第二話 あなたが選んだ愛の、その価値
ラインハルトは、父の執務室に呼び出されていた。
公爵邸の執務室は、重厚な書棚と大きな執務机が置かれた、落ち着いた部屋である。窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がっていたが、今のラインハルトには、その景色を楽しむ余裕などなかった。
父ジギスヴァルト・マクシミリアン・シェーンヘア公爵は、机の向こう側で書類に目を通していた。
その隣には、継母フリーデリンデが座っている。
「婚約を解消したそうだな」
父の言葉は、問いかけというより確認だった。
「はい」
「理由は聞いている。クラリッサ嬢から、公爵家を担う者としての責務について指摘されたそうだな」
ラインハルトは、僅かに顔を顰めた。
「彼女はリアを認めようとしませんでした。リアが何かするたびに欠点を指摘して……」
「それで、お前はリア嬢を庇ったのだな?」
「当然です。彼女は僕の大切な幼馴染ですから」
ジギスヴァルトは、書類を机に置いた。
「では、リア嬢と結婚するつもりなのだな?」
「はい」
ラインハルトは迷わず答えた。
父は暫く息子を見つめ、それから尋ねた。
「公爵家を継ぐことについては、どう考えている?」
「それは……」
ラインハルトは言葉に詰まった。
公爵家を継ぐこと。それは、生まれたときから当然のこととして教えられてきた未来だった。領地のことも、家臣のことも、社交界での立場も、いつか自分が引き受けるのだと理解していた。
しかし、それらをリアとの結婚と結びつけて考えたことはなかった。
「クラリッサ嬢は、お前に二つの道を示したそうだな。リア嬢を導き、公爵夫人として必要なものを身につけさせるか。それが出来ないのなら、後継者の地位を弟に譲るか」
「……はい」
「お前は、どちらを選ぶつもりだ?」
ラインハルトは、顔を上げた。
「僕はリアを愛しています。彼女と結婚したいのです」
「それは聞いた。私が尋ねているのは、公爵家の後継者としての責務をどうするかという話だ」
父の声に、怒りはなかった。だからこそ、ラインハルトは言い逃れが出来なかった。
「公爵家を継ぐということは、お前の望みだけで物事を決められる立場ではないということだ。妻となる者にも、それに伴う責務がある。お前は、その責務を理解したうえでリア嬢を選んだのか?」
「それは……」
「彼女が傷つかないように庇うことと、彼女が将来困らないように導くことは違う。お前は、その違いを理解しているか?」
ラインハルトは、答えられなかった。父は、静かに続けた。
「リア嬢を妻にすること自体を、私は禁じていない。ただし、公爵夫人としての責務を果たせるかどうかは別の問題だ。お前が彼女を導くことも、彼女自身が学ぶことも拒むのであれば、公爵家の後継者として認めるわけにはいかない」
隣で話を聞いていたフリーデリンデが、口を開いた。
「ラインハルト。私は、あなたのお母様を責めるために、この話をしているのではありません」
ラインハルトは、継母を見た。
「私も、結婚した当初から何もかも出来たわけではないのですよ。前の家で身につけた習慣と、公爵家で求められることは違いました。知らないことは学び、間違えたことは改めました。それでも足りないことがあれば、周囲に教えを請いました」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「公爵夫人という立場は、ただ与えられるものではありません。務めを果たして、初めて周囲から認められるものです」
「……母上も、苦労していました」
「ええ。存じています」
フリーデリンデは、否定しなかった。
「お母様が苦労されたことと、リア嬢が必要な努力をしなくてよいことは、別の話です」
ラインハルトは、何も言えなかった。
母が公爵家で苦労したことは知っている。周囲から冷たい扱いを受けたことも。だからこそ、自分はリアを守りたかった。
けれど、母は本当に、努力しなくてよいと思っていたのだろうか。リアが注意されるたびに庇い、彼女が改善する機会を奪ってきたのは、自分ではなかったか。その疑問は、胸の奥に重く沈んだ。
「……解りました」
ラインハルトは、漸く口を開いた。
「リアと結婚するために、公爵家の後継者の立場を手放すことも考えます」
ジギスヴァルトは、息子の顔をじっと見つめた。
「それがどういうことか解っているのか?」
「はい」
「嫡男でなくなれば、今までのような生活は出来ない。公爵家の後継者として与えられてきたものも失う。将来、ファビアンが公爵位を継ぐことになれば、お前は兄として弟を支える立場になる」
「……承知しています」
「本当にか?」
父の問いに、ラインハルトは答えられなかった。まだ、実感がなかったのである。それでも、彼は決めた。
「僕はリアを選びます」
ジギスヴァルトは、長い沈黙の後、頷いた。
「解った。ならば、その選択に責任を持て」
それだけだった。叱責も、説得も、引き留めもなかった。ラインハルトは、父の態度に拍子抜けしながらも、執務室を後にした。
これでいいのだ。自分はリアを選んだ。その選択に責任を持つ。それだけのことではないか。
そう考えながら、彼はリアのもとへ向かった。リアは、彼の訪問を喜んだ。
「ラインハルト様!」
彼女は嬉しそうに駆け寄り、彼の腕に手を添えた。
「お父様には、お話し出来ましたの?」
「うん。僕は君と結婚したいと伝えたよ」
「まあ!」
リアは、頬を染めた。
「嬉しいわ。これで、わたくしたち、ずっと一緒にいられるのね」
その笑顔を見て、ラインハルトは安堵した。
彼女も喜んでくれている。自分の選択は、間違っていなかったのだ。しかし、彼が続けた言葉によって、その表情は変わった。
「ただ、僕は公爵家の嫡男ではなくなるかもしれない」
「……え?」
「君と結婚するなら、公爵夫人としての責務を果たせるかどうかが問題になる。僕は、それを無理に押し通すつもりはないんだ」
リアは、彼の顔を見つめた。
「それって……どういうこと?」
「公爵家を継ぐ立場を弟に譲り、僕は従属爵位の子爵位を受けることになると思う。ファビアンが公爵家を継げるよう、僕が補佐するんだ」
暫く、沈黙が続いた。やがて、リアは小さな声で尋ねた。
「……では、わたくしは公爵夫人になれないの?」
ラインハルトは、頷いた。
「そうなるね」
リアの顔から、笑みが消えた。
「そんなの、聞いていないわ」
「君には、これから必要なことを学んでほしいと思っている。でも、僕が君を庇うばかりではいけないと、漸く解ったんだ」
「違うわ!」
リアは、声を荒らげた。
「わたくしが言っているのは、そんなことではないの!」
ラインハルトは、驚いて彼女を見た。
「わたくしは、公爵夫人になりたかったのよ。あなたの妻になって、公爵家の奥様になるのだと思っていたのに!」
「……リア」
「あなたは、公爵家の嫡男だから価値があったのよ!」
その言葉を聞いた瞬間、ラインハルトは何も言えなくなった。
「公爵夫人になれないなら、あなたなんか何の価値もないわ!」
リアは、彼の腕を振り払った。
「わたくし、あなたと結婚するために、どれほど我慢してきたと思っているの? 周りから何を言われても、あなたが守ってくださるから耐えてきたのよ!」
「君は……僕自身ではなく、公爵夫人になれることが大切だったのか?」
「当たり前でしょう!」
リアは、すぐに言い返した。その答えに、彼女自身も驚いたようだった。けれど、もう遅かった。
ラインハルトは、彼女の顔を見つめた。自分は、彼女を愛していた。彼女が傷つかないように庇い、彼女の望みを叶え、彼女が幸せでいられるようにしたかった。それが愛だと思っていた。
しかし、彼女が望んでいたのは、自分が与えられるものだったのだ。公爵夫人という地位。高位貴族の妻という立場。社交界で誰よりも大切にされる未来。
「……解った」
ラインハルトは、静かに言った。
「君が何を望んでいたのか、漸く解ったよ」
リアは、何か言いかけた。
けれど、彼はもう彼女を庇おうとはしなかった。
「僕たちは、ここまでだ」
「待って、ラインハルト様!」
リアが手を伸ばした。
「そんなつもりではなかったの! わたくしは、ただ……!」
ラインハルトは、その手を取らなかった。
彼は彼女を愛していた。けれど、その愛を理由に、自分の責任を放棄し続けることは出来ない。
そして、彼女が自分の地位を失った途端に自分を否定するのなら、その関係を続けることも出来なかった。
ラインハルトは、リアのもとを去った。
その日、彼は初めて、自分の選択が何を意味していたのかを理解した。愛する女性を選ぶことと、愛する女性の望みを何でも叶えることは違う。そして、愛情を理由に責任を避けることは、相手を大切にすることではなかったのだ。
リアがラインハルトを振ったという話は、ほどなく社交界に広まった。勿論、最初は彼女自身がそう語ったわけではない。
しかし、これまで彼女は、友人たちに何度も自慢していたのである。ラインハルトが自分をどれほど優先してくれるか。婚約者であるクラリッサよりも、自分のほうが大切にされていること。自分が何をしても、ラインハルトは必ず庇ってくれること。
それらの言葉を覚えていた令嬢たちは、今回の顛末を知り、首を傾げた。
「公爵家を離れてまで結婚しようとしてくださったのに、子爵になったら価値がないとおっしゃったの?」
「それでは、愛していたのはラインハルト様ご自身ではなく、公爵夫人という立場だったのではなくて?」
「クラリッサ様の忠告は、正しかったのね」
リアは、周囲の態度が変わったことに気づいた。以前は親しげに話しかけてきた令嬢たちが、距離を置くようになった。夜会に出席しても、以前ほど声をかけられない。自分が何か話せば、相手は微笑みながらも、どこかよそよそしい。
リアは、クラリッサが自分を陥れたのだと考えた。しかし、クラリッサは何もしていなかった。ただ、リアが自分の口で語り、自分の振る舞いで示してきたことが、今になって周囲に理解されただけだった。
そして、リアの兄である次期バイアー子爵は、妹の言動が家の評判を損ねていることを重く受け止めるようになった。
リアは、かつて望んだ公爵夫人の座を失った。そして、自分を愛してくれると信じていた男性も、自らの言葉で失ったのである。それは、誰かに奪われたものではなかった。彼女自身が選んだ結果だった。




