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クロムヘヴンの偽導者 ~救済を謳う導師と、北の都市に広がる教義の熱~ 全26話完結  作者: 甘栄堂
第五章:裁きは光輪の名を借りて

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第四話:戻る者、蘇る者

 〈緑角亭〉の戸を押すと、麦と油の匂いが鼻に来た。夜更けの客は少なく、暖炉の火も弱い。カウンターの奥にいた主人が顔を上げ、リオたちを見るなり口角を上げた。


「おう、お帰り!」


 次の瞬間、主人の目が入口の陰で止まった。頭からマントをかぶった影が、壁に寄っている。肩のあたりが妙に高く、布の下が不自然に揺れる。


「……おい。なんだそりゃ」


 伊織が軽く手を上げた。


「ちょっと訳あり。驚かせて悪いな」


 ルヴェリスが一歩前に出る。


「ご迷惑をおかけいたします。できれば詮索なさらないでいただきたいのです」


 主人は眉を上げ、それから苦笑した。


「……了解。この業界、詮索は御法度だ。どうぞ、そのまま部屋へ」


 階段を上がりきると、二階の廊下に明かりが一本だけ残っていた。板床に、窓の外の淡い月明かりが伸びている。クララが先に進み、振り返ってセリアの腕を取る。


「足元に気を付けて」

「うん。クララの言うことなら」


 それぞれの部屋へ散るところで、クララが自分の部屋の前で鍵に手をかけた。背後でマントが揺れる。セリアが当然のようについて来る。


「……セリア。あなたの部屋は、そっち」


 クララが少し離れた扉を示すと、セリアの動きが止まった。


「やだ」

「やだじゃない。取ってあるでしょ」


 返事がない。振り返ると、マントの端がわずかにずれて、赤い目が覗いた。いつもの軽さが引いている。


「ねえ、今晩、クララとずっと一緒にいたい」

「……理由は?」

「一人になったら、また変な方に引っ張られる気がする。さっきみたいに」


 布の下で、肩が一度だけすくむ。マントの内側がほんの少し膨らみかけた。クララは反射的に端を押さえる。


「それ、本当?」


「分かんない。でも、クララと一緒なら落ち着く。そうしたら、戻れると思うんだ」


 廊下の向こうでリオが足を止めた。伊織も振り返る。ルヴェリスが二人に近づき、クララを見た。


「クララ、無理はしないでください。危ないと思ったら、すぐ呼んでください」


 次にセリアへ向けて言う。


「セリア。部屋に入って、どうすれば元に戻るのか、落ち着いて考えましょう」


 セリアは首を振った。


「だめ。今は、クララと一緒がいいんです」


 クララは鍵に触れたまま一拍だけ置き、扉を開けた。


「分かった。今晩だけ」


 セリアが笑う。


「うん」


 クララはセリアを先に入れ、扉を閉めた。


「約束。私物は勝手に触らないでね」

「うん。守る」


 夜半。主人が二階へ上がり、廊下の灯りが切れているところに油をさしながら点けて回っていた。クララの部屋の前を通りかかったとき、扉の向こうから、堪えきれない声が突き抜けてきた。甘い声が何度も重なり、しばらく途切れない。主人は足を止め、火を覆うガラスをそっと押さえた。口元だけが少し緩む。


 数部屋先。伊織の部屋のあたりで、今度は別の声が廊下へ押し出された。壁が薄いのではなく、抑える気がないような響きだ。熱を帯びた声が何度も重なり、間を置かず続いた。主人は手を止め、眉を上げる。


「……お盛んだな」


 小さく呟いて、油差しを持ち直した。灯りを整えながら歩き、最後まで扉の方は見なかった。 独り言は小さく、廊下の灯りに吸われて消えた。


 翌朝、窓の外が白み始めたころ、クララは目を開けた。隣のベッドに目を向けると、セリアは、元の姿に戻っていた。


 セリアが先に起き上がり、クララの肩に腕を回す。寝癖を指で払ってから、クララを覗き込んだ。


「痛いところ、ない?」


 唐突な問いだった。クララは返す言葉を探し、視線を逸らす。


「……ない」


 セリアは安心したように笑い、それから自分の手の甲を見た。紋章が浮いていた場所を、指で一度、なぞった。


「……ちょっと、怖かった」


 声が小さくなった。セリアの表情が止まる。


「え?」

「前に堕界体が憑依したときとは違って……昨日は……一部だけ。だから余計に怖かった」

「……ごめん。怖がらせたのは分かってる」


 口に出すと、昨夜の感触が勝手に重なる。クララはそれを振り払うように、続けた。


「今朝、戻ってて良かった。でも……昨日のセリアは、目が笑ってなくて。必死で、止まらない感じがした」


 セリアは数拍、黙った。次に笑うが、いつもの軽さと少し違う。


「あたしは、あたしのままだったよ」

「そうなの?」


 クララが問い返すと、セリアは頷いて肯定して見せた。その時、廊下から足音が近づいた。控えめなノックが二つ。


「クララ。起きていますか」


 ルヴェリスの声だ。クララは少し待つよう返事をし、服を着ると、扉に手を掛ける前にセリアを見た。


「……早く服を着て。みっともないから」

「うん」


 セリアは素直に頷き、急いで身支度を調えると、ベッドの端に座り直す。クララが扉を開けると、ルヴェリスが廊下に立っていた。向こうにリオもいる。伊織の姿はない。


「セリアの様子はいかがですか」

「戻ってる」


 クララが短く答える。ルヴェリスの視線が一瞬だけセリアへ移る。異形の気配を測るような目だが、すぐ落ち着いた。


「……戻れましたか。まずは良かったです」


 リオがセリアを見て、息を詰めるように言った。


「本当に、戻ったんだな」

「戻ったよ。ほら、普通でしょ」


 笑顔を浮かべながら、セリアは両手を広げた。クララは視線を落としたまま、ルヴェリスへ言った。


「戻りました……満足したみたいです」

「承知しました。朝食の後に、今後の方針を整理しましょう」


 ルヴェリスが言い、廊下の先へ視線をやる。


「王国兵と私兵団の動きも、確認したいところです」


 ルヴェリスの言葉に、リオは小さく頷いた。


「俺、下で聞いてきます。宿の人なら、町の噂も入ってくるでしょうから」

「お願いします」


 ルヴェリスは即答し、クララへ目を向ける。


「クララ、あなたも降りられますか」

「はい、行きます」


 クララは短く返し、マントを肩に掛けただけのセリアを見た。


「……ちゃんと服を着て。普通に」

「うん。クララの言うことなら」


 セリアは頷き、髪を指で整える。クララは彼女から目を離し、扉を閉めた。


 階段を下りると、食堂には焼いた麦の匂いが溜まっていた。主人が鍋の前で腕を組み、こちらを見上げる。視線がクララに当たり、ルヴェリスの顔で止まった。


「……やあ、おはよう。朝から疲れた顔してるな」


 主人はからかうように言い、木椀を並べる。リオが椅子を引きながら切り出した。


「昨夜から今朝にかけて、王国兵と私兵団、動いていました?」

「だいぶ動きがあった。市場の方だが……」


 主人は鍋をかき回し、言葉を継いだ。


「“銀輪の礼拝堂”に兵がなだれ込んだって噂だ」


 ルヴェリスが静かに受ける。


「ありがとうございます。情報はそれだけで十分です」


 セリアは椅子に座り、指先で木椀の縁をなぞった。何でもない仕草のはずなのに、クララには目につく。昨夜の目が笑っていなかったことが、まだ胸に残っている。


 主人の言葉を聞いて、リオは木椀の中身に視線を落とした。湯気の向こうで、湯の揺れだけが見える。追っ手が動き、礼拝堂に踏み込んだ。なら、調査はここまででも形になる。そう思ったところで、口が動いた。


「……追っ手がもう動いてるなら、俺たちはここまででいいかな。あとは逮捕を待てば――」


 言い終わる前に、ルヴェリスが遮った。声は低く、落ち着いている。


「私は、ファルクに確認したいことがあります」


 リオが顔を上げる。クララも椀から目を離した。


「セリアが堕界体に憑依された事実が、学院から漏れています」


 その一言で、場の温度が変わった。セリアは黙ったまま、椀の縁をなぞる指を止めた。ルヴェリスは続ける。


「その情報に触れられる人物は、一人ではありません。どこから漏れたのか、学院側だけでは絞れない」


 リオは眉を寄せる。


「……誰が漏らしたか、特定する必要があるってことですか」

「はい。受け取った本人に聞くのが最短です」


 ルヴェリスの言い方に熱はない。淡々としていた。クララは一瞬だけセリアを見た。セリアはにっこり笑うと、熱っぽく細められた目で、クララを見返した。リオは椀を置いた。


「分かりました。確かにそれは重要ですね」

「ええ」


 ルヴェリスは頷いた。


「追捕そのものは彼らが行います。私たちは、ファルクに接触できる距離まで詰める。その機会を逃さないことが重要です」


 クララが口を挟む。


「……答えると思います?」


 ルヴェリスは視線を上げた。


「素直に話すとは考えにくいです」

「ですよね」

「ですが、話してもらいます」


 クララは眉を寄せる。ルヴェリスはそれ以上は踏み込まず、話を戻した。


「追捕は王国兵と私兵団に任せましょう。私たちが混ざっても、邪魔でしょうから」


 リオが頷く。


「五人じゃ、どのみち限界がありますもんね」


 伊織は背もたれに身体を預け、軽く笑った。


「任せとけ、任せとけ。“無為自然”だ」

「ムイ…? それ、どういう意味ですか?」


 セリアは椀の縁から指を離し、伊織を見た。


「無理な努力より、自然に任せて休む。力を抜く方が良い、ということだ」

「賛成!クララ、あたしとムイムイしよう!」


 はしゃぐセリアをよそ目に、クララは言った。


「では、ファルクが発見されたことを、いち早く知る必要がありますね」


 ルヴェリスは短く頷いた。


「サヤにお願いしましょう。所在が判明したら知らせてもらう。それで十分です」

「では、私が行ってきます」


 クララが即答した。リオが立ち上がる。


「俺も行きます」

「そうですね、護衛がいた方が良いでしょう」


 ルヴェリスは頷いた。クララは椀を置き、セリアを見た。


「あなたは宿にいて」

「うん。クララの言うことなら」


 返事は素直だった。だが、その目の奥の熱が消えたわけではない。クララは見なかったことにして、マントを取った。


 その日から数日、時間が進んだ。街では王国兵と私兵団の聞き込みや捜索が続いていたが、宿の中は至って平静だった。リオは伊織と剣の稽古に余念が無く、ルヴェリスはクララやセリアと術理談義に花を咲かせていた。


 昼過ぎ、階段の下から主人の声がした。


「おい。中央第三詰所からだ」


 クララが降りると、主人は畳まれた紙片を差し出した。封は簡素で、サヤの字が走っている。クララはその場で開き、短く目を走らせた。リオが横から覗く。


「……来たか」


 クララは頷いた。


「追い詰めたって。東の灰の区画に」


 ルヴェリスが静かに言った。


「行きましょう。今なら、接触できます」


 クララは紙片を懐に入れ、マントの留め具に指を掛けた。


 灰の区画へ入ると、空気が変わった。煤けた匂いが強くなり、足元の土が黒くなる。通りは狭く、貧困者たちの視線が突き刺さる。王国兵の群青が先に見え、次いで赤いマントの列が交差点を塞いでいた。槍の穂先が揃って、先へ向けられている。


 共同墓地は、低い石塀で囲われていた。門は半ば開き、内側から押し返すように人が固まっている。灰を被った顔、布の端を噛んだ口、祈りの文句。信徒たちが逃げ場を失って身を寄せ合い、その後ろにファルクが立っていた。背を伸ばし、青白い顔で兵士たちを睨みつけていた。


 王国兵が一歩詰めた。私兵団も盾を前へ出す。


「投降しろ。抵抗は許されない」


 ファルクは視線を巡らせ、囲いの外にいる者たちを見た。彼が救おうとしていた人々が、そこにはいた。


「投降して何になる。彼らが救われるとでも?」


 声は静かだった。


「救済は数に置き換えられ、行いは評価に変わり、教えは制度の内側に収められる。流通が続くほど、意味は摩耗していく。削られているのは、救われる理由そのものだ」


 王国兵が槍を構え直す。私兵団の盾が鳴る。


「黙れ。拘束しろ」


 ファルクは一歩も退かず、むしろ門の内側へ身体を向けた。信徒たちが縋るように彼の法衣に触れ、後に続く。


「私がここで終われば、また同じ事の繰り返しだ。なら、終わらせるべきなのは、この腐り果てた世の中だ」


 その言い方が、呪詛に近かった。

 伊織が小さく舌を鳴らす。


「面倒なことになっているな」


 ファルクが屈み、共同墓地の内側へ手を伸ばした。石塀の向こう、地面には大きな穴が口を開けている。布でくるまれた遺体が幾つも放り込まれ、白い石灰が乱雑に撒かれていた。


 次の瞬間、空気の匂いが変わる。煤と湿りの中に、喉を刺すような石灰の匂いが混じった。


「やめろ!」


 槍が突き出される。私兵団の盾が鳴る。だが、ファルクは見もしない。穴の縁に指先を置き、低く言葉を紡いだ。


「ヴァル・ネシュラ カイ=ドゥム

 リァス・モル セヴァル・ティム」


 次の瞬間、空気の匂いが変わる。煤けた匂いの下から、石灰の粉っぽさが兵士たちの鼻に残った。穴の底で、布が一つ、ゆっくりと膨らむ。さらさらと石灰が崩れ、布の下から硬いものが擦れる音がした。


 王国兵が踏み込もうとする。だが、先に黒い筋が地面の上を走り、穴の縁から底へ落ちていく。布がもう一つ動いた。次いで三つ、四つ。


 白にまみれた指が現れ、穴の縁を掴む。体が引き上げられ、顔が覗いた。布の結び目がほどけ、胸のあたりが露出する。石灰を払うでもなく、ただ動く。


 屍人しびとが、穴から這い出してきた。


 石灰が崩れ、白い粉がふわりと浮く。咳き込む暇もなく、指が次々と縁を掴み始めた。掴む手が重なり、押し合って、穴の縁が埋め尽くされる。這い出た屍人が立ち上がる前に、次が出る。起き上がる動きが遅い個体は、後ろから押されて転がり、また起き上がる。


 王国兵が盾を打ち鳴らした。


「陣形を保て! 外へ出させるな!」


 しかし、穴の内側から迫るものの数が、兵たちより圧倒的に多い。屍人は走らない。ただ、止まらない。足を引きずり、布を引きずり、石灰を撒き散らしながら、門へ向かってくる。


 門の内側、信徒が押し合って悲鳴を上げた。逃げ場はない。背中が石塀に当たり、身動きが取れなくなる。ファルクは振り返らず、穴から這い出す“数”だけを増やした。


 私兵団が一斉に槍を突き出す。先頭の屍人が貫かれ、倒れる。だが倒れたところへ次が乗り上げる。槍が抜けない。盾が押し返される。倒れた屍人は踏まれ、引きずられ、形を崩しても動きを止めない。


 王国兵が斬り、私兵団が叩く。切り落とされた腕が地面を這い、膝を断たれた胴が前へ進む。数が減ったように見えるのは一瞬だった。穴の縁に、また手が掛かる。布が動く。白い粉が舞う。出る。出る。途切れない。


 兵士たちの前列が、半歩、押し戻された。

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