第二話: 消えた指導者
本部施設の外周、群衆の外側。石壁に沿って人が固まり、松明の火が揺れていた。礼拝堂の扉は人の隙間から断片的にしか見えない。赤と群青がぶつかるたび、金属の音が夜気を裂き、すぐ別の叫びに呑まれる。
ファルクは壁際で足を止め、扉の方へ視線を置いたまま動かなかった。幹部信徒が一人、群衆を縫って寄ってくる。息が切れている。口が動きかけたが、言葉は出てこなかった。ことの成り行きを、固唾を呑んで見守っていた周囲の信徒がファルクに気づき、ざわめきが細く広がる。押し合っていた体がずれ、通れる幅ができた。
ファルクはその幅へ足を入れ、幹部信徒を近くに招いた。松明の列と人の密度を見て、進む向きを決める。
「市場近くの、“銀輪の礼拝堂”へ」
幹部信徒が頷き、近くの信徒へ伝言した。「どうされます」と問う声が上がるが、ファルクは歩みを止めない。幹部信徒が手を上げ、静かに促す。集まった十数名が、間を詰めてついてくる。
「名を呼ばないように。目立つ動きをしてはいかん」
群衆の縁に沿って進み、施設から離れる。灯りの薄い側へ回ると、土は柔らかく、靴底が沈んで跡が濃く刻まれた。先頭の跡に次の足が重なり、線が一本に伸びる。やがて市場の灯りが見えた。人の流れが太くなる。ファルクは振り返らず、そのまま灯りの下へ入っていく。土の足跡は石畳の手前で細く収束し、市場へ向かう人の流れと重なった。
屋台の火と家々の窓明かりが重なり、通りはざらついて見える。人の声が増え、足音が石に変わる。土の跡は途中で薄れたが、人の流れは途切れない。ファルクはその流れをなぞるように進み、信徒たちが後に続く。赤いマントも群青のマントもここには見えない。
銀輪の礼拝堂は市場の明かりから一段外れた場所にあった。扉は小さい。木が湿って黒く、取手は使い込まれている。幹部信徒が先へ出て、二度だけ叩いた。すぐ内側で足が動く音がして、扉が細く開く。隙間から顔が覗き、ファルクを見て身を引いた。
ファルクが入ると、信徒たちは恭しくお辞儀をした。礼拝堂の空気は、外よりも冷えている。灯りは少なく、奥に小さな火が揺れる。十数名が続き、扉が静かに閉まった。外の市場の声が、遠くなった。
幹部信徒が入口脇に立ち、残りを奥へ寄せる。誰かが息を呑み、誰かが口を開きかけてやめる。ファルクは中央へは進み、全員を見回した。
「なぜ、こんなことになっている」
短く言い、幹部信徒へ目を向ける。彼は恐る恐る答えた。
「我々を嗅ぎ回っていた、私兵団の女魔導師の件だと思います」
「……なるほど。何かしたのですか?」
「え……?マルテ様が銀の輪を害する外法魔術師と仰せでしたので」
「それで?」
「救済を求めない者は不要とも仰せになっておりましたので……」
「そうですね。それで、“何をした”のですか?」
「……街のごろつきを雇い……少々痛めつけさせてもらいました」
ファルクは嘆息し、鋭い目で幹部信徒を睨みつけながら、言った。
「ローク。私は“痛めつけろ”などと言いましたか?」
「いや……、しかし!」
狼狽えるロークを他所に、ファルクは続けた。
「良いのです、ロークよ。お前は教団のためを思ってそうしたのです」
「は、はい!マルテ様!私は……」
何かを言いかけたロークを手で制止し、ファルクは周りの信徒全員に語りかける。
「皆、跪きなさい。此度のことは、銀輪の名を汚すためのものではなかった。だが、外へは責を示さねばならぬ。ローク。お前は教団のために動き、そして教団のために前へ出る。今この場で、お前に“銀輪の盾”の称号を与える。私に次ぐ立場となった。お前の名は、永遠に称えられよう。ここにいる者は黙して祈れ」
信徒たちはロークに向かい跪くと、一斉に聖人を崇めるように、手を結び祈りを捧げた。恐怖と歓喜の心が入り混じったロークは、目に涙を浮かべながらファルクに向かって伏し、「ありがとうございます、ありがとうございます……」と譫言のように唱えるだけだった。
* * *
石床に血が散り、踏み跡が重なって黒く擦れていた。赤いマントが男たちを囲み、蹴りが入るたび鎧の金具が鳴り、呻き声が上がる。群青のマントが割って入ろうとして押し戻され、槍の柄が横に伸びて通せんぼの形になる。回廊へ続く扉の辺りで信徒の声が割れ、泣き声が混じった。王国兵の一人が倒れた男の肩を掴み、引き離そうとするが、私兵の腕がそれを払い、拳がもう一度落ちた。
クララは一歩退き、回廊へ向けて身を翻した。マントの裏へ指を差し入れ、留めていた細長い枝を外す。枝先には小さな水晶が付いている。かつてレネアから渡された、ミルティスの導き。精霊の気配が濃い方角で、水晶が淡く光る。
回廊へ入ると、石床に扉が並んでいた。クララは歩きながら枝を持ち替え、角を曲がるたび水晶を向ける。淡い光が弱まり、また戻る。その中で一箇所だけ、揺れが止まって明るさが増した。
クララは扉の前で足を止めた。水晶の光はそのまま保たれている。背後で足音が重なり、ルヴェリスが回廊へ出てきた。クララは枝先を下げずに言う。
「反応が強い……。ここを見ます」
扉を開けると板床の小部屋だった。寝台と棚。灯りは薄い。クララは中へ入り、床の中央へ枝をかざす。光は壁際の一角へ引かれるように寄った。クララは枝をマントへ戻し、今度は空の掌を板床へ向けた。息を整える。
「聖なる理の声を携えし霊よ──我が願いに応えよ」
板の上に、円が浮いた。黒い線で描かれた細い環。そこから文字のような記号がにじむ。ひとつではない。大きさの違う円が幾重にも重なり、床板の継ぎ目をまたいで広がっている。円の一部は寝台の脚へも食い込み、別の円が壁際へ寄っていた。クララは目を動かし、重なりの順を追った。
ルヴェリスがしゃがみ込み、指先で空をなぞるようにして陣の外縁を辿る。途中で動きが止まった。もう一つの円へ指を移し、同じ箇所を確かめる。顔を上げずに言う。
「……死霊術です。間違いない」
クララは答えず、陣の外周へ目を滑らせた。術式には、術者の名が必ず組み込まれる。読む場所は決まっている。円の縁に沿った記号列の中、ひとつだけ整った字面が並ぶ段。
灯りが揺れ、黒い線が浮いた。クララは息を止め、文字を拾う。ひとつの円だけではない。重なったどの円にも、同じ名が入っている。
「……ファルク」
口にした声は小さく、すぐ板床に吸われた。クララは視線を外さず、別の円でも同じ段を確かめる。やはり同じ名がある。重なりの濃い隅ほど、文字が幾重にも重なって見えた。
ルヴェリスは立ち上がると、扉口で一度だけ立ち止まった。板床の上に浮いた円へ視線を戻し、次に回廊へ向ける。
「王国兵を呼びます。ここには触れないでください」
そう告げると回廊へ出る。足音が石床を叩き、遠ざかっていった。クララは扉を閉めず、入口脇へ退いた。小部屋の中の陣は薄い灯りの下で揺れずに残っている。
リオが回廊へ出てきた。伊織も続く。二人とも扉の前で足を止め、部屋の中を覗き込んだ。
「入らないで。踏むと消えるかも知れないから」
クララの声に、リオは足先を引いた。伊織は一度だけ頷き、扉口の左右へ分かれる。肩を寄せず、通路を塞ぐ位置に立つ。通りかかった信徒が足を止めかけると、伊織が手のひらを軽く上げて止めた。言葉は短い。
「ここには入らないでくれ」
信徒は、突然の闖入者が自分たちの居場所で我が物顔に振る舞っていることに不満の表情を露わにしたが、伊織の凄味に何も言えなかった。
セリアが遅れて回廊へ現れた。礼拝堂の怒号が背に張りついたまま、扉口に近づきかけて止まる。視線が板床へ落ち、浮いた円の重なりを捉えた瞬間、足が止まった。呼吸が一拍ずれ、目を逸らしかけて逸らせない。
「……それが例の痕跡?」
クララは答えず、陣の外縁に刻まれた名の段へ目を戻した。セリアはその視線の先を追い、次にクララの顔を見る。口を開きかけ、閉じた。声が出るまで時間がかかった。
「……見たくなかった」
回廊の向こうで、鎧の金具がぶつかる音が近づいた。次いで、押し合う声。ルヴェリスの声が混じる。
「こちらです。重要な証拠を見つけました」
王国兵が一人、必死な顔のまま連れてこられた。礼拝堂の方へ体を向けたまま、足だけが回廊へ引かれる。ルヴェリスはその腕を掴んで、離さない。王国兵は扉口で足を止め、板床の上の重なった円を見て、動きを止めた。視線が外縁の記号を追いかけ、途中で迷う。眉間に皺が寄り、口が動くが言葉にならない。
「……これは」
ルヴェリスは一歩、扉の外側へ退いた。王国兵の視線が陣から離れないうちに言う。
「術式です。しかも重なっています。あなたでは判別が難しいと思います。王国魔導兵を呼んでください。今すぐ」
王国兵は、回廊の向こうへ振り返った。礼拝堂から怒号がまだ続いている。彼は一度、そちらへ踏み出しかけた。だが扉口へ戻り、板床の陣を見下ろしたまま声を張り上げた。
「伝令!魔導兵だ!ここへ!」
回廊に声が走る。遠くで返事が上がり、足音が近づいてくる。王国兵は扉口へ戻り、リオと伊織の立つ様子を見てから、クララへ視線を移す。
「踏まれたら消えるのか」
「はい。だから、誰も入れないでください」
王国兵は短く頷き、回廊側へ体を向けたまま、部屋の前に立ちはだかった。通りかかった信徒が覗こうとすると、槍の柄を横にして押し留める。礼拝堂側から駆けてきた群青の兵が一人、何事かと口を開きかけたが、彼が頭だけ振って黙らせた。
回廊の奥で、別の足音が揃って近づく。金具の音ではない。杖が石床を打つ乾いた音が混じる。王国兵が姿勢を正し、扉口を空けた。
「どこだ」
ルヴェリスが扉の内側を示した。
「板床に術式が出ています。踏まれると消えるかもしれません」
魔導兵は扉口で止まり、床へ視線を落とした。杖先だけが少し動き、重なった円の外縁を追う。片方が短く言った。
「死霊術。複数回だな」
もう一人が、円の縁に沿う文字列へ目を移す。そこだけ整った字面が並ぶ段を、二つ、三つと見比べる。口が動いた。
「術者名が入っている。……ファルクだ」
魔導兵は嘆息した。礼拝堂の方から、また怒号と悲鳴が上がる。だが彼らの耳には届かない。
「証拠として押さえる。扉口の二人、そのまま。誰も入れるな」
魔導兵は王国兵へ顔を上げ、言葉を続けた。
「この場は封鎖。今すぐ記録係を呼べ。王国法の手続きを開始する」
王国兵は頷き、伝令へ手を振った。
「記録係!こちらだ!走れ!」
リオと伊織は扉口の左右に立ったまま動かない。セリアは壁際へ身を寄せ、板床を見ない角度で視線を落としている。クララは浮いた円から目を外さず、外縁の文字列をもう一度だけ確かめた。
「さて、次だが」
魔導兵がルヴェリスに向かって言った。彼は礼拝堂の方へ一度だけ目を向け、すぐ戻した。
「私兵団を落ち着かせんとな。これが出た以上、追捕は正式なものとなる。彼らの矛先を変えてやらんと、あそこのごろつき共は死んでしまうだろうよ」
礼拝堂の石床では、まだ制裁が続いていた。赤いマントの輪が男たちを囲み、群青のマントが割って入ろうとして押し戻される。呻き声が途切れ、また上がる。
回廊側から靴音が入った。王国兵の列が割れ、男が前へ出る。杖を石床に立て、声を通した。
「静まれ!私は王国魔導兵、ドラクスである!」
赤い輪の動きが止まった。拳が宙で止まり、掴んだ髪が落ちない。槍の柄も引かれ、礼拝堂の音が一段、細くなる。壁際で成り行きを見ていたサヤが目を上げた。リオも伊織も、視線を同じ一点へ寄せる。 赤いマントの中から囁きが漏れる。
「あの方が……ドラクス」
「かの高名な……」
ルヴェリスがクララのそばで小さく言った。
「あの方は高名な魔導師のようですね」
クララは答えず、前を見たまま動かない。セリアも同じ方向へ顔を向けた。赤いマントの一人が、堪えきれないように声を上げた。
「あらゆる娼館のことを知る賢者、ドラクス様!」
続けて別の声が重なる。
「いつもお世話になっております!」
「娼婦たちのことなら何でも知っている、叡智のドラクス様!」
「ドラクス様のおかげで、外れたためしがない!」
セリアの顔が強ばった。クララの口が一度だけ動く。
「……サイテー」
隣にいた王国兵が、咎めるでも笑うでもなく、短く言った。
「いや、本当に彼は魔導師として高名なのだ。若い頃、竜殺しを成し遂げたパーティの一員だった」
セリアが思わず身を乗り出した。
「竜殺し!? ドラゴンを斃したの……?」
言い終える前に、眉が下がる。
「でも、それとこれとは別よね……」
王国兵は肩を揺らして答えた。
「英傑も、魅姫の微笑みに堕つる。そういう言い回しがある」
ドラクスが咳払いを一つした。余計な声が引く。
「死霊術の術式が出た。術者名はファルク。死霊術の行使は反王国罪だ。追捕を開始する」
赤いマントの隊長格が一歩前へ出た。顔に血が飛んでいる。男たちを見下ろし、次にドラクスを見た。
「こいつらは――」
「吐かせる」
魔導兵が言った。視線は床の男から動かない。
「ごろつき共を使ったのは誰だ。教団の中で名が上がる者は誰だ」
隊長格の口が閉じた。次の瞬間、赤いマントの一人が男の髪を掴んで顔を上げさせ、別の者が縄を投げた。殴打は止まり、縄が男たちの体に回る。男の腕が背へ回され、呻きが短く漏れた。
サヤは礼拝堂の縁に立ったまま動かない。視線は男たちへ落ちているが、赤の動きには口を挟まない。魔導兵が礼拝堂の外周へ目を走らせ、声を上げた。
「ファルクはどこだ」
返事はなかった。信徒たちは互いの顔を見て、すぐ目を逸らす。誰も前へ出ない。戻るはずの者が、いない。だが、赤いマントの何人かが、礼拝堂の扉の方へ視線を向けた。
扉口に、人影が立っていた。回廊の灯りを背にしている。群青のマントが槍を少し上げ、赤いマントが間を詰める。影は一歩だけ前へ出て、足を止めた。
ロークだった。
信徒のざわめきが変わる。泣き声がひっこみ、息を呑む音が広がった。誰かが名を呼びかけ、途中で飲み込む。次の瞬間、別の声が上がった。
「おお、ローク様……」
それが合図のように、祈るような手が増えた。扉の方へ半歩寄りかけて止まる者がいる。口の中で言葉だけが動き、声にならない者もいる。
ロークは礼拝堂の中央を見た。赤いマントの輪。床に跪く男たち。群青の槍の線。魔導兵の杖。視線が順に移り、最後に信徒たちへ戻る。唇が動いたが、まだ声は出さない。
石床の上で、誰かが縄を引く音がした。呻き声が短く切れ、礼拝堂の空気が一段だけ固くなる。ロークは動かない。扉の前に立ったまま、目だけが揺れた。




