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推しカプを見守るため悪役令嬢に転生しましたが、なぜか冷血公爵の本命になりました 〜私は壁になりたいのに、攻略対象たちが全員こちらを見てくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第11話 冷血公爵様は誤解しない、でも理解もしない

 推し本人から「殿下を傷つけないでほしい」と頼まれた。


 その出来事は、わたくしの胸に思っていた以上に深く残った。


 ダリオ様は怒っていた。

 けれど、わたくしを嫌っているわけではなかった。


 ただ、殿下を案じていた。


 それだけだ。


 主を案じる騎士。

 殿下の弱さも、逃げた過去も知っていて、それでも支えると自分で選んだ人。


 ああ。


 やはり尊い。


 ……などと内心で床を転げ回りたい気持ちはある。


 あるけれど、同時に痛い。


 わたくしの行動は、殿下を傷つけるかもしれない。


 セシリア様を守ること。

 殿下とダリオ様の関係を邪魔しないこと。

 悪役令嬢ルートを回避すること。


 それらは全部大切だ。


 けれど、「殿下を雑に扱わない」ことも同じくらい大切なのだと、ダリオ様に真正面から突きつけられた。


 推しに心配されるのは嬉しい。


 けれど、推しに叱られるのは胸に来る。


 前世で推しの真面目な台詞に救われた夜のことを思い出した。画面の向こうからの言葉なら、泣いて済んだ。

 でも今は違う。


 言葉を向けられた相手は、わたくし自身だ。


 逃げられない。


「お嬢様」


 リタが横から静かに言った。


「また難しいお顔です」


「今日は難しいことばかりなの」


「その割には、時折とても幸せそうなお顔も混ざります」


「それは……供給が」


「お嬢様」


「いえ、何でもないわ」


「もう何となく意味は察しております」


「察しないで」


「無理でございます」


 リタは淡々と言った。


 わたくしは扇で口元を隠す。


 もう、リタにはかなり怪しまれている。

 いや、怪しまれているどころか、半分くらい理解され始めている気がする。


 それはそれで危険だ。


 もしリタが「お嬢様は殿下と騎士団長様の関係性を妙に神聖視している」と正確に言語化してしまったら、わたくしはたぶんその場で消える。

 物理的にではなく、精神的に。


 わたくしは広間を見渡した。


 ユリウス殿下は陛下の側近たちと話している。

 ダリオ様はその少し後ろで、変わらず殿下の半歩後ろに立っている。

 セシリア様は礼拝堂関係者との挨拶を終え、今は別の聖職者らしき女性に何か説明を受けている。


 ひとまず、皆それぞれの場所にいる。


 良かった。


 このままなら、わたくしも少し休める。


 そう思った時だった。


「ロゼリア嬢」


 低い声が、背後から落ちてきた。


 もう驚かない。


 ……と言いたいところだが、普通に肩が跳ねた。


 レオンハルト公爵である。


 黒い礼服。

 冷えた青灰色の瞳。

 気配を殺すのが上手すぎる男。


 心臓に悪い。


「公爵様」


 わたくしは、できるだけ優雅に振り返った。


「何度も申し上げますが、背後から突然お声がけされると寿命が縮みます」


「先ほども言ったが、君はしぶとそうだから問題ない」


「寿命を見た目で判断なさらないでくださいませ」


「見た目ではない。言動だ」


「もっと悪いですわ」


 レオンハルト公爵は、わずかに目を細めた。


 笑ったわけではない。

 でも、少しだけ面白がっている気がする。


 この微細な変化を拾ってしまう自分が嫌だ。


 前世のオタク部分が「無表情キャラの差分だ」と騒ぎ始める。

 静まってほしい。

 今は現実である。


 リタがすっと前に出た。


「ヴァイスベルク公爵様。お嬢様に何か御用でしょうか」


「ある」


「内容を伺っても?」


「君の主人の目的について」


「またでございますか」


 リタが、心底うんざりしたように言った。


 公爵相手にこの温度。

 強い。


 レオンハルト公爵は無表情でリタを見る。


「侍女としては、主が何を考えているか知っているのか」


「いいえ」


「知らないのか」


「存じ上げません。お嬢様は最近、壁になりたい、祈りである、配置が違う、などと仰いますので」


「リタ」


 全部言った。


 なぜ全部言ったの。


 レオンハルト公爵の視線がこちらに戻る。


「……なるほど」


「公爵様、その『なるほど』はおやめくださいませ」


「情報が増えた」


「増やさなくてよろしい情報です」


「判断材料になる」


「何の判断ですの」


「君がただ妙なのか、それとも危険なのか」


「ただ妙、という選択肢も十分失礼ですわ」


「危険よりはいいだろう」


「そうですが」


 反論しきれない。


 レオンハルト公爵は広間の端、先ほどとは別の柱廊へ視線を向けた。


「少し話すぞ」


「またですか」


「不満か」


「かなり」


「正直だな」


「取り繕う体力がもう」


「少なくなっている、だったか」


「覚えないでくださいませ」


「印象的だった」


 困る。


 そういう言い方は困る。


 わたくしは扇を握り直した。


 リタがすかさず言う。


「私も同行いたします」


「七歩か?」


「三歩で」


「五歩」


「四歩」


「……四歩でいい」


 レオンハルト公爵が折れた。


 リタ、強い。


 この侍女、将来外交官になれるのではないか。


 わたくしたちは、広間から少し外れた柱廊へ移動した。


 完全な密室ではない。

 しかし会話は周囲に届かない。


 今夜、この手の場所に来るのは何度目だろう。

 王宮舞踏会とは、人を踊らせる場ではなく、人を問い詰める場だったのだろうか。


 わたくしは少し疲れていた。


 レオンハルト公爵は、そんなわたくしの顔を見て言った。


「疲れているな」


「分かりますか」


「分かる」


「公爵様は人の疲労まで読まれるのですね」


「君は特に分かりやすい」


「またそれですわ」


「事実だ」


 もう何度目か分からない「事実」。


 今日だけで、わたくしは事実に何度刺されたのだろう。


 レオンハルト公爵は、柱に軽く背を向ける位置に立った。

 わたくしの逃げ道を塞ぐほどではない。

 けれど、視線はまっすぐこちらに向けている。


「さて」


「はい」


「確認する」


 来た。


 取り調べ開始である。


「君はグランツ騎士団長に恋をしているのか」


 直球。


 あまりにも直球。


 わたくしは一瞬、呼吸を忘れた。


 四歩後ろのリタが、微かに息を止める気配がした。


「……はい?」


「聞こえなかったか」


「聞こえましたけれど、内容の衝撃で一度処理を拒否しました」


「ではもう一度言う。君はグランツ卿に恋をしているのか」


「しておりません」


 即答した。


 これは本当に違う。


 ダリオ様は推しである。

 尊い。

 格好いい。

 殿下を支える姿は国宝級。

 けれど恋ではない。


 恋ではない。


 そういう次元ではない。


 レオンハルト公爵は、わたくしの顔をじっと見た。


「即答か」


「はい」


「では、王太子殿下に未練があるのか」


「それもございません」


「これも即答」


「はい」


「殿下の婚約者でありながら?」


「はい」


 レオンハルト公爵の目が細くなる。


 疑っているというより、整理している目だ。


「では、セシリア・フローラを利用して殿下との婚約を崩そうとしているのか」


「違います」


 今度は、少し強い声が出た。


 自分でも驚いた。


 レオンハルト公爵の目が、わずかに変わる。


 わたくしは、扇を握る指に力を入れた。


「セシリア様を利用するつもりはありません。彼女は、慣れない場所で必死に立っているだけです。わたくしの都合で傷つけたり、道具のように扱ったりするつもりはございません」


「そうか」


「そこは、疑われると少し腹が立ちます」


 言った。


 公爵相手に、かなりはっきり言った。


 リタが後ろで小さく咳払いをする。


 だが、レオンハルト公爵は怒らなかった。


 むしろ、ほんの少しだけ目を伏せた。


「今の反応は悪くない」


「試しましたの?」


「確認した」


「同じようなものでは」


「違う。少なくとも、君は聖女候補に対しては本気で怒る」


「当然ですわ」


「なぜ」


「なぜ、と言われましても」


 困る。


 またそこだ。


 セシリア様がヒロインだから。

 前世で彼女の言葉に救われたから。

 いじめるなんて解釈違いだから。


 言えない。


 だから、別の言葉を探す。


「……彼女が笑われているのを、見ていられなかったからです」


「それだけか」


「それだけでは足りませんか?」


「十分だ」


 意外な返事だった。


 わたくしは少し拍子抜けする。


 レオンハルト公爵は続けた。


「理由としては単純だ。だが、単純な理由ほど嘘が混ざりにくい」


「公爵様は、ずいぶん人を疑って生きていらっしゃるのですね」


「仕事柄な」


「お疲れになりませんか?」


「慣れた」


 短い返事。


 けれど、どこか乾いていた。


 わたくしは少しだけ眉を寄せた。


「慣れることと、平気なことは違いますわ」


 言ってから、しまったと思った。


 踏み込みすぎたかもしれない。


 レオンハルト公爵がこちらを見る。


 冷たい目。


 でも、怒ってはいない。


「君に言われるとはな」


「わたくし?」


「自分の幸せは後回しで結構だと言った令嬢が、他人に慣れと平気の違いを説くのか」


 刺さった。


 自分の言葉が返ってくる。


 この公爵、記憶力が良すぎる。


「……それとこれとは」


「同じだ」


「違います」


「なぜ」


「わたくしの場合は、後回しにしているだけです。公爵様の場合は、諦めているように聞こえました」


 レオンハルト公爵が黙った。


 あ。


 今度こそ踏み込みすぎた。


 四歩後ろのリタが、わずかに姿勢を正す気配がした。

 何かあれば間に入るつもりなのだろう。


 しかしレオンハルト公爵は、静かに言った。


「君は時々、妙なところだけ鋭いな」


「普段は鈍いような言い方ですわ」


「鈍いだろう」


「即答なさらないで」


「自分に向けられる感情には特に鈍い」


「……」


 返せない。


 痛いところを突かれた。


 レオンハルト公爵は、さらに言葉を重ねる。


「聖女候補に懐かれていることは分かる。騎士団長が殿下を案じていることも分かる。殿下が君を気にしていることは?」


「それは……」


「分かっているのか、分かっていないふりをしているのか」


 わたくしは視線を逸らした。


「……まだ、判断中です」


「私の言葉を真似たな」


「便利でしたので」


「逃げるな」


 短く言われた。


 胸が痛い。


 この人は本当に、わたくしが逃げようとする場所を見つけるのが上手い。


「公爵様」


「何だ」


「わたくしは今日、いろいろな方から逃げるなと言われすぎています」


「それだけ逃げているのだろう」


「慰めは」


「必要か?」


「少しは」


「では、逃げ足が速いのは長所でもある」


「慰めが下手ですわ」


「慣れていない」


「でしょうね」


 思わず言うと、レオンハルト公爵がほんの少しだけ目を細めた。


 まただ。


 笑ったのか、呆れたのか、判断が難しい。


 いや、判断してはいけない。


 冷血公爵の表情差分に深入りすると危険。


 わたくしは話を戻そうとした。


「それで、公爵様。確認したいことは以上ですか?」


「まだだ」


「まだ」


「君は、殿下にも騎士団長にも恋をしていない。聖女候補を利用するつもりもない」


「はい」


「では、なぜあそこまで殿下と騎士団長を近づけようとする」


 来た。


 本題だ。


 ここで答えを誤ると終わる。


 恋ではない。

 未練でもない。

 利用でもない。


 では何なのか。


 推しです。


 とは言えない。


 尊いです。


 とも言えない。


 信仰です。


 ……いや、それも言ってはいけない。


 絶対にいけない。


 わたくしは口を開いた。


「それは」


「それは?」


「恋ではありません」


「それはもう聞いた」


「未練でもありません」


「聞いた」


「利用でも」


「それも聞いた」


 レオンハルト公爵が、わずかに首を傾げる。


「では何だ」


 圧。


 逃げ場のない問い。


 わたくしは焦った。


 焦ると、人はとんでもないことを言う。


 前世でもそうだった。

 仕事で急に意見を求められ、考えるより先に口が動いて後悔したことが何度もある。


 そして今も。


 わたくしの口は、わたくしの制止を聞かなかった。


「信仰です」


 言った。


 はっきり言った。


 空気が止まった。


 レオンハルト公爵が黙る。

 リタが四歩後ろで完全に固まる。

 遠くの音楽だけが、やけに明るい。


 わたくしは、ゆっくり扇で口元を隠した。


 遅い。


 あまりにも遅い。


「信仰」


 レオンハルト公爵が、低く繰り返す。


「……はい」


「君の信仰は、ずいぶん騒がしいな」


「敬虔な者ほど内心は荒れますわ」


「そうなのか」


「たぶん」


「たぶんで信仰を語るのか」


「今のは比喩です」


「また比喩か」


「比喩です。ぜひ比喩として処理してくださいませ」


「難しいな」


 難しいですよね。


 わたくしもそう思います。


 リタが後ろから、静かに、しかし圧のある声で言った。


「お嬢様」


「リタ」


「今のは、いかがなものかと」


「分かっているわ」


「いえ、おそらく十分には分かっておられません」


「そこまで?」


「信仰は、かなり強い言葉でございます」


「本当に分かっているから、それ以上言わないで」


 恥ずかしい。


 非常に恥ずかしい。


 顔が熱い。


 レオンハルト公爵は、しばらくわたくしを見ていた。


 やがて、静かに言う。


「つまり、君は殿下と騎士団長の関係を、恋愛ではなく、何らかの尊ぶべきものとして見ている」


 わたくしは固まった。


 え。


 理解が近い。


 かなり近い。


 いや、正確ではない。

 正確ではないが、貴族社会で言える範囲としては、かなり近いところまで来ている。


 この人、怖い。


「……そのような感じです」


「なぜ尊ぶ」


「美しいからです」


「また美しいものか」


「はい」


「君は美しいものを壊したくないと言っていたな」


「覚えていらしたのですか」


「覚えている」


「公爵様の記憶力が怖いです」


「君の発言が忘れにくい」


「それは褒め言葉ではありませんね」


「少しは褒めている」


「少し」


「だが理解はできない」


「でしょうね」


 わたくしは素直に頷いた。


 レオンハルト公爵は誤解しない。


 彼は、わたくしがダリオ様に恋しているとか、殿下に未練があるとか、セシリア様を利用しているとか、そういう浅い誤解はしない。


 けれど。


 理解もしない。


 わたくしが何を尊び、なぜ壁になりたいほどそれを守ろうとするのか。


 そこまでは、たぶん分からない。


 当然だ。


 推し活とは、外から見ればかなり奇妙な祈りである。

 ましてや前世の記憶もゲーム知識も知らない人間からすれば、意味不明にもほどがある。


 レオンハルト公爵は、淡々と尋ねた。


「君は、その信仰とやらのためなら、自分の立場を捨てるのか」


「信仰とやら、という言い方は少し」


「では何と呼べばいい」


「……尊重?」


「君の尊重は、かなり騒がしい」


「先ほどから騒がしい扱いですわね」


「事実だ」


 もう事実には慣れてきた。


 わたくしは少し考えた。


「立場を捨てたい、というより、誰かの大切なものを踏みにじるくらいなら退きたいのです」


「それが王太子の婚約者という立場でも?」


「はい」


「公爵家に迷惑がかかっても?」


 痛い。


 そこは、あまり考えたくなかったところだ。


 だが、考えなければならない。


 わたくしが婚約解消を望めば、ロゼリア公爵家には影響が出る。

 父も母も、きっと困る。

 王宮との関係も揺れる。


 自分だけの問題ではない。


 悪役令嬢ルートを避けたいからといって、勝手にすべてを壊してよいわけではない。


「……迷惑は、かけたくありません」


「だが、今の君は迷惑をかけない方法まで考えているようには見えない」


「痛いところを」


「刺した」


「自覚して刺さないでくださいませ」


「必要だと思った」


 レオンハルト公爵は、本当に容赦がない。


 でも、必要なことを言っている。


 だから腹が立つより先に、胸が苦しくなる。


「君は善意で動く。悪意はない」


 レオンハルト公爵が言った。


「だが、善意で動く者ほど、自分が傷つける相手を見落とすことがある」


「……はい」


「殿下。公爵家。聖女候補。騎士団長。君が動けば、全員に影響する」


「はい」


「それを分かっていても、壁になりたいのか」


 わたくしは、すぐに答えられなかった。


 壁になりたい。


 それは本心だ。


 けれど壁は、ただそこにあるだけで空間を区切る。

 人の動きを変える。

 時には邪魔にもなる。


 もしかすると、壁になりたいという願いそのものが、すでに誰かの道を変えているのかもしれない。


 なんて面倒なのだろう。


 自分が動いても、動かなくても、人を傷つける可能性がある。


 人間関係は、本当に面倒くさい。


「……公爵様」


「何だ」


「壁とは、思っていたより責任が重いのですね」


「ようやく気づいたか」


「冷たいですわ」


「事実だ」


「事実禁止令を出したいです」


「却下する」


 即答。


 わたくしは少し笑ってしまった。


 疲れているのに、笑ってしまった。


 レオンハルト公爵と話すと、こういうことが起きる。

 痛いところを突かれる。

 逃げられない。

 なのに、時々呼吸がしやすくなる。


 不思議だ。


 危険だ。


 レオンハルト公爵は、わたくしの笑みに気づいたらしい。


「今の笑顔は作っていないな」


「公爵様」


「何だ」


「また顔の鑑定を」


「鑑定ではない。観察だ」


「より怖いです」


「君が隠すのが下手だからだ」


「皆様、そればかり仰います」


「なら、事実なのだろう」


「事実禁止令を」


「却下だ」


 二度目の却下。


 わたくしは扇で口元を隠した。


 レオンハルト公爵の目が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。


 気のせいかもしれない。


 いや、気のせいにしたい。


 この人の表情を読み始めると、わたくしはまた面倒な方向へ行く。


「ロゼリア嬢」


「はい」


「私は君の信仰とやらは理解できない」


「でしょうね」


「だが、君が殿下や騎士団長、聖女候補を害そうとしているわけではないことは分かった」


 その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。


「ありがとうございます」


「礼を言うところか?」


「疑いが少し晴れたのなら、ありがたいですわ」


「まだ晴れてはいない」


「そこは晴れたと言ってくださいませ」


「曇り程度だ」


「天気予報のようですわね」


「嵐よりはいいだろう」


「そうですわね」


 思わず、また笑う。


 四歩後ろでリタが静かに言った。


「お嬢様、公爵様との会話に慣れてきておられます」


「リタ」


「はい」


「言わないで」


「言わない方がよろしかったですか」


「ええ」


「では、今後は顔で伝えます」


「それもやめて」


 レオンハルト公爵が、ほんのわずかに口元を動かした。


 笑った。


 今度は確かに、ほんの少し。


 冷血公爵が、笑った。


 まただ。


 心臓が変な音を立てる。


 どうしてこの人の小さな笑顔は、こんなに危険なのだろう。


 ユリウス殿下の笑顔は王子様らしく美しい。

 ダリオ様の微かな表情変化は尊い。

 セシリア様の笑顔は浄化作用がある。


 レオンハルト公爵の笑顔は。


 不意打ちだ。


 鍵のかかっていない扉を、勝手に開けられる感じがする。


「公爵様」


「何だ」


「今、笑いましたね」


「少しな」


「認めるのですね」


「隠す必要があるか?」


「あります」


「なぜ」


「心臓に悪いです」


 言ってしまった。


 しまった。


 レオンハルト公爵の表情が止まる。


 リタも止まる。


 わたくしは、扇で顔を隠した。


 遅い。


 本当に遅い。


「今のは」


「比喩か?」


「はい。比喩です」


「便利な言葉だな」


「今夜一番頼りにしています」


「そうか」


 レオンハルト公爵は短く答えた。


 けれど、なぜか少しだけ視線を外した。


 え。


 今、外した?


 冷血公爵が?


 照れた?


 いや、違う。

 それは危険な解釈だ。

 解釈違いかもしれない。

 そもそも冷血公爵に照れ差分を勝手に実装してはいけない。


 だが。


 わたくしの心臓は、すでにかなり忙しい。


「……話は終わりだ」


 レオンハルト公爵が言った。


 少しだけ早口だった気がした。


 気のせい。


 気のせいにする。


「よろしいのですか?」


「今夜聞くべきことは聞いた」


「信仰の話まで?」


「それは聞く予定ではなかった」


「申し訳ございません」


「忘れにくい話だった」


「忘れてくださいませ」


「無理だな」


「でしょうね」


 もう諦めた。


 レオンハルト公爵は、広間の方へ歩き出した。


 その背中を見ながら、わたくしは小さく息を吐く。


 リタがそっと近づいてきた。


「お嬢様」


「何?」


「恋ではなく信仰、は少々強すぎました」


「反省しているわ」


「本当に?」


「本当に」


「では今後は」


「言わない」


「よろしいかと」


 リタはそう言いながら、ちらりとレオンハルト公爵の背中を見た。


「それと」


「まだあるの?」


「公爵様が笑った時、お嬢様の顔が大変でした」


「リタ」


「はい」


「今日はもう、顔の話は禁止と言ったはずよ」


「では、心臓の話を」


「それも禁止!」


 わたくしが小声で言うと、リタは少しだけ満足そうに目を伏せた。


 絶対に面白がっている。


 侍女なのに。


 広間に戻ると、ユリウス殿下とダリオ様がこちらを見た。


 セシリア様も、遠くから手を小さく振っている。


 わたくしは笑って返した。


 その瞬間、ユリウス殿下の視線が、わたくしとレオンハルト公爵の間を行き来した。


 まずい。


 また何かを察された気がする。


 違います、殿下。


 わたくしと公爵様の間にあるのは、恋ではありません。


 取り調べです。


 疑惑です。


 そして少しの、理解不能な信頼のようなものです。


 ……いや、それも危険な言い方だ。


 わたくしは扇で顔を隠した。


 冷血公爵様は、誤解しない。


 けれど理解もしない。


 それなのに。


 誰よりも、わたくしの逃げ道を見つけてしまう。


 そのことが、少し怖くて。


 少しだけ、嬉しかった。


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