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愛しい幼馴染を選んだ公爵令息は、彼女と結婚するために子爵となる決断をなさいました  作者: 章槻雅希


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第三話 婚約者ではなくなった私たち

 クラリッサとラインハルトが婚約を解消してから、一年が過ぎた。


 王都には相変わらず季節ごとの夜会があり、貴族たちは祝い事や茶会に顔を出し、家同士の付き合いを続けていた。二人もまた、そうした場で顔を合わせることがあった。


「ごきげんよう、シェーンヘア卿」


「ごきげんよう、ベルリヒンゲン嬢」


 それだけだった。


 以前のように隣に並ぶこともなければ、互いの予定を気にかけることもない。


 クラリッサにとって、ラインハルトはかつて婚約していた男性である。彼に恋愛感情を抱いたことはなかった。婚約者として信頼できる相手だと考えていたからこそ、彼が自分の責務を理解せず、リアを庇うことばかりに終始していた姿に失望したのである。


 ラインハルトもまた、クラリッサを恋しく思っていたわけではなかった。婚約解消を決めたのは自分だ。彼女を選ばなかったのも、自分である。今さら、彼女に何かを求めるつもりはなかった。


 ただ、時折、彼女の姿を見ることがあった。社交の場で年長の貴婦人たちと話し、家門の者たちと落ち着いて会話を交わし、誰かに頼られると的確に助言をしている姿。


 かつて自分が嫉妬だと決めつけた言葉の意味を、彼は少しずつ理解し始めていた。クラリッサは、リアを嫌っていたから注意したのではない。公爵夫人として必要なことを、当然のこととして指摘していたのだ。


 そして、自分はその指摘を聞こうともしなかった。その事実を認めることは、ラインハルトにとって簡単ではなかった。けれど、彼はもう、それを誰かのせいにするつもりはなかった。


 交流が再び始まったのは、婚約解消から一年ほどが経った頃だった。きっかけは、ファビアンである。


 当時八歳になったファビアンは、学問の成績もよく、礼儀作法も身につけつつあった。まだ幼いため、公爵家の後継者として必要な知識をすべて理解しているわけではないが、教師たちからの評価は高かった。


 ラインハルトは、弟の教育を補佐する役目を担っていた。自分自身も領地経営や家門の実務を学び直しながら、ファビアンが将来困らないように支えていたのである。


 ある日、公爵邸でファビアンの学習内容について話し合っていた際、フリーデリンデがクラリッサの名を挙げた。


「ベルリヒンゲン公爵令嬢は、領地経営についてもよく学んでいらっしゃるそうですね」


「はい。わたくしも、以前から優秀な方だと思っております」


 教育係の言葉に、フリーデリンデは頷いた。


「でしたら、一度、ファビアンの学習について意見を伺ってみてはどうでしょう。女性の立場から見た領地経営や家門の運営についても、学べることがあるでしょうから」


 その提案を聞いたラインハルトは、少し考えた。


 クラリッサと交流を再開することに、特別な意味を持たせるつもりはなかった。ただ、彼女の知識がファビアンのためになるのであれば、助言を求める価値はある。


 彼は、クラリッサに書簡を送った。ファビアンの教育について、意見を聞かせてほしい。それだけの、簡潔な依頼だった。


 クラリッサからの返事もまた、簡潔だった。都合のよい日を知らせてほしい。自分で役に立てることがあれば、協力する。


 そこに、過去を懐かしむような言葉も、特別な感情を示す言葉もなかった。それでよかった。二人にとって、それは新しい関係の始まりだったのだから。


「こちらが、ファビアンの現在の学習内容です」


 ラインハルトは、机の上に書類を広げた。クラリッサは一枚ずつ目を通し、時折、質問を挟んだ。


「領地の収支については、どの程度まで学んでいらっしゃいますの?」


「基本的な仕組みは理解しています。ですが、実際の帳簿を読むのは、まだこれからです」


「でしたら、数字を覚えるだけでなく、なぜその数字になるのかを考える練習をなさるとよいでしょう。領地経営では、数字の向こうにいる人々の暮らしを理解する必要がありますから」


 ラインハルトは、その言葉を聞き、頷いた。


 以前の自分なら、彼女の言い方を厳しすぎると感じたかもしれない。だが、今は違った。


「成程。確かに、その視点は必要ですね」


 クラリッサは、僅かに目を瞬かせた。彼が素直に意見を受け入れたことに、少し驚いたのである。


「……お役に立てたのでしたら、何よりですわ」


「ありがとう。君に相談してよかった」


 その言葉に、クラリッサは穏やかに微笑んだ。


 それは、婚約者に向ける笑みではなかった。一人の人間として、相手の言葉を受け入れたときの、自然な笑みだった。


 ラインハルトは、その笑顔を見ても、胸が高鳴ることはなかった。ただ、彼女の知識と判断力を改めて認めた。そして、彼女に相談できることをありがたいと思った。それだけだった。


 それから、二人は時折、ファビアンの教育や領地の実務について意見を交わすようになった。


 勿論、頻繁に会うわけではない。それぞれに自分の家門の仕事があり、社交の予定もある。けれど、以前のように挨拶だけで終わる関係ではなくなっていた。


 ラインハルトは、クラリッサの助言を受けるたびに、自分がいかに多くのことを理解していなかったかを知った。彼女は、ただ厳しいだけの令嬢ではない。必要なことを学び、考え、判断し、その結果に責任を持とうとする人だった。


 そして、クラリッサもまた、ラインハルトの変化を認めるようになった。彼は、以前のように自分の考えだけを押し通すことがなくなっていた。助言を受ければ、まずはその理由を考える。間違いを指摘されれば、感情的に反発するのではなく、何を改めるべきかを検討する。ファビアンが失敗したときも、ただ庇うのではなく、失敗の原因を一緒に考え、次に同じことが起きないように教えていた。


 ある日、ファビアンが学習の途中で問題を解けず、苛立った様子を見せたことがあった。ラインハルトは、すぐに答えを教えようとはしなかった。


「どこまでは解っている?」


「ここまでは……」


「では、そこから考えてみよう。解らないことがあるのは構わない。だが、解らないからといって、考えることをやめてはいけない」


 その言葉を聞いたクラリッサは、ふと手元の書類から顔を上げた。


 かつて、ラインハルトはリアが失敗するたびに、彼女は悪くないと庇っていた。今は、失敗した相手を責めることも、無条件に庇うこともせず、相手が自分で考えられるように導いている。その違いは、小さくない。


「……よい教え方ですわね」


 クラリッサがそう告げると、ラインハルトは少し驚いた顔をした。


「そうかな?」


「ええ。相手を責めず、けれど考えることを放棄させない。大切なことだと思いますわ」


 ラインハルトは、暫く考えた。


「昔の僕なら、答えを教えて終わりにしていたかもしれない」


「そうかもしれませんわね」


 クラリッサは、率直に答えた。その返事に、ラインハルトは苦笑した。


「否定してくれてもいいのに」


「事実と異なることを申し上げる理由はありませんもの」


 二人は、顔を見合わせて笑った。


 それは、以前の婚約者同士だった頃には、あまりなかった種類の会話だった。互いに相手をよく知らず、家門の都合で結ばれていた頃には、こうして率直に意見を交わすこともなかった。


 今は違う。二人は、互いの考え方を知り始めていた。勿論、信頼が十分に築かれたわけではない。


 クラリッサは、ラインハルトが再び自分の都合を優先する可能性を、完全に否定してはいなかった。ラインハルトも、自分が過去に犯した過ちを忘れてはいなかった。


 だからこそ、二人は急がなかった。一度失われた信頼は、謝罪の言葉だけでは戻らない。日々の行動を通して、少しずつ積み重ねていくしかないのだ。


 そして、その積み重ねは、まだ始まったばかりだった。


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