「水槽」「耳鳴り」「切符」
何もかもが嫌になった夜。嫌でも変わらず来る電車に私は乗り込みました。日々に疲れていて、それでも来る明日のために電車に揺られる、いつも通りの帰り道。いつも通りで無くなったのは、ある駅でふと顔を上げた時でした。
ホーム越しに揺らめく光が見えました。水槽です。それも、車両サイズの。
目を疑う光景でしょう。1両目は蒸気機関車のような車両で、その後ろは全て大きな水槽がいくつも連結されていました。思わず、元々乗っていた電車を降りて近寄ります。穏やかに揺らめく水と、そこで泳ぐ魚たちに無性に惹かれるような心地で、私は吸い込まれるように1両目の車両へ足を踏み入れました。
私が乗ると列車はゆっくりと動き出しました。落ち着く色合いの車内を見渡し、私は連結部に一番近いところへ座ります。乗客は私ひとりのようでした。
扉の窓越しに眺める水槽には、魚が沢山泳いでいます。魚の名前は分かりませんが、月光や街灯が反射して煌めく姿を飽きもせず眺め続けました。ガタゴトと揺れる列車の音と魚たちの姿は、列車を見るまでの塞いだ気持ちを忘れさせてくれていました。
しかし、次第に列車の音に高い音が混ざり始めます。耳鳴りでした。キーン……と耳に響く音は、警告のようにさえ感じます。とはいえ、列車はこれまで一度も停まっていません。そんな警告より私は水槽が眺めたくて、耳鳴りを無視してまた扉を覗き込みました。
どれほど経ったでしょう。外の風景はすっかり見たことのない場所になっていました。
コツ、と靴音が鳴り、顔を上げると車掌が立っていました。不思議と顔の見えない長身の彼は、ポケットから切符を取り出します。切符の確認に回ってきたのだとわかりましたが、当然私は持っていません。もうずいぶんICカードでしか電車に乗っていなかったので、まったく忘れていたのです。
ごめんなさい、持っていません。幾らでしょうか? そう話すと、車掌はそっと手を上げ私がずっと覗き込んでいた扉を指し示しました。どうやら2両目へ行くよう促しているようです。私が入ってよいのですか、と聞くと、車掌は黙って頷き扉を開けました。
キーーン……。不思議と溢れてこない水を眺めているとき、今までで一番耳鳴りが響きました。それでも私は、どうしてもその先へ入りたくて仕方ありませんでした。水へ、手を伸ばします。感じたのは暖かさでした。耳鳴りはもうしませんでした。
気付くと、体は魚になっていました。もしかしてと周りを見渡し、この魚たちも私のように列車へ乗った人だったのだろうかと思います。けれども魚たちはそれぞれ思い思いに泳ぎ、新入りの私には目もくれません。その距離感が心地よく感じて、私も水槽の中を泳ぐことにしました。
ほどなくして列車が停まりました。アナウンスは終点への到着を知らせます。そこは広い、何もない海でした。ガタン、と水面に向かって水槽が傾けられます。魚たちは次々海へ飛び込んでいきました。
不思議と悲壮感はありません。晴れ晴れとした気持ちでした。これで何もかもから解放されて自由なのでしょう。私も他の魚に続いて海へ飛び込みました。列車を振り返ると、あの車掌が私たちへ手を振っています。門出を祝うような、そんな表情をしている気がしました。
列車は走り出します。その後ろ姿を見送ってから、私は海へ泳ぎ出しました。




