第10話 推しに心配される悪役令嬢
王太子殿下から「逃げないでくれるかな」と言われた。
その一言が、舞踏会の音楽よりも、シャンデリアのきらめきよりも、ずっと頭の中に残っている。
逃げる。
わたくしは、逃げているのだろうか。
王太子妃になる未来から。
悪役令嬢として断罪される未来から。
ヒロイン様を傷つける自分から。
そして、誰かの人生に深く関わることから。
考えれば考えるほど、胸の奥がむずむずする。
こういう時、前世なら布団に潜り込んでスマホを開き、推しカプ考察を読んで現実から離れていた。
しかし今のわたくしは王宮舞踏会のど真ん中にいる。
逃げ込める布団もなければ、スマホもない。
ついでに、目の前には生きている推しがいる。
現実逃避先が現実にいる。
逃げ場がないにもほどがある。
「お嬢様」
リタが、いつものように背後から声をかけてきた。
「また考え込んでおられます」
「今夜は考えることが多いの」
「それは否定いたしません」
「珍しく優しいわね」
「お嬢様が本当に混乱しておられる時は、あまり刺しすぎると倒れますので」
「普段は倒れない程度に刺していたの?」
「加減はしております」
「ありがとうと言うべきかしら」
「どういたしまして」
「まだ言っていないわ」
リタは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その小さな変化に、わたくしは少し救われる。
リタは厳しい。
容赦がない。
わたくしの奇行に対して、一切甘い評価をしない。
けれど、それは彼女がずっとそばにいてくれるからだ。
ミリアが王太子妃になるために必死だった頃も。
今のわたくしが壁になりたいなどと意味不明なことを言い出してからも。
変わらず隣にいる。
リタもまた、わたくしが雑に扱ってはいけない人だ。
「リタ」
「はい」
「わたくし、少し失礼なことをしているのかもしれないわ」
「今さら、どの件でございましょう」
「多すぎるのね」
「はい」
即答。
少しは否定してほしかった。
わたくしは扇を閉じ、広間の奥を見た。
ユリウス殿下は陛下の側近らしき人物と話している。
セシリア様は神官長への挨拶を終えた後、王宮礼拝堂の関係者に連れられて少し別の場所へ移動している。
レオンハルト公爵は、広間の端で騎士と短く言葉を交わしている。
そして、ダリオ様は。
こちらを見ていた。
いや、正確には、見ていたというより、わたくしへ向かって歩いてきていた。
背筋が伸びる。
心臓が跳ねる。
来る。
推しが。
赤髪の騎士団長が。
しかも、殿下を伴わずに。
単独で。
こちらへ。
何ですの、このイベント。
聞いていません。
前世でそんな差分を見た記憶はない。
いや、悪役令嬢ミリアとダリオ様の直接会話はあった。
だがそれは大抵、ヒロインへの嫌がらせを咎められる場面だったはずだ。
今のわたくしは、ヒロイン様をいじめていない。
むしろ全力で保護した。
では、なぜ来る。
わたくしは急いで表情を整えた。
平常心。
公爵令嬢。
壁。
壁は動揺しない。
「ロゼリア嬢」
ダリオ様が、目の前で足を止めた。
近い。
画面越しではなく、現実の距離。
赤い髪。
真面目な目。
きっちりと整えられた騎士服。
腰の剣。
主を守るために鍛えられた姿勢。
よく考えたら、普通にかなり格好いい。
いや、よく考えなくても格好いい。
だから推しだったのだ。
「グランツ卿」
わたくしは優雅に一礼した。
「先ほどは、セシリア様のご案内ありがとうございました」
「礼を言われることではない。職務の範囲だ」
「職務の中で自然に人を助けられる方は、得がたいものですわ」
言った瞬間、ダリオ様の眉が少し動いた。
しまった。
また褒めすぎたか。
推しを前にすると、語彙の制御が難しい。
ダリオ様は、困ったようにほんの少し視線を逸らした。
「ロゼリア嬢は、時々こちらが返答に困ることを言う」
「申し訳ございません」
「責めているわけではない。ただ……慣れない」
「褒められることに、ですか?」
「貴族令嬢から、あのように正面から言われることには」
「なるほど」
なるほど。
ダリオ様は真面目な人だ。
武勲や職務への評価なら受け取れるのかもしれないが、「殿下を支えているところが素晴らしい」などという内面寄りの褒め方には慣れていないのだろう。
良い。
そこも良い。
褒められ慣れていない忠犬系騎士団長。
強い。
概念が強い。
「お嬢様」
背後からリタの声。
低い。
警告だ。
顔に出ていたらしい。
わたくしは咳払いした。
「失礼いたしました。それで、グランツ卿。わたくしに何かご用でしょうか」
ダリオ様の表情が、少しだけ引き締まった。
来た。
空気が変わる。
先ほどまでの少しぎこちない会話から、騎士団長としての顔へ。
「少し、話をしたい」
今夜は「少し」が多い。
そして、少しで済まない予感しかしない。
「わたくしでよろしければ」
「ここでは、人目が多い」
またですか。
どうして皆、わたくしを広間の端へ連れて行こうとするのか。
壁としては端に行けるのはありがたいが、内容が重いのは困る。
リタがすぐに口を挟んだ。
「騎士団長様。お嬢様とお話しされるのでしたら、私も」
「リタ」
ダリオ様は、リタに視線を向けた。
「君の主人を一人で連れ出すつもりはない。そこから見える場所で構わない」
誠実。
とても誠実。
レオンハルト公爵の時は七歩交渉が発生したが、ダリオ様は最初から配慮してくださる。
良い。
信頼できる。
「リタ、大丈夫よ」
「お嬢様」
「すぐそこですもの」
「……三歩以上離れません」
「リタ?」
「お嬢様は気づけば妙な話を始めますので」
「グランツ卿の前で言わないで」
ダリオ様が少しだけ目を瞬いた。
「妙な話?」
「いえ、何でもございません」
わたくしは即座に否定した。
壁になりたいだの、推しだの、信仰だの。
これ以上、ダリオ様に変な情報を渡してはいけない。
いや、もうだいぶ渡している気もするが。
わたくしはダリオ様に促され、広間の端、少し静かな柱のそばへ移動した。
リタは本当に三歩後ろにいる。
近い。
ありがたいが、近い。
ダリオ様は一度周囲を確認してから、低い声で言った。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「殿下を傷つけないでほしい」
直球だった。
胸に、ずしんと来た。
推しからの言葉である。
しかも、内容が重い。
殿下を傷つけないでほしい。
ああ。
やはり、そう見えているのだ。
わたくしは殿下から距離を置きたいと言った。
婚約者としての立場から下がろうとしている。
セシリア様を紹介し、ダリオ様を殿下のそばへ押し戻そうとしている。
それは、殿下を自由にするため。
破滅を回避するため。
推しの幸せを守るため。
でも、ダリオ様から見れば。
殿下を振り回しているように見えても当然だ。
「……はい」
わたくしは、すぐには言葉を返せなかった。
ダリオ様は続ける。
「殿下は、君の変化を気にしている」
「存じております」
「なら、なぜ避ける」
その声に、責めるような響きが少しだけ混じる。
だが、それはわたくしへの嫌悪ではない。
殿下を心配しているのだ。
殿下が傷つくかもしれないから、わたくしに聞きに来た。
その事実が、苦しいほど尊かった。
同時に、苦しいほど痛かった。
「避けたいから、避けているわけではございません」
「では、なぜ」
「殿下のためです」
ダリオ様の目が、少し厳しくなる。
「殿下のためという言葉は、使い方を誤れば自己満足になる」
刺さった。
本当に、この世界の人々はどうしてこうも正論で刺してくるのか。
レオンハルト公爵だけではない。
ダリオ様まで、まっすぐ核心を突いてくる。
推しの言葉は威力が高い。
わたくしは扇を握りしめた。
「……おっしゃる通りですわ」
ダリオ様が、少しだけ驚いた顔をした。
反論されると思っていたのかもしれない。
わたくしは苦笑した。
「わたくし自身、自分の行動が本当に正しいのか、分からなくなることがあります」
「分からないまま、殿下から離れようとしているのか」
「はい」
「無責任だ」
「ええ」
認めると、ダリオ様はさらに困ったような顔をした。
「なぜ、そこで怒らない」
「怒れませんもの。正しいことを言われておりますから」
「……」
「ただ、わたくしにも譲れないことがございます」
わたくしは、ゆっくりと言葉を選んだ。
ここで腐女子的本音を言っては駄目だ。
推しカプを守りたいなどと口にすれば、ダリオ様はきっと困る。
いや、困るどころか、かなり真剣に王宮医師を呼ぶかもしれない。
だから、言葉を変える。
けれど、嘘にはしない。
「殿下には、殿下が王太子でなくてもそばにいてくださる方が必要です」
ダリオ様は黙った。
「殿下が完璧でない時も、殿下が逃げた時も、殿下が失敗した時も、それでも見捨てず、ただ隣に立ってくださる方が」
「……それが俺だと?」
「少なくとも、わたくしよりは」
「なぜ、そう思う」
「殿下のお顔が違います」
ダリオ様の眉が寄る。
「顔?」
「はい。殿下はグランツ卿とお話しされる時、少しだけ肩の力が抜けていらっしゃいます」
これは、本当だ。
わたくしの妄想だけではない。
殿下はダリオ様と話す時、王太子らしい完璧な微笑みから、ほんの少しだけ普通の青年の顔になる。
それがとても好きだった。
前世で画面越しに見ていた時も。
今、現実で見ている時も。
「殿下は、わたくしの前ではまだ王太子殿下です。わたくしも、殿下の前では公爵令嬢です。けれど、グランツ卿の前では、もう少しだけ違うお顔をなさる」
「ロゼリア嬢」
「だからこそ、あなたが殿下のおそばにいてください」
言ってしまった。
かなり真剣に。
ダリオ様は、まっすぐわたくしを見た。
その視線は鋭い。
けれど、先ほどより少しだけ戸惑っている。
「君は、本当に妙なことを言う」
「よく言われます」
「殿下の婚約者が、俺に殿下のそばにいろと言うのか」
「はい」
「普通は逆だ。婚約者なら、自分が殿下の隣に立とうとする」
「それは、そうですわね」
「君は、殿下の隣に立ちたくないのか」
来た。
その問い。
ユリウス殿下にも問われ、レオンハルト公爵にも間接的に問われた場所。
わたくしは、少しだけ視線を落とした。
「立ちたくない、というより」
「より?」
「わたくしが立ってよい場所なのか、分からなくなりました」
言葉にすると、胸が少し痛かった。
「以前のわたくしは、殿下の隣に立つことばかり考えていました。けれど、それは殿下を見ていたのではなく、殿下の隣に立つ自分を見ていたのかもしれません」
ダリオ様は黙って聞いている。
リタも、三歩後ろで黙っている。
「それに気づいてしまったら、今まで通りには立てません。殿下を飾りのように扱うのも、殿下の周囲の大切な方々を邪魔するのも、もう嫌なのです」
「大切な方々」
「はい」
「その中に、聖女候補も含まれるのか」
「もちろんです」
「俺も?」
「もちろんです」
即答した。
ダリオ様が、今度こそ明らかに困った顔をした。
「なぜ即答する」
「大切だからです」
「俺が?」
「殿下にとって」
言い方を修正した。
危ない。
危うく、わたくしにとって、と言いそうになった。
いや、わたくしにとっても推しとして大切だが、それは別問題である。
ダリオ様は、少しだけ息を吐いた。
「君の言葉は、時々分かりにくい」
「申し訳ございません」
「だが、悪意はないように聞こえる」
その言葉に、胸が熱くなった。
まただ。
推しから悪意がないと言われる。
この破壊力。
しかも、彼は簡単に人を信じるタイプではない。
殿下を守るために警戒する。
そのダリオ様が、完全ではないにせよ、わたくしの言葉に悪意はないと判断してくれた。
うれしい。
ただの好感度上昇ではなく、信頼の芽。
尊い。
ああ、今すぐこの感情を三千字で記録したい。
「お嬢様」
リタが小声で警告する。
顔に出ていたらしい。
わたくしは急いで表情を整えた。
「光栄ですわ」
「……なぜ、そこでそこまで嬉しそうな顔をする」
「信頼されることは嬉しいものです」
「まだ信頼したとは言っていない」
「では、信頼の前段階ということで」
「勝手に進めるな」
ダリオ様の声は少し厳しいが、先ほどより硬さが薄れている。
よし。
会話としては悪くない。
少なくとも、敵対はしていない。
しかし、問題はここからだ。
わたくしはダリオ様に、もっと殿下を支えてほしい。
それを本人に伝えなければならない。
けれど、言い方を間違えると、完全に妙な令嬢になる。
いや、もうなっているが。
「グランツ卿」
「何だ」
「殿下を、どうかお支えください」
「それは言われるまでもない」
「存じております。それでも、申し上げたいのです」
「なぜ」
「わたくしが、殿下の隣から下がるかもしれないからです」
ダリオ様の目が鋭くなった。
「婚約を解消するつもりか」
直球。
わたくしは答えに詰まった。
解消したい。
破滅回避のためには、それが最善だと思っている。
だが、まだ殿下には正式に告げられていない。
いや、距離を置きたいとは言った。
けれど、婚約解消までは踏み込んでいない。
「……いずれ、話し合う必要があるとは思っています」
「殿下は傷つく」
「はい」
「分かっているのか」
「はい」
「なら、なぜ」
ダリオ様の声が少し荒くなった。
怒っている。
殿下のために。
その怒りが、胸に刺さる。
「殿下は君を気にしている。以前の君に戻ってほしいと思っているわけではない。今の君を知りたいと思っている」
「……存じております」
「君は、それを分かっていて退こうとしている」
「はい」
「残酷だ」
その一言は、強かった。
わたくしは、息を呑んだ。
残酷。
そうかもしれない。
わたくしは殿下のためだと言いながら、結局自分が楽な方へ逃げようとしているのかもしれない。
王太子妃になる覚悟がない。
悪役令嬢として断罪されたくない。
ヒロイン様を傷つけたくない。
推しカプを壊したくない。
全部本当。
でも、それで殿下を傷つけるなら。
やはり残酷なのだろう。
「……そうですわね」
わたくしは小さく言った。
ダリオ様が少しだけ目を見開く。
また反論されると思っていたのだろう。
「わたくしは残酷なことをしようとしているのだと思います」
「ロゼリア嬢」
「でも、今まで通りに殿下の隣に立ち続けることも、別の意味で残酷だと思うのです」
わたくしは、ゆっくり顔を上げた。
「殿下の隣に立つ者は、殿下を王太子としてだけではなく、一人の人として見なければならない。殿下の重荷も、弱さも、逃げたい気持ちも、受け止める覚悟がなければならない」
「……」
「今のわたくしには、それが足りません」
言っていて、少し泣きそうになった。
なぜだろう。
これはミリアの感情なのか、前世のわたくしの感情なのか、もう分からない。
わたくしは、誰かの隣に立つことが怖い。
期待されることが怖い。
選ばれたあと、失望されることが怖い。
壁でいれば、失望されない。
最初から誰の隣にも立たなければ、落ちることもない。
「だから、逃げているのかもしれません」
小さく言う。
ダリオ様は、しばらく黙っていた。
広間の音楽が遠く聞こえる。
リタも何も言わない。
やがて、ダリオ様が静かに口を開いた。
「殿下は、完璧な者にそばにいてほしいと思っているわけではない」
わたくしは顔を上げた。
「殿下は、完璧なふりをされることに慣れている。王宮では皆そうだ。俺も含めて、多かれ少なかれ殿下の前では役目を背負う」
「グランツ卿も?」
「当然だ。俺は騎士団長だ。殿下の友である前に、殿下を守る者だ」
ダリオ様は、少しだけ目を伏せた。
「だが、それでも殿下は、作ったものではない言葉を欲しがる時がある」
その声は、先ほどより少し柔らかかった。
「今日の君の言葉は、奇妙だ。分かりにくい。危なっかしい。だが、作ったものには見えない」
わたくしは、何も言えなかった。
「だから殿下は、君を気にしているのだと思う」
「……わたくしは」
「君が殿下の隣に立つべきかどうかは、俺が決めることではない。君と殿下が決めることだ」
ダリオ様は、まっすぐこちらを見た。
「だが、退くなら退くで、殿下を雑に扱うな。殿下は王太子だが、人間だ」
胸が痛い。
けれど、その言葉は正しい。
わたくしは深く頷いた。
「肝に銘じます」
「本当に分かっているのか?」
「はい。わたくし、軽率な言葉は多いですが、人を傷つけることを軽く見たいわけではありません」
「それは、少し分かる」
「少し」
「少しだ」
「ありがとうございます。少しでも光栄です」
「……また嬉しそうな顔をする」
「申し訳ございません」
ダリオ様は、困ったように息を吐いた。
その表情が、ほんの少し柔らかい。
推しの表情差分が多すぎる。
今夜、供給過多で倒れそうだ。
だが、ここで倒れたら本当に迷惑なので耐える。
「グランツ卿」
「何だ」
「一つだけ、わたくしからもお願いしてよろしいでしょうか」
「内容による」
レオンハルト公爵と同じ返答。
少し笑いそうになる。
わたくしは、真剣に言った。
「殿下が逃げたくなった時、見つけて差し上げてください」
ダリオ様が、目を瞬いた。
「以前、殿下が剣の稽古から逃げて茂みに隠れた時のように」
「殿下が話したのか」
「はい」
ダリオ様は、少し頭を抱えたくなるような顔をした。
「殿下は、なぜそういう話を」
「わたくしは素敵なお話だと思いました」
「どこがだ」
「逃げた殿下を、あなたがちゃんと見つけたところです」
わたくしは微笑んだ。
「人は時々、逃げると思います。逃げたくなくても逃げます。逃げてはいけないと分かっていても、足が勝手に安全そうな場所へ向かうことがあります」
自分で言いながら、自分のことだと思った。
「そんな時、見つけてくれる人がいるのは、とても幸せなことですわ」
ダリオ様は、黙っていた。
視線が少しだけ遠くなる。
きっと、幼い殿下を思い出しているのだろう。
茂みに隠れた王太子。
木剣を持って探しに行った幼い騎士。
ああ。
その回想、ください。
いえ、今は黙ります。
ダリオ様は、やがて短く言った。
「言われなくても、俺は殿下を支える」
来た。
わたくしの心臓が跳ねた。
「それは俺が選んだことだ」
言葉が、まっすぐだった。
飾り気がない。
迷いもない。
忠義だけでもなく、義務だけでもない。
自分で選んだという重みがある。
ああ。
これは駄目。
尊い。
目の前でこんなことを言われて、平気でいられる人間がいるだろうか。
いや、いない。
少なくともわたくしには無理。
わたくしは扇で口元を隠した。
「ロゼリア嬢?」
「……ありがとうございます」
「なぜ礼を言う」
「今のお言葉で、寿命が延びました」
「寿命?」
「いえ、こちらの話です」
「君は本当に、よく分からない」
「よく言われます」
ダリオ様は困惑している。
リタは三歩後ろで、完全に遠い目をしている。
しかし、わたくしの胸は温かかった。
ダリオ様は殿下を支える。
それは彼が選んだこと。
その言葉を聞けただけで、今夜の舞踏会に来た価値がある。
わたくしは、少しだけ安心した。
殿下は一人ではない。
それは、原作を知っているからではなく、今この世界で、ダリオ様本人の口から聞いた事実だ。
「グランツ卿」
「何だ」
「わたくしも、殿下を雑に扱わないとお約束します」
「ああ」
「そして、セシリア様を傷つけることもしません」
「それは見ていれば分かる」
「本当ですか?」
「少なくとも今夜は、君が庇っていた」
それだけで、十分だった。
わたくしは深く一礼した。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「それでも、ありがとうございます」
ダリオ様は、少しだけ困ったように頷いた。
その時、広間の方からユリウス殿下の声が聞こえた。
「ダリオ」
殿下がこちらへ歩いてくる。
レオンハルト公爵も、少し離れた場所からこちらを見ている。
見ている。
また見ている。
あの方、どれだけ観察力が高いのか。
ユリウス殿下は、わたくしとダリオ様の間の空気を見て、少し目を細めた。
「二人で何を話していたのかな」
その声は穏やかだった。
だが、どこか気にしている響きがある。
違う。
殿下。
またです。
嫉妬イベントの方向が、また変なことになっています。
ダリオ様が真面目に答える。
「殿下のことです」
直球。
ユリウス殿下が少し驚く。
「私の?」
「はい」
「ミリアと?」
「はい」
殿下が、わたくしを見る。
「君は本当に、私とダリオの話が好きだね」
好きです。
大好きです。
とは言えない。
わたくしは微笑んだ。
「殿下の周囲の方々は、殿下にとって大切ですから」
「また、そうやって綺麗にまとめる」
「綺麗でしたか?」
「綺麗すぎるかな」
殿下はそう言って、少しだけ笑った。
その笑みは、先ほどより寂しくなかった。
良かった。
少なくとも、少しは伝わったのかもしれない。
わたくしが殿下を傷つけたいわけではないこと。
ダリオ様が殿下を本気で支えていること。
そして、わたくしがまだ答えを探していること。
レオンハルト公爵が近づいてきた。
「話は済んだのか」
「ええ、公爵様」
「妙なことは言ったか」
「公爵様、第一声がそれですか」
「確認だ」
「……多少は」
「自覚があるならいい」
「いいのでしょうか」
リタが小さく言う。
「よくはございません」
「リタ」
「はい」
「味方して」
「内容によります」
今夜、わたくしの周囲には内容による人が多すぎる。
ユリウス殿下が笑い、ダリオ様が少しだけ目を伏せ、レオンハルト公爵は相変わらず読めない顔をしている。
けれど、その場の空気は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
悪役令嬢が、推しに心配された。
しかも、かなり真剣に。
その事実は、胸に痛くて、重くて、でも少し嬉しかった。
わたくしはまだ壁にはなれていない。
むしろ、また一歩遠ざかった気がする。
それでも。
殿下を雑に扱わない。
セシリア様を傷つけない。
ダリオ様の選んだ支え方を尊重する。
そのくらいは、今のわたくしにもできるはずだ。
わたくしは、そっと息を吸った。
その時、レオンハルト公爵が低く呟いた。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「君は、放っておくと本当に人のために動くな」
「褒めていらっしゃいます?」
「危なっかしいと言っている」
「やはり褒めていませんわね」
「褒める要素も多少はある」
「多少」
「今夜の君は、少なくとも悪役には見えない」
心臓が、変な音を立てた。
悪役には見えない。
その言葉は、わたくしの中に深く落ちた。
悪役令嬢ミリア。
断罪されるはずの女。
ヒロインをいじめ、婚約破棄されるはずの存在。
そのわたくしが、冷血公爵に悪役ではないと言われた。
それは、なぜかとても。
とても、嬉しかった。
「……ありがとうございます」
「なぜ礼を言う」
「今のは、少しだけ救われましたので」
レオンハルト公爵は、何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
その横顔に、わたくしはまた余計なことを考えそうになる。
駄目。
冷血公爵の横顔を考察しない。
今夜の供給はもう十分だ。
わたくしは扇で顔を隠しながら、心の中でそっと呟いた。
推しに心配される悪役令嬢。
そんな称号は、まったく望んでいなかった。
けれど。
悪くない、と思ってしまった自分がいることだけは、少しだけ認めざるを得なかった。




