第一話:内門の騒擾
クロムヘヴン辺境伯私兵団の三人は、仕事帰りに酒場〈煤薫る樽〉へ流れ込んだ。アシュトが先に空いた卓へ腰を落とし、バルドが剣帯を外して椅子の背に掛ける。エルンは手招き一つで給仕を呼び、麦酒を三つと言った。木杯が置かれる音が続き、三人は揃って一気にあおった。喉が鳴り、バルドが短く笑う。アシュトも息を吐いて肩を落とし、エルンは口の端を拭って「生き返る」と満足げに言った。
そのとき、斜め奥の卓から、弾むような大声が飛んだ。
「魔導師って言ったって、大したことはねぇな!」
酔客の男たちがどっと笑った。手を叩き、肘で突き合い、誰かが卓を叩いて酒をこぼす。アシュトは二杯目に手を伸ばしかけて止めた。視線だけを奥へ送る。バルドやエルンも同じ方向を見る。
「ほら、こんなふうにさ。こうやってよ」
男の一人が甲高い声を作り、悲鳴まじりに体を震わせて見せた。肩をすくめ、両腕を突っぱねるように振って、嫌がる素振りを大袈裟に真似る。周りがさらに笑い、別の男が下卑た声で続けた。
「あのチビ、意外といい体してたぜ」
「おお。それに何とも言えねぇ、いい声で鳴いていた」
「ありゃ、悦んでたわ。そういう声だった」
言った男が自分の言葉でまた笑い、隣の男が酒をあおって頷く。
「たまんなかったな。仕事抜きにして、またやっちまうか」
「金も貰えていい思いもして、言うことねぇわな」
アシュトが他の二人に目配せをする。バルドとエルンは小さく頷き返した。
「口を塞いじまえば、魔導師なんてわけねぇ」
男が笑いながら手をひらひらさせる。もう一人がそれを受けて「杖なんざ飾りだ」と言った。卓の上で指が踊り、酒で滑らかになった口が、細部を拾っては面白がる。小柄だった。黒髪のショートだった。瞳の色が赤かった。
アシュトはバルドの膝を軽く叩いた。バルドは頷き返し、エルンは杯を置いた。三人の間で言葉は要らなかった。
これはサヤのことだ――。
アシュトが立ち、バルドとエルンも続いた。三人とも剣を携えたまま、斜め奥の卓へ向かう。男たちの卓の手前で止まると、剣帯の金具が小さく鳴った。酔っぱらった男たちはまだ笑っていた。杯を振り、指を鳴らす。
「面白そうな話だな」
アシュトが言うと、男は眉を上げ、口角をさらに持ち上げた。
「聞こえてたのか。あんたらも興味があるだろ?」
男たちの笑いは崩れない。だが周りの客のほうが先に気づいた。椅子が引かれ、杯が置かれ、給仕が足を止める。視線が交錯し、距離が空いた。酒場の一角だけ、息を飲む音が増えていく。バルドが一歩、男たちの卓の横へ寄る。エルンが反対側に回る。アシュトは正面で動かない。三人の位置が決まったところで、男たちの笑い声だけが浮いた。
「なんだよ。俺が女をヒィヒィ言わせた話が、そんなに聞きてぇのか」
言った男が胸を反らし、隣が下卑た笑いを漏らす。アシュトは男の顔から視線を外さずに言った。
「小柄で、黒髪で、緋の目だ。そう言ってたな」
「だったら?……酒の上での話だろ。真に受けんなよ」
男は肩をすくめ、わざとらしく杯をあおる。隣が肘で突き、笑いを足す。三人を前にしてなお、冗談の形を崩さない。アシュトが一歩寄った。バルドが無言で腰を落とし、エルンは卓の脇の通路を半身で塞ぐ。周囲の客がさらに下がる。椅子を引きずる音が続いた。
「辺境伯の私兵団だ。詳しく話を聞かせてもらおうか」
男の目が一瞬だけ泳いだ。だが口元はまだ笑っている。椅子を少し引き、足の向きを変える。仲間も同じように体をずらす。
「おいおい、物騒だな」
「話してやるから、まずはどけよ」
男が立ち上がり、濁った目で逃げ道を探した。次の瞬間、男たちは卓を回り込み、椅子を蹴って走った。酒が跳ね、皿が落ち、怒鳴り声が上がる。三人が踏み出すより先に、男たちは入口へ突っ込んだ。扉が勢いよく開き、冷えた外気が流れ込む。男たちが店外へ飛び出した。
男たちは酒場を飛び出すと、裏通りへ折れた。石畳を蹴る足音が重なり、息が荒くなる。アシュトたち三人も追う。バルドが前へ出て間合いを詰め、エルンが横へ振れて道を読む。
男の一人が振り返り、喉の奥で笑ったつもりの声を出した。すぐ咳き込み、言い直す。
「やべぇって。冗談のつもりだったんだよ」
三つ目が仲間の腕を引く。
「黙れ。走れ」
曲がり角を越えた先に、光輪の奇跡の本部施設の門が見えた。男たちは迷わず門前へ駆け込み、木の扉を拳で叩く。乾いた音が続く。
「開けろ! 開けてくれ!」
アシュトは速度を落とさない。バルドも距離を詰め、エルンが背後を切る。
叩きながら、男の一人が声を張り上げた。
「ガレオス様! 約束だろ! 開けてくれ!」
内側で閂が擦れる音がした。扉が少し開き、隙間が空く。そこへ手が伸び、男の襟を掴んで引き込む。男たちは押し合い、肩からねじ込むように入った。最後の一人が躓き、門前で膝をつく。次の瞬間、内側の手が腕を掴んで引き上げた。
扉が閉まった。閂が落ちる音がした。
アシュトたちが門前で止まる。バルドが扉に手を伸ばしかけ、アシュトがそれを制した。エルンが周囲を見回し、頷く。
アシュトがエルンに目配せをした。エルンは踵を返して走り出す。バルドが門前に残り、アシュトは門の脇へ半歩寄った。
施設の扉は閉じたままだ。内側の気配は動かない。通りの向こうで足音が増え、遅れて人が集まり始めた。酒場から出てきた者もいる。騒ぎがあると分かれば人は集まる。
エルンも戻り、数人を連れてきた。私兵団の兵は二人、三人と増え、盾を抱えた者が門前へ出る。剣帯の金具が鳴り、列が整う。門を正面にして半円が形になり、左右へ兵が回る。輪が厚くなっていく。通りの端には野次馬が溜まり、距離だけを取りながら視線を寄せた。
「入ったのは三人だ」
「扉の内側が引き込んだ」
短い報告が回る。酒場で聞いた言葉も混じる。
「ダークエルフの小柄な子だと言っていたらしい」
「黒髪で、目が赤色だったとも」
声が繋がり、最後に名が出た。
「サヤのことだな」
門前の空気が変わった。私兵団の兵が前へ出る。盾が前列に並び、槍が揃う。扉を強く三度叩き、大きな声で呼びかけた。
「開けろ。逃げ込んだ三人を出せ」
扉は動かない。私兵団の列が詰まり、門へ近づく。誰かが斧を持ち出そうとした。
そのとき、通りの向こうから鎧の音が揃って響いた。王国兵の小隊が割って入る。数は多くない。だが動きが速い。先頭の兵が手を上げた。
「止まれ」
後ろの兵が即座に左右へ広がり、間に線を作る。盾が並び、槍が立つ。隊長格の男が一歩前に出て、背後の兵に短く命じた。
「一人、走れ。屯所へ。宗教施設前で私兵と衝突の恐れ。急げ」
「はっ」
伝令が踵を返して走る。残りは線を崩さない。隊長が私兵団を正面から見た。
「辺境伯の私兵だろうと、宗教施設への無許可突入は許されん。ここは都市の治安の範囲だ」
「我が兵士を害した者が逃げ込んだ。引き渡しを求める」
「引き渡しは王国兵が扱う。私兵が踏み込めば、暴動になる」
言葉がぶつかる。私兵団は押し込みたい。王国兵は線を引きたい。盾と盾が触れ、槍の柄が擦れる。門前の距離が詰まり、左右の動きも止まる。施設を中心に、私兵団の輪と王国兵の線が正面で固定化した。
夜の〈緑角亭〉は静かだった。荷を解いた商人が酒を舐め、火の近くで指を温めている。話題は値と道だ。そこへ扉が荒く開いた。外套の男が息を切らして入り、壁に手をついて呼吸を整えた。
「内門の手前だ。光輪の奇跡の本部施設の前で、私兵団と王国兵が睨み合ってる。門が閉鎖されるぞ」
食堂の卓がざわめいた。杯が止まり、主人が舌打ちする。
「閉鎖されたら、明朝の荷が入らん」
「今夜のうちに入る予定だった奴らはどうする」
男は肩で息をしながら首を振った。
「盾が並んでる。通れそうにない」
リオは立ち上がった。伊織と目が合い、伊織が先に頷く。ルヴェリスも迷いなく頷いた。クララは小袋を押さえ、セリアがその横に立つ。
「行きましょう」
ルヴェリスが言う。リオは頷き、伊織へ向けて言った。
「先生、行きます。墓地は何もありませんでした。残りは、あの施設です」
伊織は腰紐の位置を確かめ、鞘の角度を直した。
「混乱に乗じて、潜り込めるかもしれん」
全員が短く応じ、宿を出た。外は冷え、街道は暗い。城壁の上の灯が並び、門の方角だけが騒がしい。馬のいななきと、怒鳴り声が途切れ途切れに届く。夜の商いが終わったはずの時間に、人の往来が増えている。
城門はまだ閉じていなかった。だが門番の数が増え、通る者の足を止めている。内側から流れてくる群れがあり、誰もが同じ方角を見ていた。リオたちは門を抜け、石畳の道を進む。
角を二つ曲がるころには、鎧の擦れる音がはっきり混じってきた。さらに進むと、通りの先に盾が並び、槍が立っているのが見えた。門前に人だかりができ、その奥で二つの列が正面で止まっている。リオたちは、現場が見える距離で歩みを落とした。
門前は二つの色に割れていた。赤いマントの私兵団が厚く固まり、正面に盾を並べている。その向かいに、王家の青をまとった王国兵が線を引くように立ち、槍の柄と盾で間を塞いでいた。どちらも剣を帯び、鎧の金具が灯りを拾う。両者の間に距離はほとんどなかった。だが、一歩でも踏み込めば衝突になる線が、そこに引かれていた。
怒鳴り声が上がった。赤いマントの男が身を乗り出し、前へ出た王国兵を指さす。
「王国兵は狼藉者を庇うのか!」
返すように、青いマントの兵が一歩踏み出し、声を張った。
「辺境伯の私兵が治安を乱し、住民の安全を脅かすのか!」
盾が押し出された。王国兵の盾が受け止め、槍の柄が横に渡される。金具が擦れ、石畳の上で靴底が鳴った。赤いマントの後列が詰めるたび、前列の盾が前へ押される。王家の青は数が少ない。隊長格が手を上げ、線を保てと叫ぶ。だが左右から人が流れ込み、線は崩れ始めた。
「開けろ!」
私兵側から門へ声が飛ぶ。返事はない。門前の押し合いがさらに強くなった。王国兵の盾の縁に、私兵の盾が噛み合う。槍の先が上がり、誰かが慌てて押さえた。
赤いマントの一人が、王国兵の列の端へ身体をねじ込み、線を越えた。王国兵が押し戻そうとする。そこへ二人目が続き、三人目が体をねじ込んだ。青の列が揺れる。盾がずれ、槍の柄が外れた。
「止まれ!止まらんか!」
王国兵が叫ぶ。私兵側は止まらない。背後から押されている。前列が踏ん張る余地を失い、門前の通路へ人が流れ込んだ。赤いマントが門へ密集し、扉に手がかかる。
「閂だ、ここだ」
誰かが扉の縁を探り当て、木板の隙間に剣を差し込む。別の者が肩を入れ、体当たりをした。扉が軋み、内側で何かが鳴る。もう一度、体当たり。木が悲鳴を上げた。
青いマントが押し返そうとするが、赤い数が勝る。門前は押し波で埋まり、王国兵は踏ん張りながら後ろへ押される。野次馬が叫び、後ろへ逃げた。
リオは伊織の位置を確かめた。伊織が頷く。ルヴェリスがクララの肩へ手を伸ばし、混雑の中で離れない位置へ引き寄せる。セリアがその反対側につく。
私兵のひとりが剣で閂を持ち上げて外し、ついに扉が内側へ開いた。灯の揺れが見え、湿った空気が流れ出す。赤いマントが一気に押し込み、門の内側へ雪崩れ込んだ。
リオたちはその流れに合わせた。
回廊に足音が散った。私兵が小部屋の扉を片端から開け、覗き込み、次へ移る。礼拝堂の広さが声を返し、怒鳴り声が重なる。
リオは回廊の内側をなぞるように進み、柱の陰と扉の死角を順に見た。
「いたぞ!」
叫びと同時に、短い扉が叩き開けられた。小部屋の奥で布の山が崩れ、男が転げ出る。顔を上げた瞬間、酒場で見せていた笑いは形を失い、口元だけが引きつっていた。私兵が襟首を掴み、床を引きずる。男は足を突っ張り、爪で床を掻いた。
「違う、俺じゃねぇ! 待て、話せば分かる!」
もう一人も引きずり出された。腕を捻られ、声が漏れる。残る一人は奥へ逃げようとして壁に詰まり、盾で押さえ込まれた。赤いマントが三人を回廊へ並べ、腕を背へ回させる。逃げようとした膝が折れ、靴先が床を擦る。
三人は、回廊を越えて礼拝堂の石床に放り出された。赤いマントが円を作り、男たちの腕を背へ回したまま膝をつかせる。靴先が石を擦り、呻き声が漏れた。
礼拝堂の奥から信徒が集まってきた。
「ここを何だと思ってる」
「出て行け」
「輪を汚すな」
赤いマントの一人が一歩前に出て、信徒を睨んだ。
「貴殿らが匿ったこれらの男どもは、我々の大切な同士を害した大罪人である!かばい立てするのであれば、私兵団は一切容赦はしない!」
怒声に気圧され、後ろへ下がる者もいたが、誰も散らない。礼拝堂の空気が張りつめる。
そのとき、回廊の入口が騒がしくなった。赤いマントが道を開け、ひときわ小柄な影が礼拝堂へ入ってくる。杖を握った小柄な魔導師――サヤだった。
私兵の一人が男たちの髪を掴んで顔を上げさせ、サヤの方へ向けた。
「こいつらに間違いないか!」
サヤは答えない。男たちを見ているだけだ。視線が外れず、唇がわずかに開く。握った杖が震え、杖先が男の額へ向いた。男が何か言おうとして口を開くより先に、サヤが詠唱文を始めた。
「心を砕き、意思を奪――」
「サヤ!おやめなさい!」
鋭い声が礼拝堂を切った。ルヴェリスが一歩前に出て、杖先と男たちの間に立つ。
「復讐は一瞬の快楽を与えるでしょう。ですが、それはあなたの魂に永遠の傷を残す。あなたが犯人を害せば、明日からあなた自身が『犯罪者』として生きることになります。それで本当に救われるのですか?あなたは王宮魔導師になる、という夢があるのでしょう?」
サヤの杖先が揺れ、少しずつ下がった。呼吸が乱れ、握った指が強くなる。やがてサヤは杖を降ろした。床を見たまま、独り言のように言う。
「……そうですね。そうでした」
沈黙が落ちたのは一瞬だった。次の瞬間、赤いマントの一人が男の腹へ蹴りを入れた。男が折れ、声にならない音を漏らす。続けて拳が飛び、顔が横へ跳ねた。別の男も引き倒され、靴で踏まれ、蹴られる。弁明の言葉は途切れ途切れに潰れた。
「やめろ!」
青いマントが礼拝堂へ雪崩れ込み、割って入ろうとする。だが赤い数が退かない。盾が壁になり、槍の柄が押し返す。
リオはその光景を見たまま、呟いた。
「……いや、犯罪者……」
その声は誰にも拾われず、殴打の音に飲まれた。




