第9話 王太子殿下、嫉妬イベントは相手を間違えています
舞踏会というものは、こんなに体力を削る行事だっただろうか。
いや、正確に言えば、舞踏会そのものが悪いのではない。
眩しいシャンデリアも、華やかな音楽も、香り高い花々も、令嬢たちの美しいドレスも、すべては悪くない。
悪いのは、わたくしを中心に妙な人間関係が渦を巻き始めていることである。
王太子ユリウス殿下は、わたくしに妙な興味を持ち始めている。
騎士団長ダリオ様は、わたくしを警戒しながらも少しだけ評価してくださっている。
ヒロイン様ことセシリア様は、なぜか悪役令嬢であるわたくしを「お姉様」と呼んで懐いている。
冷血公爵レオンハルト様は、わたくしを警戒対象、もとい興味深い令嬢として観察している。
おかしい。
どう考えても、おかしい。
わたくしは壁になりたいだけなのに。
壁というものは、部屋の端にあるべきだ。
中心に立って、王太子殿下と冷血公爵様から視線を向けられ、ヒロイン様に袖を握られ、騎士団長様に目的を疑われるものではない。
そんな壁があったら怖い。
もはや怪奇現象である。
「お嬢様」
背後に控えていたリタが、低い声で囁いた。
「今、遠い目をなさいました」
「少し現実から離れていたわ」
「お戻りくださいませ。現実では、王太子殿下がこちらへ近づいておられます」
「なぜ」
「婚約者だからでは」
「正論をぶつけないで」
わたくしは扇で口元を隠しながら、広間の奥を見た。
ユリウス殿下が、確かにこちらへ歩いてくる。
金の髪がシャンデリアの光を受け、白と青の礼服がきらめく。
周囲の令嬢たちが、自然と道を開ける。
王太子としての華がある。
圧倒的に主人公感がある。
その少し後ろに、ダリオ様。
黒と深紅の騎士服。
背筋の伸びた姿。
主の半歩後ろを守る、完璧な距離感。
ありがとうございます。
今夜何度目か分からない供給である。
しかし、喜んでばかりもいられない。
ユリウス殿下の目が、まっすぐわたくしを捉えている。
これは、何か話がある顔だ。
しかも、先ほどの「君はレオンハルト公と親しいのか?」の続きが来そうな顔である。
違う。
その嫉妬めいたイベントは、わたくし相手に発生させてはいけない。
もし殿下が誰かとの距離を気にするのなら、そこは本来、ヒロイン様やダリオ様方面でお願いしたい。
いや、ダリオ様方面と言うと、この世界の倫理や身分上の問題がいろいろ発生する気もするが、わたくしの脳内では尊いから仕方がない。
「ミリア」
ユリウス殿下が目の前で足を止めた。
「少し、話せるかな」
「はい、殿下」
話せる。
話せるけれど、できればダリオ様も一緒に。
むしろダリオ様中心で。
わたくしは、あくまで自然に、殿下の後ろに控えるダリオ様へ視線を向けた。
「グランツ卿もご一緒に?」
「いや」
殿下が穏やかに笑う。
「今日は、君と話したい」
困る。
非常に困る。
その台詞は、恋愛イベントの導入である。
しかも、やわらかな声。
ほんの少しだけ人目を避けるような距離。
王太子殿下の真剣な眼差し。
駄目だ。
これはヒロイン様用。
わたくし用ではない。
わたくしは悪役令嬢。
壁志望。
現在、役職が迷子。
内心で全力拒否しながらも、表面上は公爵令嬢の微笑みを崩さない。
「殿下のお望みでしたら」
そう答えると、リタが背後で小さく息を吐いた。
おそらく「また面倒なことになりましたね」という息である。
わたくしも同感だ。
ユリウス殿下は、広間の端にある少し静かな場所へ視線を向けた。
「少しだけ、あちらへ」
「承知いたしました」
わたくしは歩き出した。
殿下が隣に並ぶ。
ダリオ様は、当然のように数歩後ろからついてくる。
よし。
完全な二人きりではない。
まだ耐えられる。
むしろこの距離感、殿下とダリオ様を同時に視界に入れられるのでありがたい。
だが、殿下がふと振り返った。
「ダリオ。少し離れていてくれるか」
やめてください。
なぜ離すのですか。
ダリオ様は一瞬、こちらを見た。
警戒。
迷い。
だが最終的には、主の命に従う。
「承知しました。何かあれば、お呼びください」
「うん。ありがとう」
ダリオ様が離れていく。
尊い背中が遠ざかる。
わたくしの心も少し遠ざかりそうになった。
駄目だ。戻ってこい、わたくし。
今は王太子殿下と話す場面である。
変なことを言わない。
妙な単語を出さない。
壁、推し、尊い、供給、世界線。全部禁止。
広間の端には、柱と大きな花瓶が置かれていた。
人目はあるが、近くで聞き耳を立てる者はいない。
またもや絶妙な位置である。
今日の人々は、なぜこうもわたくしを逃げにくい場所へ連れていくのか。
ユリウス殿下は、少しだけ黙ってから言った。
「ミリア。今日は、ずいぶん色々あったね」
「はい」
「君が私から距離を置きたいと言い出したこと。セシリア嬢を庇ったこと。レオンハルト公と踊ったこと。ダリオを褒めたこと」
「並べられると、なかなか忙しい夜ですわね」
「君が一番忙しくしている」
「そのつもりはなかったのですが」
「そうだろうね」
殿下は、困ったように笑った。
「君は、何かをしようとしているようで、どこか自分でも振り回されているように見える」
刺さる。
その通りすぎて、返す言葉に困る。
わたくしは作戦を立てている。
殿下とダリオ様を近づけ、ヒロイン様を正しいルートへ導き、悪役令嬢ルートを回避するために。
けれど実際には、セシリア様に懐かれ、冷血公爵様に観察され、殿下にこうして呼び止められている。
わたくしが物語を動かしているのか、物語に振り回されているのか、もう分からない。
「わたくしも、少しそう思いますわ」
「認めるんだ」
「今夜は取り繕う体力が少なくなっておりますので」
「それ、さっきもレオンハルト公に言っていなかった?」
「殿下」
「うん?」
「公爵様との会話内容を細かく覚えていらっしゃるのは、なかなか恐ろしいですわ」
「それだけ印象に残ったんだよ」
殿下の声が、ほんの少し変わった。
柔らかいのに、逃がさない。
わたくしは扇を握る手に力を入れた。
「君が、レオンハルト公とあんなふうに話すとは思わなかった」
「あんなふう、とは」
「遠慮がないように見えた」
「わたくしがですか?」
「うん。君は私の前では、いつも完璧だった。完璧すぎるほどに」
殿下は、少しだけ目を細めた。
「でも、レオンハルト公の前では、怒ったり、困ったり、変なことを言ったりしていた」
「変なこと」
「壁になりたい、とか」
聞こえていた。
どこまで聞こえていたのですか、殿下。
わたくしは静かに息を吸った。
「それは……比喩ですわ」
「そうらしいね。レオンハルト公も困っていた」
「公爵様は困るというより、分析していらっしゃいました」
「分かるんだ?」
しまった。
自分で踏み込んだ。
殿下の目が、少しだけ楽しそうになる。
「ミリアは、レオンハルト公のことをよく見ているんだね」
「見ているというより、見られているので防衛上必要な観察を」
「防衛」
「公爵様は鋭いので」
「確かに鋭い。けれど、君は少し楽しそうだった」
楽しそう。
その言葉が、妙に引っかかる。
セシリア様にも言われた。
リタにも、たぶん思われている。
殿下にまで言われた。
まさか本当に、わたくしはレオンハルト公爵との会話を楽しんでいるのだろうか。
いや、違う。
あれは緊張と混乱が作り出した一時的な錯覚。
ジェットコースターに乗って悲鳴を上げているうちに楽しい気がしてくる現象に近い。
たぶん。
「殿下。公爵様とは、そういうものではありません」
「そういうもの?」
「ええ。公爵様はわたくしを警戒していらっしゃるだけですし、わたくしも公爵様に見つからないようにしたかっただけで」
「見つからないように?」
「いえ、言葉の綾です」
「今夜の君の言葉の綾は、だいたい本音に近い気がする」
やめて。
その通りかもしれないので、やめて。
わたくしは慌てて話題を変えた。
「それより殿下。先ほどセシリア様とお話しされて、いかがでした?」
よし。
自然にヒロイン様の話題へ戻す。
ここから殿下の意識をセシリア様へ向ける。
セシリア様の純粋さ、可愛らしさ、王宮での健気さを語っていただく。
そして好感度を上げる。
完璧な軌道修正。
ユリウス殿下は少し考えるように視線を上げた。
「そうだね。素直な人だと思った。緊張しているのに、きちんと相手の言葉を聞こうとしていた」
「ええ、とても素敵な方ですわ」
「君が庇いたくなるのも分かる」
「そうでしょう?」
よし。
良い流れ。
「それに、聖女候補としても、きっと大きな可能性をお持ちです。まだ王宮には慣れていらっしゃらないようですが、そこがまた初々しくて」
「ミリア」
「はい」
「君は本当に、セシリア嬢を気に入っているんだね」
「もちろんですわ」
即答した。
殿下がまた笑う。
「その顔、私に褒められた時より嬉しそうだ」
「え」
「昔の君なら、私が他の令嬢を褒めると少し不機嫌になった」
「……」
「でも今は、私がセシリア嬢を褒めると、君が喜ぶ」
言われて、わたくしは返事に困った。
そうだ。
以前のミリアなら、殿下が他の令嬢を褒めるなど許せなかったはずだ。
今のわたくしは、むしろもっと褒めてほしいと思っている。
ヒロイン様を見てください。
興味を持ってください。
その方向でお願いします。
しかし、殿下から見れば、それは不自然な変化なのだろう。
「殿下。わたくしは、セシリア様のような方が王宮で傷つくのは嫌なのです」
「うん」
「それに、殿下には、さまざまな方とお話ししていただきたいのです。わたくしだけでなく、セシリア様や、他の方々とも」
「ダリオとも?」
来た。
その名前が殿下の口から出た瞬間、内心で小さく拍手した。
そうです。
そこです。
そちらです、殿下。
わたくしは少し身を乗り出しそうになるのを堪えながら、できるだけ自然に頷いた。
「もちろんですわ。グランツ卿は殿下にとって、とても大切な方でしょう?」
「大切だよ」
ユリウス殿下は、迷いなく言った。
早い。
迷いがない。
非常に良い。
わたくしの心の中で鐘が鳴った。
「ダリオは、子どもの頃から私を知っている。王太子としてではなく、私が失敗するところも、弱音を吐くところも、全部」
「まあ」
「君に言うと幻滅されそうだから言わなかったけれど、私は昔、剣の稽古が嫌で庭の茂みに隠れたことがある」
「殿下が?」
「うん。ダリオに見つかって、無言で木剣を渡された」
「グランツ卿らしいですわ」
「彼は昔から容赦がない」
「でも、逃げた殿下をちゃんと見つけてくださったのでしょう?」
わたくしが言うと、殿下は少し意外そうな顔をした。
「……そうだね」
「それは、とても大切なことだと思いますわ」
言いながら、胸の奥が少し温かくなった。
子どもの頃の殿下。
茂みに隠れる殿下。
それを見つけて、無言で木剣を渡すダリオ様。
何それ。
幼少期エピソード。
供給が強い。
公式未公開回想では?
わたくしは、気を抜くと顔が緩みそうだった。
だがここで崩れてはいけない。
今のわたくしは、王太子殿下の心を自然にダリオ様へ向ける重要任務中である。
「殿下。グランツ卿のように、殿下が逃げた時にも見つけてくださる方は、貴重ですわ」
「ミリア」
「はい」
「君は、私にダリオの大切さを説いているの?」
「説くなど恐れ多い。ただ、殿下にはもう少し、グランツ卿を頼っていただいてもよろしいのではと思っただけです」
「私はかなり頼っているつもりだけど」
「もっとです」
「もっと?」
「ええ。たとえば、今夜のような舞踏会でも、殿下がお疲れになった時はグランツ卿と少し外の空気を吸われるとか」
よし。
バルコニー誘導、再挑戦。
殿下の目が少し細くなった。
「それは、君ではなくダリオと?」
「はい」
「なぜ?」
なぜ。
そこを聞かれると困る。
だが、ここまで来たら押すしかない。
「グランツ卿は、殿下が気を張らずにいられる方でしょう。わたくしでは、どうしても婚約者としての立場があります。殿下も気を遣われるでしょうし、わたくしも……その、必要以上に整えてしまいます」
「整える?」
「表情や言葉を」
殿下は少し黙った。
その沈黙が、さっきまでより重かった。
しまった。
これは、少し本音を出しすぎたかもしれない。
ユリウス殿下は、静かに言った。
「私の前では、君は整えているんだね」
「……はい」
嘘はつけなかった。
「昔から?」
「たぶん」
「そうか」
殿下は、少しだけ視線を落とした。
その顔に、胸が痛んだ。
わたくしは何をしているのだろう。
殿下とダリオ様の関係を尊いと思う。
それは本当だ。
けれど、そのために殿下の心を雑に動かそうとしているのなら、それは本当に正しいのだろうか。
殿下は推しであり、ゲームの登場人物であり、王太子であり、婚約者であり。
そして、今ここで少し傷ついた顔をする一人の人間でもある。
面倒くさい。
人間関係は、本当に面倒くさい。
でも、だからこそ目を逸らしてはいけないのかもしれない。
「殿下」
わたくしは、小さく声を出した。
「ご不快にさせたなら、申し訳ございません」
「いや」
殿下は首を振った。
「不快ではないよ。ただ、少し悔しいと思った」
「悔しい?」
「君が私の前で整えていたことに、私は気づかなかった」
声が、少し苦い。
「婚約者なのにね」
「殿下……」
「私は、君が私のために完璧でいようとしてくれることに慣れていた。いや、甘えていたのかもしれない」
意外だった。
ユリウス殿下が、そんなふうに言うとは思わなかった。
原作の殿下は、ヒロインに優しく、悪役令嬢ミリアには失望し、最後は断罪する存在だった。
けれど今、目の前の殿下は違う。
自分が何かを見落としていたかもしれないと、ちゃんと考えている。
だから、わたくしはますます困ってしまう。
この人を、ただの攻略対象として扱えなくなる。
「でも」
殿下は顔を上げた。
そして、少しだけ笑った。
「今の君は、整っていない」
「殿下、それは褒め言葉でしょうか」
「褒めているよ」
「なかなか斬新な褒め方ですわ」
「さっき、レオンハルト公にも似たようなことを言われていなかった?」
「殿下は本当に、公爵様のお話へ戻されますわね」
「気になるから」
まただ。
その言い方。
わたくしは思わず扇を握りしめた。
「殿下。公爵様はわたくしを怪しんでいるだけです」
「そうかな」
「そうです」
「レオンハルト公は、怪しいだけの相手にあんな顔はしないよ」
「どんな顔ですか」
「少し、楽しそうな顔」
わたくしは黙った。
レオンハルト公爵が楽しそう?
あの冷血公爵が?
そんなはずは。
……いや、ほんの少し笑った。
確かに笑った。
作った笑みより今の顔の方がいい、とも言われた。
思い出した瞬間、頬が熱くなりかける。
いけない。
非常にいけない。
わたくしは話題を変えようとした。
「殿下。公爵様より、グランツ卿のお話を」
「ミリア」
「はい」
「君は本当に、私とダリオを近づけたがるね」
刺された。
真正面から。
ユリウス殿下の声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。
「なぜ?」
なぜ。
それは、あなた方が尊いからです。
とは言えない。
王太子殿下と騎士団長様の信頼関係に、前世で救われたから。
二人が並ぶだけで寿命が延びるから。
どうかその関係を大切にしてほしいから。
とも言えない。
でも、何か言わなければならない。
わたくしは少し考え、ゆっくり口を開いた。
「殿下には、殿下の弱さを知っても離れない方が必要だと思うからです」
ユリウス殿下の表情が変わった。
「弱さ」
「はい。王太子としてではなく、ただのユリウス様として息ができる相手が」
言ってから、自分の胸にも刺さった。
ただのユリウス様。
殿下を、そう見たことがあっただろうか。
わたくしはずっと、王太子ユリウスとして見ていた。
前世の推しとして。
原作の攻略対象として。
悪役令嬢ミリアの婚約者として。
でも、彼にもきっと、隠れて木剣を嫌がる子どもだった頃がある。
緊張して国名を間違える日がある。
誰かに完璧を求められ続ける疲れがある。
「グランツ卿は、殿下のそういうところを知っていらっしゃるのでしょう」
「知っているだろうね」
「でしたら、大切になさってくださいませ」
「もちろん、大切にしているよ」
「もっとです」
「また、もっと?」
「はい。もっとです」
ユリウス殿下は、しばらくわたくしを見つめた。
それから、困ったように笑った。
「君にここまでダリオを勧められると、少し複雑だな」
「複雑?」
「君は私の婚約者なのに、私を自分から遠ざけようとしているように見える」
「それは」
「そして、その理由がダリオなら、私は少し嫉妬してもいいのかな」
え。
嫉妬。
待ってください。
どっちに?
わたくしに?
ダリオ様に?
いや、文脈的には、わたくしがダリオ様を評価しすぎていることに対しての嫉妬?
だとしたら、違う。
殿下、嫉妬イベントは相手を間違えています。
わたくしに対してではなく、どうかダリオ様への執着、あるいは信頼の深さとして昇華してください。
「殿下」
「うん」
「その感情は、ぜひグランツ卿をさらに大切になさる方向へ」
ユリウス殿下が瞬きをした。
「……ミリア?」
「失礼いたしました」
「君は今、何を言おうとした?」
「殿下とグランツ卿の信頼関係が、今後ますます深まれば素晴らしいと」
「それは王太子として?」
「もちろんです」
「婚約者としては?」
「……」
答えに詰まった。
そこを聞かれると困る。
ユリウス殿下は少し寂しそうに笑った。
「君は本当に、私の婚約者という場所から降りようとしているんだね」
「殿下」
「怒っているわけじゃない。ただ、まだ慣れない」
その言葉には、作った王子様らしさがなかった。
素直な困惑だった。
わたくしの胸が、きゅっと痛む。
わたくしは破滅回避のため、ヒロイン様と推しカプのため、自分が傷つかないために壁になろうとしている。
でも、その過程で殿下を傷つけているなら。
それは、わたくしが一番なりたくなかった「誰かの大切なものを踏みにじる側」に近づいているのではないか。
「申し訳ございません」
自然に、口から出た。
ユリウス殿下が目を瞬く。
「ミリアが謝るのは珍しいね」
「失礼なことをしておりますので」
「うん。少しだけ」
「少しだけですか」
「かなり、でもいいけれど」
「少しだけでお願いいたします」
殿下が小さく笑った。
その笑みに救われる。
わたくしは、少しだけ息を吐いた。
「殿下。わたくしは、まだ自分でも何が正しいのか分かっておりません」
「うん」
「ただ、以前のように殿下の隣に立ち続けることが正しいとは、どうしても思えないのです」
「それは、セシリア嬢のため?」
「それもあります」
「ダリオのため?」
「それもあります」
「レオンハルト公のため?」
「なぜそこで公爵様が出るのですか」
「気になるから」
殿下の声が、ほんの少しだけ意地悪くなる。
困る。
この王太子殿下、爽やかに話を聞かないだけでなく、たまに意地悪だ。
「公爵様は関係ございません」
「本当に?」
「本当に」
「では、なぜそんなに慌てるんだい?」
「慌てておりません」
「扇が逆さまだよ」
見下ろす。
逆さまだった。
終わった。
わたくしは黙って扇を持ち直した。
ユリウス殿下は、とうとう楽しそうに笑った。
「ミリア」
「何でしょう」
「今の君は、前よりずっと面白い」
「褒め言葉でしょうか」
「褒めている」
「殿下の褒め言葉は、たまに公爵様並みに斬新ですわ」
「レオンハルト公と並べられるのは複雑だな」
「殿下」
「冗談だよ」
冗談。
けれど、少しだけ本音も混じっている気がした。
わたくしは困った。
殿下との距離を置きたいのに、こうして話すほど、彼が人間として近づいてくる。
王太子という記号ではなく、ユリウスという一人の人として。
それは、わたくしの計画にはなかった。
計画にないものばかり増えていく。
その時、離れていたダリオ様がこちらへ戻ってきた。
「殿下。陛下の側近が、再度お呼びです」
「また?」
「今度は本当にお急ぎのようです」
「父上は、私に舞踏会を楽しませる気がないらしい」
「日頃の行いかと」
「ひどいな」
「事実です」
良い。
非常に良い。
自然な会話。
だが今は、それを味わう余裕が少ししかない。
ユリウス殿下は、わたくしへ向き直った。
「ミリア。話の続きは、また」
「はい」
「逃げないでくれるかな」
心臓が跳ねた。
殿下の声は穏やかだった。
でも、その言葉は思ったより重かった。
逃げないで。
わたくしは、逃げているのだろうか。
王太子妃の立場から。
悪役令嬢の運命から。
自分の幸せから。
そして、誰かと本気で向き合うことから。
答えは出ない。
けれど、わたくしは微笑んだ。
「善処いたします」
「それは逃げる人の返事だ」
「では、努力いたします」
「少しだけ信じるよ」
殿下はそう言って、ダリオ様と共に広間の奥へ向かった。
二人の背中が並ぶ。
いつも通り、半歩の距離。
わたくしは、その背中を見送る。
尊い。
確かに尊い。
けれど、さっきまでより少しだけ、胸の奥が複雑だった。
ただ眺めているだけでは済まないところへ、自分が踏み込んでしまった気がする。
「お嬢様」
リタが戻ってきた。
「先ほどの会話、ずいぶん長かったですね」
「ええ」
「殿下は、お嬢様を気にしておられます」
「……そう見える?」
「はい」
「困ったわ」
「困った顔にしては、少し寂しそうです」
「リタ」
「はい」
「今日は観察禁止よ」
「それは無理でございます」
「なぜ」
「侍女ですので」
いつもの返し。
わたくしは少し笑った。
その時、背後から低い声が落ちてきた。
「殿下と何を話していた」
レオンハルト公爵。
だから、気配。
気配を出してください。
わたくしは振り向き、扇を正しい向きで持ち直した。
「公爵様。突然背後から現れるのは、やはり寿命に悪いです」
「君はしぶといから問題ない」
「その評価、定着させるおつもりですか」
「今のところは」
レオンハルト公爵は、殿下が去った方を見た。
「殿下は、君をずいぶん気にしている」
「公爵様まで」
「事実だ」
「皆様、事実で人を刺しすぎですわ」
「君は刺されても喋る」
「しぶといので?」
「そうだ」
なんとなく会話の調子が戻ってしまう。
わたくしは疲れたように息を吐いた。
「殿下とは、今後の距離について少し」
「距離」
「はい」
「君は本当に、距離の話ばかりだな。殿下との距離、騎士団長との距離、聖女候補との距離、私との距離」
「距離感は大切ですわ」
「その割に、君自身の立ち位置は曖昧だ」
また刺す。
この方は、本当に。
わたくしは苦笑した。
「壁ですから」
「壁なら動くな」
「動かざるを得ない壁もあるのです」
「それはもう壁ではない」
「リタにも同じことを言われました」
「侍女は正しい」
「本日二度目ですわ、それ」
レオンハルト公爵は、わたくしを見た。
冷たいのに、妙に逃げ場のない目。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「殿下から逃げるのは勝手だ」
「逃げているわけでは」
「だが、逃げる先を間違えるな」
わたくしは言葉に詰まった。
逃げる先。
壁。
推し活。
誰かの幸せ。
自分の後回し。
全部、逃げ先なのだろうか。
「公爵様は、厳しいですわね」
「君は甘やかすと逃げる」
「わたくしのことを何だと」
「逃げ足の速い壁志望令嬢」
「肩書きが長いです」
「君には合っている」
「不名誉ですわ」
「では、名誉ある肩書きが欲しければ、自分で決めろ」
「何をですか」
「自分がどこに立つかを」
そう言って、レオンハルト公爵はふいと視線を外した。
広間では、次の曲が始まろうとしている。
わたくしは黙って、その音を聞いた。
自分がどこに立つか。
殿下の隣か。
壁の陰か。
ヒロイン様のそばか。
推しカプの外側か。
それとも。
まだ名前のない、別の場所か。
わたくしは答えを出せないまま、扇を握りしめた。
その時、リタが小さく言った。
「お嬢様」
「何?」
「また難しい顔です」
「今度は仕方ないわ」
「そうですね」
珍しく、リタがすぐには刺してこなかった。
わたくしは少し驚いて彼女を見る。
リタは、いつもの無表情のまま言った。
「難しいことから逃げると、だいたい後でもっと面倒になります」
「実感がこもっているわね」
「お嬢様のお世話で学びました」
「結局刺すのね」
「侍女ですので」
わたくしは、少しだけ笑った。
舞踏会はまだ終わらない。
物語も、当然終わらない。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
王太子殿下は、わたくしをまだ婚約者として見ている。
それどころか、以前より今のわたくしに興味を持っている。
そしてわたくしは、その興味をダリオ様方面へ流そうとして、見事に失敗した。
失敗どころか、殿下の視線はさらにこちらへ向いた気がする。
……どうしてですの。
わたくしは心の中で、今日何度目か分からない悲鳴を上げた。
王太子殿下。
嫉妬イベントは、相手を間違えています。




