第三話:銀の輪を斬れ
ロークが石床へ踏み出した。信徒の列がわずかに割れ、通れる幅ができる。群青のマントの兵が槍を立て直し、赤いマントの兵が盾の位置を整えた。
ロークはその間をまっすぐ進み、礼拝堂の中央寄りで足を止める。法衣の裾が石床を擦り、袖口が揺れた。顔は上げたまま、礼拝堂の奥へ通るような、大きな声で宣言した。
「私、“銀輪の盾”ロークが、この騒ぎの責任者です」
信徒の間で息が洩れた。膝をついたまま額を床に押しつける者が増え、手を組む指が絡まる。床に縛られたごろつきの一人が、腫れた唇を動かした。喉が鳴り、声が掠れる。
「あぁ……、あんたか、助けてくれ……」
「あんたのおかげで、散々だ」
赤いマントの兵が縄を引き、男の頭が石床へ押し付けられる。呻きが短く潰れた。
ロークは胸を張った。口調は朗々として途切れない。銀の輪を害する外法の魔導師に正義の鉄槌を喰らわせるため、すべてを画策したのだと告げる。ファルク様には無断で行った。ファルク様は関係ない。罪は自分が引き受ける。殉教者として死罪すら受け入れる、と。祈りの言葉を唱えるように、同じ調子で続けた。
ロークの声が高まったところで、ドラクスが一歩進み出た。杖先が石床に触れ、乾いた音がした。
「何の罪もない魔導師を非情にも辱めた上、今なおまた、理を歪める側に立つ“魔術師”呼ばわりするとは」
信徒の列がざわめく。奥から声が上がった。
「違う、奇跡だ……! ファルク様の奇跡だ!」
ロークは口角を上げ、顎をわずかに跳ね上げた。鼻で短く息を鳴らし、返事の代わりに薄く笑う。ドラクスは視線を外さない。
「しかし、その“魔術”を行使した者は、貴様の敬愛して止まない指導者・ファルクのようだが?」
「ほう。どこにそんな証拠があるというのだ?」
ロークは即座に言い放った。声の調子は崩さないが、目が回廊の方へ走り、すぐ戻る。ドラクスはその視線の先へ腕を伸ばした。回廊の小部屋、その扉口にクララがいる。
「証拠を保全した」
指先が止まる。
「そこの霊唱術師によって、な」
ロークの顔色が変わった。赤みが差し、引き、また差す。口が開きかけて閉じる。視線がクララへ定まらず、信徒へ、魔導兵へと揺れる。彼は唇の端を上げたまま、首をわずかに傾けた。
「霊唱術師が? ……精霊の力を借りるだけの術理が、証拠になるとでも?」
笑いを含ませ、信徒の方へ同意を求めるように、視線を投げる。
「そんなものは祈りの延長だ。 魔法と同列に並べる気か」
ドラクスは返さず、群青の兵へ短く顎を振った。二人が前へ出る。盾を半歩ずらし、槍の穂先を上げないまま通路を作る。
「連れて来い」
ロークの腕が両側から取られた。布越しに掴む手は強くないが、逃げ道がない。信徒の列から「ローク様」と声が上がりかけ、すぐ消える。
「乱暴はよせ」
ロークの声は張ったままだが、足が追いつかない。群青のマントの王国兵に腕を取られ、回廊へ引かれる。小部屋の扉口は開いていた。クララが入口脇に立ち、リオと伊織が左右を塞いでいる。二人の視線はロークを捉えたまま、動かない。ドラクスが顎先で床を示す。
「見ろ」
板床の上に、幾重にも重なる線が浮いている。円の縁に沿って、整った字面が並ぶ段がある。ロークは一歩踏み込みかけ、クララの声で止まった。
「入らないで。踏むと消えるかも知れないから」
彼の視線が字面で止まる。唇が開き、閉じる。膝が崩れかけ、法衣の裾が床に触れそうになったところを、王国兵が腕を取って引き揚げた。
彼が口を動かす。祈りの調子とは違う。短い語が続いた。
「ザル・ネグロス……イヴァ・ソルム……カダル・ルゥ」
セリアの足元、石床に赤黒い線が走った。輪が開き、歪な記号が浮き出す。セリアが跳ねるように後ろへ退く。
「ええっ!? ヤダヤダ!」
松明の光が一瞬だけ遮られた。黒い影が、翼の形を伴ってせり上がり、セリアを抱き込もうとする。リオが半歩踏み出し、伊織の手が上がる。
影がさらに伸び、セリアの背へ回り込む。セリアは両腕で肩を抱えるようにし、身を捩って下がった。
「来ないで! やだってば!」
声が途切れ、次の瞬間、影が背後から覆いかぶさった。布を被せられたように音がくぐもる。クララが一歩出る。
「セリア!」
セリアの髪が黒く沈み、目が赤く光った。背に黒い翼が形を取り、手の甲に赤い紋が浮く。リオの息が止まり、伊織の上げた手が途中で固まる。クララはルヴェリスに振り返り、声を張った。
「先生、具現型霊唱術でセリアから堕界体を引き剥がします!」
ルヴェリスがすぐ返す。
「無理です! 精霊フィルヴァスの助力が無いと……私ひとりでは召喚できません!」
ドラクスが杖を鳴らした。
「その魔術師の首を刎ねよ! 術者を殺せば、止められる!」
群青の兵が動きかけた。だが小部屋の前は狭い。リオと伊織が左右を塞ぎ、クララとルヴェリスが前にいる。踏み込む足が一拍遅れた。その遅れを嘲るように、ロークが笑った。声が高くなり、息が弾む。
「無駄だ! もはや堕界体の召喚は成った!」
彼は翼の影を背負ったセリアへ命じる。
「セリア・ファイン! ここにいる兵士どもを皆殺しにしろ!」
命令が下されても、セリアは動かなかった。ロークは少し訝しんだが、続けて信徒の方へ顔を向け、声だけをさらに高くした。
「皆殺しにした後だ。王国の“秩序”とやらの鎖を断ち切る」
法衣の袖が揺れ、指が礼拝堂の奥を指した。
「その上で、我らの理想郷を建てる。銀の輪が救うべき者だけが生き、銀の輪を害する者は入れぬ場所だ。街の仕組みも、法も、税も、全部だ。今の形のままでは、救済など絵空事でしかない。ならば壊して、組み直す」
信徒の列でざわめきが広がり、膝が石床に落ちる音が続いた。祈る手が増える。震えた声が混じる。
「ローク様……」
ロークは頷くでもなく、ただ言葉を重ねた。
「この術は、ファルク様から授かった。表で語られぬものだ。魔法や霊唱術などでは決して届かぬ高みへ――。禁忌? 異端? 構わぬ。救済のためなら、私は汚名も死罪も引き受ける」
笑いが混じった。息継ぎが浅い。
「見ていろ。奇跡が“秩序”を食い破るところを。銀の輪は、もはや守るだけでは足りぬ。奪い返すのだ」
ロークは再びセリアへ声を叩きつけた。
「セリア! 今度こそ動け。兵士どもを――」
セリアの首が少しだけ動く。目の赤が、兵ではなく、クララの位置へ向いた。クララは何も言えず、変わり果てた親友の姿を見つめ続けるだけだった。リオと伊織も、剣の柄に手を掛けたまま、固唾を呑んでその様子を見守っていた。セリアは動かないまま、口を開いた。
「クララ、温泉に行こう!」
ロークの口が開いたまま止まる。声が出ない。
クララが叫んだ。
「ちょ……何を言っているの、セリア!?」
セリアは瞬きもせず、クララだけを見ていた。
「またクララの裸が見たい」
慌てふためくクララの後から、ルヴェリスが一歩、前へ出た。
「……前と同じには見えません」
ルヴェリスはドラクスへ向き直った。
「ご存じないと思いますが、彼女は以前、一度だけ堕界体に憑依されました。そのときは……孤独や恐怖や依存が重なっていて、波長が合ってしまったのだと思います」
彼女はセリアへ視線を戻す。
「さらに悪かったのは、堕界体の囁きを“自分の思いの一部”と誤認してしまったことです。切り分けられず、受け入れてしまい、制御を失いました」
ルヴェリスは続けた。
「でも今は違います。セリアは自分の欲望を自分のものとして認めています。相手も、はっきりしています」
ルヴェリスの視線がクララを一瞬だけ掠めた。
「堕界体の意思は別物として認識できている。だから、前回のように飲まれにくいのだと思います」
ドラクスが眉を動かす。
「……堕界体を抑えこんだというのか。こんなことは先例がない」
「堕界体は、宿主の欲望や恐怖に呼応します。呼ばれるものも、似た性質になりやすい。ですから……制御できる余地が残った可能性があります」
“叡智のドラクス”はため息をついた。
「魅姫が、魅姫の微笑みに堕つる、か」
ロークが震える声で叫ぶ。
「何だ……何を言っている……?」
ロークの声が途切れた。ドラクスは一歩寄り、目だけでロークを見据えた。
「要するに、お前の目論見は外れた、ということだ」
言い終えると、群青のマントの王国兵へ顎を振る。
「連れて行け。あの連中もだ」
王国兵が左右から入り、ロークの腕を取った。礼拝堂の石床で、縄の擦れる音が続く。腫れた顔の男たちも引き起こされ、同じ列に並ばされた。伊織が半歩だけ前へ出る。
「まあ、何だ……理想郷が建設できなくて残念だったな」
ロークは忌々しげに伊織を睨み、その横のドラクスへ視線を移す。唇が歪むが、言葉が続かない。王国兵に促され、暴行犯の列とともに、外へ向かう扉へと吸い込まれていく。信徒の列から手が伸びかけ、途中で止まった。動揺だけが広がり、誰も前に出ない。床に膝をついたまま、祈りの言葉を繰り返す者ばかりだった。
ドラクスが振り返り、声を張った。
「さあ、首魁を捕らえるぞ!」
赤いマントと群青のマントが一斉に動いた。盾が鳴り、槍の穂先が揃い、礼拝堂の外へ向かう足音が重なる。サヤも先輩の兵に肩を叩かれ、クララたちへ手を挙げる。軽く頭を下げ、その流れに合流した。
小部屋前には、翼を背負ったままのセリアが残った。彼女はクララの首に腕を回し、頬に何度も口づけを落とす。クララは腕を上げかけ、結局、受け止める方へ回した。リオがその様子から目を離せず、ルヴェリスへ低く問う。
「これ……元に戻せるんですか?」
「さあ……。なにぶん、前例がありませんから」
伊織が小さく首を振る。
「このままじゃ、外を連れて歩けないよなぁ」
礼拝堂に残ったのは、翼を背負ったままのセリアと、抱きとめられたクララ、それを囲むリオたちと、泣きそうな信徒の列だった。
「……セリアは堕界体に支配されていませんから、自我は変わっていないはずです。ご本人の意思で、どうにかできるのではありませんか」
ルヴェリスの指摘に、セリアがクララに頬を寄せたまま目だけ動かす。
「ばれましたぁ?」
「何どさくさ紛れにやってんのよ!」
クララがセリアの胸元を押し返し、引き剥がす。セリアは不服そうに唇を尖らせた。
「……普段と、何か変わったことはありますか」
ルヴェリスが問うと、セリアは一度だけ天井を見上げ、しばらく黙ってから、けろりと言った。
「うーん……もっとクララとイチャイチャしたくなりましたかねぇ」
一同、揃って肩が落ちる。リオが呟いた。
「何だ、これ……」
セリアは気にせず自分の手の甲を見て、赤い紋を指でなぞる。
「でもね、この姿だと、すっごくマナを感じるの。何でも出来ちゃいそうな気分」
唐突にリオへ向き直る。
「ね、鍛冶屋のヴォルカンに言われたこと覚えてる?」
「え……?」
「マナを通せって言われていたでしょ? 剣、抜いて」
リオが言われたとおり剣を抜き、右肩に引いて構える。セリアが礼拝堂の高い場所を指差した。祭壇の上、壁の高い位置に銀の輪の聖標が掲げられている。
「あれ、斬ってみて」
「届くわけ……」
言い終える前に、セリアが背後へ回り、リオの両肩に手を添えた。
「溜まってるんでしょ?ドバッと出しちゃいなよ!」
「言い方が何か下品!」
反論しながら、リオは剣を振る。振り抜いた瞬間、肩から腕へ、確かに何かが押し流れた。剣身から淡い光が走り、空を裂くように伸びる。遠くの銀の輪の聖標が、音もなく二つに割れた。
「ああ……」
信徒の列から、泣き声になりきらない声が漏れる。膝が石床に落ち、手が顔を覆った。リオは剣を下ろせないまま、自分の腕を見た。まだ、通っている感覚が残っている。
「……これが、マナを通すってことか」
伊織がその様子を見て、肩をすくめた。
「俺が何十年もかかったものをアッサリやられると、こりゃ形無しだな」
ルヴェリスは、まだ自分の腕を見つめているリオへ視線を向けた。
「今の感覚を想像しながら、今後も剣を振るえば良いと思います」
それから伊織へ向き直り、意地悪っぽく言った。
「“先生”の引退も間近ですね、伊織様」
伊織は頭を掻き、苦い顔で笑った。
「じゃあ、ルヴェリスも引退して、二人でどこかに隠居するか」
背後から、翼を背負ったセリアが身を乗り出す。
「先生もドバッと――」
言い切る前に、クララが慌ててセリアの口を手で塞いだ。頬が赤い。
「セリア!いい加減にしなさいよ!」
クララの手の下で、セリアがむぐむぐと何か言おうとする。指の隙間から息が漏れ、翼が不満げに揺れた。
「んん、んー……」
「だめ」
クララが短く言い、手を外さない。伊織が肩をすくめ、ルヴェリスは目を細めたまま何も言わない。リオは剣を鞘へ戻しながら、異形の翼と、塞がれた口元を見比べた。
「……こんなんじゃ、本当に外を連れて歩けないよなぁ」




