもいいところでは?」
「記録に残す時は、途中までです」
「先生、そういうところです」
ユリアンが目を伏せたまま、ほんの少し口元を緩めた。
「その点は私もミナに賛成だ」
リディアは返事の代わりに、二回目の実験結果へ丸をつけた。
腕の熱は増えていない。
それも、結果の一つだった。
◇
午後、四人は研究室の記録机へ戻った。
夢晶石の移送量。王宮の安眠報告。北辺で同じ悪夢が増えた時期。夢守局の欠勤と死亡。
数字だけを並べると、頭が紙になりそうだった。
リディアは一度ペンを置き、冷めた茶を飲んだ。渋い。朝から三度目の同じ茶葉なのだから当然だ。
「先生、顔が数字です」
「どんな顔ですか、それは」
「たぶん、四列です」
ミナの説明は分からなかったが、少なくとも少し笑えた。
もう一度、紙を見る。
王宮へ夢晶石が多く送られた月ほど、王家の安眠日数は伸びていた。
同じ時期、地方では未処理の悪夢が増え、夢守局では欠勤と死亡が増えている。
結界の維持記録も強くなる。
夜機は、国を守っていた。
だからこそ、厄介だった。
民の恐怖を集め、国境の結界へ変える。その余りを王家の安眠へ流し、最後に残る負荷を一人の夢守りへ押し込む。
公共の利益があるから、誰かの身体を燃料にしてよい。
そんな式が、紙の上ではきれいにつながってしまった。
「私が辞めた後、王宮は眠れなくなった」
リディアは安眠報告の空白を指でなぞった。
「そう聞いている」
「私が抜けたから、壊れたと思っていました」
誰に責められたわけでもない。
それでも、どこかでそう数えていた。自分がもう一晩残っていれば。もう少し傷に耐えていれば。
けれど、十二あるはずの休止札を一枚にまとめ、そこへ人を縫いつけたのは自分ではない。
「違いました」
短く言うと、胸の奥で何かがほどけた。
軽くなった、とは思えない。
代わりに、怒る場所がやっと見えた。
「一人が抜けただけで崩れるように変えた。その設計の方が先です」
ユリアンは慰めを挟まなかった。
「記録にも、そう書こう」
「はい」
リディアは新しい紙を出した。
夜機を止めるだけでは足りない。
結界まで落とすわけにはいかない。先に、一人へ集めない別の道を戻す必要がある。
◇
夕方になると、旧塔の窓は早く暗くなった。
ユリアンが灯りを斜めに持ち、リディアは共同研究手帳の欠落頁の前後を見比べていた。
正面からでは見えなかった薄い銀の筋が、模型の裏板に浮かぶ。
十二席の輪から一本だけ、北辺公家の鐘へ伸びている。
「ここです」
リディアが角度を変える。
エレナの筆跡が、擦れた板の上に残っていた。
――物の鍵は奪われる。北辺公の夢封へ移す。
「夢封……」
ミナが声を落とした。
物の鍵を、夢の中の反復する象徴へ隠す封印方式。ユリアンが十年見続けてきた黒い鐘や死者の列も、ただ彼を苦しめる像ではないのかもしれない。
その時、ユリアンが眉間を押さえた。
「鐘が聞こえる」
リディアはすぐに手帳を閉じた。
「眠気は」
「強い。だが会話はできる」
「今日は夢施術をしません」
「私も、その決定には賛成だ」
端正な返事のあと、少し間があく。
「珍しく、眠れと言われる前に眠れそうだからな」
乾いた冗談だった。
リディアは笑う代わりに、灯りを一つ消した。
「では、その珍しい機会を調査で潰さないでください」
停止鍵へ近づくには、彼の夢を調べる必要がある。
だからこそ、今夜すぐではない。
合意と退路を整え、彼が起きている時に決める。
ユリアンの夢は、治療対象である前に、彼のものだ。
◇
夜、北辺城の記録室で、ミナが机の端へ砂時計を置いた。
「ここまで。落ちたら終わりです」
「あと一冊だけでも?」
自分の口から出た言葉に、リディアは少し驚いた。
ミナはもっと驚いた顔をした。
「先生がそれ言うんですか」
「言ってから、よくないと思いました」
「記録していいです?」
「それはしなくていいです」
ユリアンが隣で低く笑った。
今夜見るのは、母の死亡通知、晶石負荷、模型改変の日付だけ。詳細な死因の照合は翌朝に回す。
先に決めた範囲を、リディアは指で一つずつ確かめた。
死亡通知には「長患い」とある。
穏やかな言葉だった。
けれど、共同研究手帳の数値は穏やかではない。
死亡日の前日。
負荷の欄だけが、それまでの並びから跳ね上がっている。
欄外に、エレナの字ではない短い記号があった。
リディアは灯りを近づけた。
「……中核負荷」
ミナの筆が止まる。
リディアは続きを読んだ。
「許容値、超過」
砂時計の最後の一粒が落ちた。
誰も次の頁をめくらなかった。
死亡通知の「長患い」という文字だけが、机の上で妙に静かだった。




