第一話 その愛に、責任はございますか?
王都の春を彩る夜会は、今宵も華やかに賑わっていた。
磨き上げられた大理石の床には、幾重にも重なるドレスの裾が流れ、天井から吊るされた無数のシャンデリアが、貴婦人たちの宝石をきらめかせている。
その中央に、一組の男女がいた。シェーンヘア公爵家の嫡男、ラインハルト・ヴィンフリート・シェーンヘア公爵令息。そして、その隣に寄り添うバイアー子爵令嬢、リアである。
ラインハルトは今年17歳。均整の取れた容姿と穏やかな物腰を持ち、将来の公爵として幼い頃から注目されてきた青年だった。リアは彼の幼馴染で、同じく17歳。淡い桃色のドレスをまとい、彼の腕に指を絡めている。
二人が親しいことは、社交界では周知の事実だった。
そして、ラインハルトには正式な婚約者がいる。ベルリヒンゲン公爵令嬢、クラリッサ・イルムヒルト・ベルリヒンゲン。彼女もまた17歳。幼少期から公爵夫人となるための教育を受け、礼儀作法、歴史、外国語、芸術、領地経営に至るまで、将来必要となる知識を学んできた令嬢である。
今夜も落ち着いた青銀色のドレスをまとい、婚約者のいる公爵家の夜会にふさわしい振る舞いをしていた。
そのクラリッサの目の前で、問題は起きた。
「まあ、そんなに細かなことまでお気になさるの?」
リアが、年配の侯爵夫人に向かって笑ったのである。
夫人は先ほどから、リアの挨拶の仕方や言葉遣いについて、穏やかに助言をしていた。悪意からではない。公爵令息と親しく交際する子爵令嬢が、今後も高位貴族の集う場に出入りするのであれば、恥をかかないようにという配慮だった。
しかしリアは、助言を素直に受け取らなかった。
「わたくし、堅苦しいことは苦手ですの。もっと気楽にお話ししたほうが、皆様も楽しいでしょう?」
侯爵夫人の表情が僅かに曇る。その変化を察した周囲の令嬢たちが、視線を交わした。
「リア」
ラインハルトが、窘めるように名を呼んだ。しかし、その直後に彼が続けた言葉は、リアを注意するものではなかった。
「夫人、申し訳ありません。リアはまだ、こういった場に慣れていないのです。どうか大目に見ていただけませんか」
クラリッサは、手にしていたグラスを静かにテーブルへ置いた。
まただわ。リアが礼を欠く。周囲が注意する。ラインハルトが庇う。そしてリアは、努力することなく、その場を切り抜ける。
これまで何度も繰り返されてきた光景だった。クラリッサは、リアが子爵令嬢だからといって、彼女を見下したことはない。身分が低くとも、礼儀正しく、教養を身につけ、誠実に振る舞う令嬢は大勢いる。反対に、高位貴族の生まれであっても、礼儀を欠き、責務を果たさない者もいる。
だからこそ、クラリッサはリア自身の振る舞いを問題にしていた。
そして、もう一つ。リアの欠点を何度も目にしながら、それを改善させようともせず、ただ庇い続ける婚約者の姿勢を。
「大切な幼馴染で愛しいというのなら、何故あなたが彼女を導かないのです?」
その声は、騒がしかった広間の一角に、思いのほか明瞭に響いた。
ラインハルトが振り返る。
「クラリッサ?」
「リア様が慣れていらっしゃらないのなら、慣れるように教えて差し上げればよろしいでしょう。公爵家の嫡男であるあなたなら、それが出来るはずですわ」
「君は……」
ラインハルトの眉が寄った。
「リアに厳しすぎるのではないか? 彼女は子爵家の令嬢なんだ。君と同じ教育を受けているわけではない」
クラリッサは、ほんの少し首を傾げた。
「彼女の貴族としてのマナーはなってません。だから馬鹿にされるのですよ。子爵家だからではありませんわ」
リアの頬が赤くなる。
「ひどいわ、クラリッサ様。わたくし、そんなつもりでは……」
「ええ。悪気はないのでしょうね」
クラリッサは、リアをまっすぐに見つめた。
「ですが、悪気がなければ何をしてもよいというわけではございません。あなたが公爵令息であるラインハルト様の隣に立ちたいとお考えなら、それに相応しい努力をなさるべきですわ」
「わたくしだって、頑張っております!」
「具体的には、何を?」
リアは口を閉ざした。
クラリッサは追い詰めるように声を荒らげることもなく、淡々と続けた。
「公爵家子息であるあなたと並びたければ、それに相応しい努力をすべきでしょう。それもせずにただあなたに泣きついて。先ず努力してからいえという話ですわ」
「クラリッサ、もういいだろう!」
ラインハルトが声を強めた。
「君はリアを責めたいだけじゃないか。僕が彼女を大切にしているから、気に入らないんだろう?」
その言葉に、クラリッサは一瞬だけ目を伏せた。
嫉妬。彼は、自分の言葉をその一言で片づけるつもりなのだ。婚約者として、将来の公爵家を担う者として、当然確認すべき問題を。
「……あなただって、身近にそれでご苦労なさっている方をご存じのはずだわ」
クラリッサは、再び顔を上げた。
「あなたのお母様。伯爵家から嫁いだからと散々おばあ様や伯母様方につらく当たられていましたわよね」
ラインハルトの顔から、表情が消えた。
彼の実母は、伯爵家の令嬢だった。公爵家へ嫁いだ当初、彼女は周囲から歓迎されたとは言いがたい。公爵夫人として求められる教養や振る舞いを身につけていても、実家の家格を理由に冷たい扱いを受けたことがあった。その苦労を、ラインハルトは幼い頃から聞かされてきた。
だからこそ、彼はリアを守ろうとした。低い身分であることを理由に、彼女が傷つけられることのないように。
だが、クラリッサの指摘は、そこから先にあった。
「あなたのお母様は伯爵家相当のマナーは身に着けておられたわ。それでも公爵夫人となるには足りないの。努力なさらなくて、あなたのお父様に縋って甘えて。それでどうなりました? ええ、離婚なさったわね。公爵夫人の責務に耐えられずに不貞を犯して」
「母上を侮辱するな!」
ラインハルトの声が広間に響いた。近くにいた貴族たちが、会話を止める。クラリッサは動じなかった。
「侮辱しているのではありません。事実を申し上げているのです」
「君に何が解る!」
「解りますわ。わたくしも、公爵夫人となるための教育を受けてきたのですもの」
その言葉には、静かな誇りがあった。
「わたくしは幼い頃から、社交の作法も、教養も、領地経営も学んできました。公爵家の夫人として何を求められるのか、何を担わなければならないのか、教えられてきましたわ」
クラリッサは、ラインハルトから目を逸らさなかった。
「それでも、実際に公爵家を支えることがどれほど大変なのか、わたくしはまだ知りません。だからこそ、これからも学ぶつもりです」
彼女は一度、言葉を切った。
「あなたは、リア様にそれを求めましたか?」
ラインハルトは答えなかった。
「あなたは彼女が傷つかないように庇ってきた。けれど、彼女が将来困らないように、必要なことを教えてきたのですか?」
リアが、ラインハルトの腕を強く握った。
「ラインハルト様、もういいですわ。わたくし、帰りたい……」
その声は、周囲の同情を誘うように震えていた。
しかし、クラリッサはもうリアを見ていなかった。彼女が問うているのは、婚約者の責任だった。
「そしてあなたのお父様は、元侯爵令嬢で伯爵家の未亡人だった今の夫人と再婚なさったわ。義母様は立派に公爵夫人の務めを果たしておられるわね」
現公爵夫人フリーデリンデ・ヴァンダ・シェーンヘアは、元侯爵令嬢であり、先夫を亡くした後にジギスヴァルトと再婚した女性である。
彼女は公爵家の内情を理解し、領地と家門を支え、社交界でも確かな信頼を得ていた。その働きは、誰もが認めるところだった。
「出自だけで務まるものではないのです。必要なことを学び、責務を果たす。その積み重ねがあって、初めて周囲から認められるのですわ」
クラリッサは、最後に告げた。
「彼女を妻にしたいのなら公爵夫人の責務に耐えられるように、公爵夫人として恥ずかしくないように教育なさいませ。それが無理ならあなたが公爵家から出ることね」
ラインハルトは、唇を引き結んだ。
「公爵家はあなたの異母弟がいますもの。彼が継げばいい。幼いながらもあなたよりもはるかに優秀よ」
ファビアン・ラルス・シェーンヘア。僅か七歳の異母弟は、既に学問や礼儀作法において優れた才能を見せていた。勿論、七歳の少年がすぐに公爵家を担えるわけではない。それでも、将来の後継者となる可能性は十分にあった。
クラリッサは、ラインハルトが嫡男だからといって、その地位が無条件に保証されるものではないと告げているのだった。
ラインハルトは、暫く何も言わなかった。
やがて、彼はリアの手を取り、クラリッサを睨みつけた。
「……判った。君との婚約は解消する」
その言葉に、周囲がざわめいた。
「僕はリアを選ぶ。彼女と結婚する。君にとやかく言われる筋合いはない」
クラリッサは、静かに頷いた。
「承知いたしました」
「それだけか?」
ラインハルトが、拍子抜けしたように尋ねた。
「引き留めないのか?」
「あなたがご自身でお決めになったことですもの。わたくしが引き留めて、どうなさるのです?」
クラリッサは、ほんの少し微笑んだ。
「どうぞ、その選択に責任をお持ちくださいませ」
ラインハルトは、リアを連れて広間を去った。
その背中を見送りながら、クラリッサは手元のグラスを取り上げた。悲しくないわけではなかった。幼い頃から、いつかこの方の妻になるのだと教えられてきた。彼と共に公爵家を支える未来を想定して、努力を重ねてきた。
それが、今夜、終わった。けれど、彼を愛していたわけではない。婚約者として信頼し、共に責務を担う相手だと考えていた。その信頼が失われた以上、婚約を続ける理由はなかった。
「……さて」
クラリッサは小さく息を吐いた。
「これからのことを考えなくてはね」
彼女は再び、夜会の人々へ向き直った。
もう、ラインハルトの婚約者ではない。それでも、ベルリヒンゲン公爵家の令嬢であることに変わりはなかった。自分の人生は、まだこれからなのだから。
一方、その頃。
ラインハルトは、リアの手を握りながら、これで漸く二人の未来を自由に選べるのだと思っていた。
彼はまだ知らない。自分が選んだ愛には、想像していたものとはまるで違う代償が伴うことを。




