第四話 あなたと築く、これからの人生
クラリッサとラインハルトの交流が再び始まってから、五年近い月日が流れた。
二人は、もはや以前のように挨拶だけを交わす関係ではなかった。社交の場で顔を合わせれば、自然に言葉を交わす。互いの家門に関わる問題について相談することもあれば、読んだ本や最近の出来事について話すこともあった。
それでも、二人の間に恋愛感情が生まれるまでには、さらに時間が必要だった。
クラリッサにとって、ラインハルトはかつて婚約していた男性であり、婚約解消の原因となった出来事も、決して忘れたわけではない。彼が変わったことは認めていた。しかし、変わったことと、愛することは別だった。
そしてラインハルトも、クラリッサに対して、初めは感謝と敬意を抱いているに過ぎなかった。彼女の意見は的確で、頼りになる。自分にはない視点を持ち、必要なときには遠慮なく指摘してくれる。だからこそ、彼は彼女との交流を大切にしていた。
それがいつから変わったのか、ラインハルト自身にも、はっきりとはわからなかった。ただ、ある日の夜会で、彼は初めて、自分の感情が以前とは違うことを自覚した。その夜、クラリッサは、ある侯爵家の令息と楽しげに会話をしていた。相手の男性は年齢も近く、教養もあり、クラリッサの話に熱心に耳を傾けている。二人が笑い合う姿を見たとき、ラインハルトは胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
なぜだろう。彼女が誰と話そうと、何の問題もないはずだ。クラリッサには、もう自分との婚約はない。彼女が誰を伴侶に選ぼうと、それは彼女の自由である。
それなのに、彼女が自分以外の男性と結婚する可能性を考えると、どうしようもなく気持ちが乱れた。
ラインハルトは、手元のグラスを見つめた。
――僕は、彼女に結婚してほしくないのか。
そう考えた瞬間、答えが浮かんだ。違う。彼女に結婚してほしくないのではない。自分が、その相手になりたいのだ。
彼は、漸く自分の感情を理解した。クラリッサを、人生の伴侶として望んでいる。婚約者だったからではない。公爵家を支えるために必要な女性だからでもない。彼女自身を、愛しいと思うようになっていたのだ。
けれど、その感情を自覚したからといって、彼女に何かを求めるつもりはなかった。彼女が自分を選ぶとは限らない。過去の自分が彼女にしたことを思えば、寧ろ当然だった。
ラインハルトは、初めて、誰かを愛することと、その人から愛されることが別の問題なのだと理解した。
一方、クラリッサもまた、自分の気持ちに気づき始めていた。
きっかけは、ラインハルトがある領地の問題について相談してきたときだった。彼は、自分の考えを説明したうえで、クラリッサの意見を求めた。彼女が別の案を示すと、ラインハルトはすぐに否定することなく、じっくりと話を聞いた。最終的に彼は、自分の案を修正した。
「君の言うとおりだ。僕は、こちらの事情ばかりを考えていた。領地で暮らす人々の負担を、十分に考慮できていなかった」
その言葉を聞いたとき、クラリッサは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
かつての彼なら、自分の判断を否定されたと受け取ったかもしれない。けれど、今の彼は違う。自分の間違いを認め、必要であれば考えを改めることが出来る。それは、簡単なことではない。
クラリッサ自身、正しいと信じていた考えを修正することが、どれほど難しいか知っていた。だからこそ、彼の変化を尊重したいと思った。
そして、彼と話す時間が、いつの間にか楽しみになっていることにも気づいた。彼がどのような意見を持っているのか知りたい。彼が何を考え、何を大切にしているのか、もっと理解したい。その気持ちは、単なる敬意だけでは説明できなかった。
クラリッサは、自分の心を見つめた。
――わたくしは、ラインハルト様をお慕いしているのかしら。
その問いに、すぐ答えを出すことは出来なかった。
けれど、少なくとも、彼が以前とは違う男性になったことを喜ばしく思っていた。そして、その変化を誰よりも近くで見てきた自分が、彼に特別な感情を抱き始めていることを、否定することも出来なかった。
季節が巡り、二人は二十二歳を迎えた。ファビアンは十二歳になり、優秀な少年から、将来の公爵としての自覚を持ち始めた少年へと成長していた。
彼は兄を尊敬していた。幼い頃から、自分の学習を助け、時には厳しく、時には辛抱強く導いてくれた兄を。
そして、ラインハルトもまた、弟を大切に思っていた。
ファビアンが成長するにつれ、二人は公爵家の将来について話し合うことが増えていた。
そんな折、ファビアンが侯爵家の令嬢に好意を抱いていることが、家族に知られることとなった。相手は侯爵家の嫡女であり、彼女自身も家門を継ぐ立場にある。二人の気持ちは、互いの家の事情を考えれば、簡単に結ばれるものではなかった。ファビアンは悩んだ末、自分の将来について両親に相談した。
公爵家を継ぐことは、彼にとって大切な責務だった。しかし、彼自身の人生もある。
両親は、彼の気持ちを聞いたうえで、家門の将来について話し合った。ファビアンが公爵家を継ぐ道を選ばないのであれば、後継者はラインハルトに戻ることになる。勿論、それは単にファビアンが恋をしたから決まる話ではなかった。ラインハルトが後継者として必要な能力を身につけ、責務を果たせること。そして、ファビアン自身も納得していること。その両方が必要だった。
ジギスヴァルトは、息子を執務室に呼んだ。
「ラインハルト。お前は、再び公爵家を継ぐ覚悟があるか?」
ラインハルトは、父の問いを静かに受け止めた。かつての自分なら、当然のこととして受け入れていただろう。自分は嫡男なのだから、公爵家を継ぐのが当たり前だと。
しかし、今は違う。
「はい。但し、ファビアンの意思を尊重したいと思っています。彼が望む道を選べるよう、私に出来ることがあれば協力したい」
ジギスヴァルトは、暫く息子を見つめていた。やがて、短く頷いた。
「……以前よりは、ましな答えをするようになったな」
それは、褒め言葉としては随分厳しいものだった。ラインハルトは、苦笑した。
「ありがとうございます」
「褒めているわけではない」
「承知しています」
父は、僅かに口元を緩めた。
「だが、及第点ではあるだろう」
その後、ジギスヴァルトとフリーデリンデは、ラインハルトを後継者候補に戻すことを認めた。
但し、すぐに爵位を譲るわけではない。結婚し、子供が生まれ、家庭を問題なく運営できること。そして、公爵家の責務を果たせること。それを確認したうえで、正式に爵位を譲る。
ラインハルトは、その条件を受け入れた。今の彼には、後継者という立場を、当然の権利だと考える気持ちはなかった。責務を果たすことで、初めて託されるものなのだと理解していたからである。
その夜、ラインハルトはクラリッサに会う約束を取りつけた。
公爵邸の庭園には、秋の風が吹いていた。二人は、花壇の脇に設けられたベンチに並んで座った。暫く、他愛のない話を交わした。
ファビアンのこと。最近の社交界のこと。互いの家門で起きた、些細な出来事。
そして、会話が途切れたとき、ラインハルトはクラリッサに向き直った。
「クラリッサ嬢」
「はい?」
「今日は、君に伝えたいことがあるんだ」
クラリッサは、彼の顔を見つめた。
「何でしょう?」
ラインハルトは、深く息を吸った。
「君と、これからの人生を共に歩みたい」
クラリッサは、目を瞬かせた。
「……それは」
「結婚してほしい、という意味だ」
彼は、急いで言葉を続けた。
「勿論、すぐに返事をしてほしいわけではない。君が僕を選ぶとは限らないことも解っている」
ラインハルトは、まっすぐに彼女を見つめた。
「僕たちは、以前、婚約していた。でも、あの頃の僕たちは、互いをよく知っていたわけではなかった。僕は、自分の責務も、君の言葉の意味も理解していなかった」
彼は、静かに続けた。
「君に謝罪したからといって、過去が消えるわけではない。それでも、君と過ごす時間の中で、僕は君を信頼するようになった。君の考え方を尊敬し、君と話すことを楽しみにするようになった。そして、気づけば、君を人生の伴侶として望むようになっていた」
クラリッサは、何も言わなかった。彼の言葉を、一つずつ受け止めていた。
「君の知識も、判断力も、責任感も、僕は尊敬している。けれど、それだけではないんだ。君と一緒にいたい。君と相談し、君と笑い、君と一緒に人生を築いていきたい」
ラインハルトは、少しだけ表情を和らげた。
「今度は、君の言葉を聞き、君と相談し、共に責任を担う夫になりたい」
長い沈黙があった。
クラリッサは、庭園の木々を見つめた。かつて、彼女はラインハルトと結婚することを当然の未来として考えていた。けれど、その頃の二人の間に恋愛感情はなかった。家門同士の取り決めによって結ばれた婚約者であり、互いに必要な責務を果たすことが求められていた。
その関係は、彼の選択によって終わった。そして、婚約がなくなった後、二人は漸く、一人の人間として互いを知ることが出来た。彼がどんな失敗をし、何を学び、どのように変わったのか。彼女が何を大切にし、何を考え、どのような未来を望んでいるのか。時間をかけて知り合ったからこそ、今の気持ちがある。
クラリッサは、ゆっくりとラインハルトに向き直った。
「……わたくしも、あなたと過ごす時間が好きですわ」
ラインハルトの目が、僅かに見開かれた。
「あなたは、以前とは変わりました。わたくしの意見を聞き、考え、必要であればご自身の判断を改めることが出来るようになりました」
彼女は、穏やかに微笑んだ。
「そして、わたくしも、あなたと話すことを楽しみにするようになりました。あなたが何を考えているのか知りたいと思いますし、あなたとなら、互いに支え合いながら生きていけるのではないかと思います」
ラインハルトは、息を呑んだ。
「それでは……」
「ええ」
クラリッサは、はっきりと答えた。
「あなたと結婚したいと思います」
ラインハルトは、安堵したように目を閉じた。それから、彼女に向き直り、深く頭を下げた。
「ありがとう、クラリッサ」
「お礼を言われるようなことではありませんわ。わたくしも、あなたを選んだのですもの」
彼女は、そっと微笑んだ。
「今度は、二人で決めたことですわね」
「ああ。そうだね」
二人は、顔を見合わせた。
かつて婚約していた頃には、こんな日が来るとは思っていなかった。クラリッサは、彼を愛していなかった。ラインハルトも、彼女を愛していなかった。ただ、互いに責務を果たすべき相手だと考えていただけだった。
けれど、婚約解消後の時間が、二人を変えた。彼は、自分の選択に責任を持つことを学んだ。彼女は、誰かに選ばれることだけが、自分の価値を決めるわけではないと知った。そして二人は、互いを理解したうえで、改めて人生を共にすることを選んだのである。
やがて、二人の結婚が決まった。
公爵家の後継者としての責務は、これからも続く。ラインハルトが正式に爵位を継ぐのは、まだ先のことだろう。それでも、彼はもう、その未来を当然の権利とは考えていなかった。
クラリッサもまた、公爵夫人となることだけを自分の人生の目的とは考えていなかった。二人で学び、二人で考え、二人で責任を担う。その先にある未来を、共に築いていく。それが、今の二人の望みだった。
そして、二人は歩き出す。かつての婚約者としてではなく。互いを理解し、互いを信頼し、互いを愛する者として。
今度こそ、自分たちの意思で選んだ人生を歩むために。




