第五話: 嫁禍於人
兵士たちの前列が、半歩、押し戻された。盾が鳴り、槍の穂先が倒れた屍人の布に食い込んだまま戻らない。柄を引くと、布が裂けて白い粉が噴き、刃先の先で骨がきしんだ。槍を抜くために体勢を崩した兵の前へ、次の屍人が滑るように寄ってくる。膝で地面を擦り、手指で石を掻き、穴の縁から上がってくる数が絶えない。穴の底では、布に包まれた塊がまた一つ起き上がり、縁へ押し寄せた。
王国兵が盾を合わせ直し、私兵団が隙間へ刃を差し込む。斬りつけて倒しても、列の密度が変わらない。穂先と刃が肉に沈む音が続き、押し返す力だけがじりじり削られていった。
門の内側、ファルクは石塀の影から動かなかった。頭を少し傾け、兵の列の崩れ方だけを見ている。目元も口元も変わらない。
塀の外側で、リオたちは言葉を失っていた。穴と兵の列の間が近すぎる。前列がもう一歩下がれば、塀の外へも押し出される。伊織が息を吐き、視線を前へ戻す。
「槍じゃ埒が明かん」
伊織は兵の肩口を掴んで脇へ押し、盾の縁を押しのけて前へ出た。次の瞬間、剣が一線を描き、屍人の首と腕がまとめて飛ぶ。石灰が舞い、倒れた体が足元で折り重なる。二太刀目が走り、更に数体をまとめて斬り伏せた。兵の列が、押し戻される動きを一瞬だけ止める。
伊織の二太刀で前列の押し込みが止まった。だが、穴の縁に掛かる手が増え、布の塊が折り重なって這い出してくる。盾が軋み、群青の列がまたわずかに下がった。
ファルクが叫んだ。
「見ろ。彼らは救われずに死んだ者たちだ。飢えて、捨てられて、祈りだけ与えられて終わった者たちだ」
刃が肉に沈む音の合間に、言葉が通る。ファルクは穴を指し、兵の列を見た。
「お前たちが見殺しにした。教団の金で肥える上層部は、祈りを盾にして放置した。だからこれは裁きだ。神が救わないなら、私が神になろう」
私兵団の槍が折れ、柄が地面に転がる。
「お前たちも殺す。領主も殺す。恵まれた者も全部だ。まっさらにして、平等な街に作り直す。誰も飢えず、誰も腐らない。永遠の輪の中で」
ルヴェリスが一歩前へ出た。視線はファルクを真っ直ぐに捉えている。
「確かに、彼らは生前、苦しみを味わったのでしょう。あなたの記憶に、その痛みが鮮やかに甦るのも理解します」
伊織の刃が返り、首が落ちる。倒れた体の上を、次の体が這う。
「ですが、あなたが今していることは、彼らの救いではありません。操るための手足にしているだけです。飢えた子の声を、自分の復讐の声にすり替えている」
ファルクの口元が僅かに歪んだ。
「おまえに“救い”の何が分かる!?」
「あなたは死者を辱めています」
盾が押され、前列がまた半歩下がる。屍人の指が盾の縁に掛かり、布が裂けて石灰が落ちた。
「彼らは飢えて死んだ。祈っても届かなかった。だからこそ、死んだあとくらいは眠らせるべきだった。あなたはその骸を引きずり出し、槍と盾の前へ並べている。救いではありません。見せしめです」
ルヴェリスは淡々と続けた。
「裁きを語るなら、まず彼らに頭を下げなさい。あなたが踏みつけているのは敵ではない。あなたが守ると言った者たちの死です」
盾が軋み、前列がまた押される。
「そして、これを正当化した瞬間から、この街は一線を越えます。今日あなたが通した道は、次に別の誰かが、別の死者でなぞる。あなたが作ろうとしているのは理想郷ではありません。死者を道具にする秩序です」
「……お前は、腹が満ちた者の言葉しか知らない」
指先が穴へ向く。その動きに反応して、縁に掛かる手が一斉に増えた。布の塊が連なって引き上がり、石灰が崩れ落ちる。穴の底でも、また別の塊が起き上がっていた。
伊織の剣が斜めに落ち、屍人を布ごと断った。倒れる数より、穴の縁へ集まる数が多い。切り開いた場所はすぐに埋まり、盾の列がまた軋んだ。
「おい、リオ!何やってる!?」
リオは我に返り、剣を抜いて屍人へ斬りかかった。刃が通り、布に包まれた胴が崩れる。だが一体倒しても、次がすぐに前へ出る。伊織が叩き伏せるたび、縁から別の手が伸び、足元の死体が押し寄せた。
セリアが目を閉じた。唇が短く動き、低い声が漏れる。
「ルァ・シェル ノクス」
次の瞬間、背中から黒い翼が広がった。髪は漆黒に沈み、眼が赤く光る。両手の甲に紋章が浮かび、淡い熱を帯びて脈打った。クララは息を呑み、目を逸らせなかった。
ファルクがその姿を見て声を上げる。
「おお、セリア・ファイン!何と美しい姿なのだ!」
喜色を隠さず、兵の列へ命じた。
「さあ、殺せ。そこにいる者たちを皆殺しにしろ!」
ファルクの命令を無視して、セリアはリオの背後へ回った。両肩に手を置く。
「ほら、ドバッと出しちゃいなよ!」
リオの腕が動いた。剣が斜めに走り、屍人の列がまとめて裂けた。まるで伊織の斬撃を再現したかのようだった。続けてもう一太刀。押し込まれていた盾の列が息を戻し、槍が前へ出た。
伊織が短く笑うように声を出した。
「そうだ。やれば出来る子だよ、お前さんは」
リオは返事をしない。正確には、出来なかった。斬るたびに、肩から腕へ熱い何かが迸るような感覚が伝わる。それを忘れないようにと、必死で剣を振るっていたのだった。屍人の密度がようやく削れ、穴の縁に空間ができた。
その空間から、小さな手が伸びた。布に包まれたままの体が、縁へ腹を擦りつけて這い上がってくる。背丈は兵の腰にも届かない。頭の形が幼い。石灰が髪に絡み、顔の輪郭だけが見える。
リオの剣先が止まった。伊織の刃も、半ばで軌道を外した。切れる位置にいるのに、刃を降ろせない。次の屍人が後ろから押し、幼い体が前へ倒れ込む。盾の縁に指が掛かり、兵が息を呑む音がした。
ファルクが動けなくなった。穴の縁へ集まる白い粉の向こうに、その小さな体がある。視線が外れない。喉が詰まり、次の言葉が出てこない。命令を出すはずの口が開いたまま止まる。
胸の奥で何かが擦れた。正しいと信じて踏み込んできた足元に、踏み込んではいけないところがあったことに、今さら気づくような感覚だった。
ファルクは、その幼い体から目を外せなかった。灰の区画で見てきた光景が、目の前の布の形と重なる。病にかかった子どもが、薬も湯も得られず、家の隅で熱に浮かされ、やがて動かなくなる。助けを求めても、来るのは祈りの言葉だけだった。祈りは腹を満たさず、熱を下げず、朝になれば小さな体は布に包まれ、共同墓地の穴へ放り込まれる。石灰が降り、次の布が落ちる。その繰り返しを、ファルクは何度も見た。
だからこそ、世界を一度まっさらにして作り直すと決めた。飢えも腐敗も、恵まれた者の特権も、まとめて壊す。屍人はそのための手段のひとつに過ぎない。そう信じて、ここまで来た。
だが今、穴の縁から這い上がってきた幼い体が、理屈の継ぎ目を正面から裂いた。言い換えも、正当化も追いつかない。思考が先へ進まない。ただ見ているしかない。
思考が止まったのは一瞬だった。だが、その一瞬が戦場では長い。ファルクの体はそこに立ったまま、目だけが幼い体を追っている。
群青の盾が揃って前へ出た。押し込むのではない。間合いを奪う。赤の列が横へ広がり、逃げ道を塞いだ。槍の穂先が一斉に向きを揃え、足元へ踏み込む音が重なった。
「押さえろ!」
ファルクが身を引こうとしたときには、左右から回り込まれていた。盾が距離を詰め、槍先が喉元と胸へ突きつけられる。私兵団の刃が背を断つ位置に入り、退く場所が消えた。屍人はなお這い寄り、盾の縁へ手を掛け続ける。
ドラクスが前へ出た。掌をファルクへ向け、短い詠唱を唱えた。
「術よ、閉じろ。魔力よ、鎮まれ」
淡い光が地面から立ち上がり、輪となってファルクの足元を囲む。次いで手首と首元へ走り、絡むように締まった。ファルクの肩が跳ね、指先が開いたまま固まる。術の気配がそこで断たれた。
墓穴の縁で動いていた屍人が止まった。伸ばした手が空中で固まり、次の瞬間、力を失って崩れる。盾に手を掛けていたものも、槍へ縋っていたものも、同じように折れ、重なっていく。兵たちへ向かっていた列が一斉に崩れ落ち、白い粉が膝の高さで舞った。押し込まれていた盾の列が、ようやく姿勢を立て直す。
「封じた。動くな」
兵が一斉に取り押さえ、縄が掛けられる。ファルクは膝をつき、土と石灰に手をついた。縄が締まり、ファルクは押さえつけられたまま顔を上げない。
リオは剣先を下げ、肩に残った感触を確かめるように振り返った。セリアが軽く息を抜く。黒い翼が消え、赤く光っていた眼が落ち着く。両手の甲の紋章も薄れ、髪の色も元へ戻った。
クララが一歩詰め寄る。
「セ……セリア……あなた、ちゃんと自分で戻れるんじゃない!」
耳から頬まで赤い。声が掠れて、怒っているのか焦っているのか判然としない。
セリアは悪びれず、首を傾げた。
「あ……バレた?」
言いながら、リオの肩から手を離した指先を引っ込める。
クララは言い返そうとして言葉を失う。視線が揺れ、拳だけが固い。リオは二人から目を逸らし、墓穴の縁へ視線を戻した。動かない布の塊が折り重なり、石灰が静かに落ちている。
ルヴェリスが兵の間を進み、ファルクを見下ろした。
「……あなたに確認したいことがあります」
声は低い。ルヴェリスは目を逸らさずに続けた。
「セリアが堕界体に憑依された件を、あなたはどこで聞いたのですか。誰の口からです」
ファルクは顔を上げないまま、短く吐き捨てる。
「……言うと思いますか」
縄が食い込み、肩がわずかに揺れた。だが、口は開かない。
「ええ。今は仰らないでしょう」
ルヴェリスの声は変わらない。冷たい目で見下ろしていた。
「話すようにして差し上げます……いずれ」
ドラクスが兵へ視線を送る。
「連れて行け。ここでは余計なことはするな」
群青と赤が縄を引き、ファルクの体を立たせた。
ファルクは引きずられながら、墓穴の縁を一度だけ見た。幼い布の形に、目が留まりかける。だがすぐに視線を逸らし、唇を噛んだ。
* * *
翌日。クロムヘヴン辺境伯ヴァルグラド=クロムヘヴンの屋敷、中庭。赤いマントの隊長格が数人、整列していた。正面に辺境伯が立ち、通達役の兵士が紙片を広げる。
処分。解雇。部隊からの除名。通達役の兵士は理由を読み上げた。命令違反。部隊の統制を乱したこと。独断で騒動を拡大させたこと。領主の名と私兵団の威信を損ねたこと。読み終えると、隊長たちは声を出さないまま前を向いた。
隊長の一人が胸元へ手をやり、留め具を外した。赤いマントが肩から落ちる。隊長はそれを掴み、畳まずに両手で差し出した。通達役の兵士が受け取る。辺境伯は何も言わず、視線だけを返した。
通達が終わったあと、中庭の端でサヤが隊長格の前に立っていた。目が赤い。
「……私のせいで」
言いかけて、言葉が詰まる。
そこへ、リオたち一行がサヤを尋ねて入ってきた。間もなくサヴェルナへ戻る。別れの挨拶をしに来たのだった。
隊長はサヤから視線を少し外した。
「兵士が命令に従わなかったら、それはただの暴徒だ。私は兵士としての誇りを忘れていただけだ」
サヤの肩が震える。誰もすぐに言葉を継がない。リオも動けない。視線が一点に集まり、動きが止まる。
遅れて、伊織が口を開いた。
「『「義を見てせざるは勇無きなり』。正しいことと知りながら、それを実行しないのは、勇気がないからだ。お前さんは勇気があったのだ」
隊長は短く頷いた。それから踵を返し、中庭を出ていった。中庭に残ったサヤは、その場に立ったまま言葉を探していた。目元が濡れて、声が続かない。
リオたち一行がサヤに歩み寄り、領主に軽く一礼をした。辺境伯ヴァルグラド=クロムヘヴンは、無言で一行を見ていた。測るような目つきだった。一行はサヤを促し、中庭から立ち去ろうとした。
ふと、伊織が足を止めた。振り返らずに、辺境伯にも届く声で言う。
「嫁禍於人、ってやつだな」
辺境伯は眉を動かしたが、問い返さなかった。通達役の兵士も口を挟まない。屋敷の門を出て、角を曲がったところでセリアが言った。
「さっきのさ。カカ……なんとかって、何?」
伊織は前を向いたまま答える。
「自分の災いを、他人になすりつけるって意味だ。責任を外へ逃がす言い方だな」
セリアは短く笑う。
「へえ。嫌な言葉。……でも、ぴったりだね」
リオとクララはサヤの方へ目を向けたまま、セリアと伊織の言葉を黙って聞いていた。




