第12話 笑った顔は反則です
翌朝。
わたくしは、人生で初めて紅茶に砂糖を入れ忘れた。
しかも、気づかず飲んだ。
「……苦い」
ぽつりと呟いた瞬間、向かい側に控えていたリタが、すっと目を細めた。
「お嬢様」
「なに?」
「お砂糖を入れておられません」
「え?」
カップの中を見る。
確かに、紅茶は琥珀色のまま静かに揺れている。
いつもなら角砂糖を一つ入れる。気分が沈んでいる日は二つ。昨日のように舞踏会で神経を削られた翌日なら、三つ入れても許されると思う。
なのに、入れていない。
それどころか、入れ忘れたことにも気づかなかった。
重症である。
「……今日は、茶葉が強いのかと思ったわ」
「茶葉のせいになさいましたか」
「いえ、今のは言い訳としても弱いと思っているわ」
「ご自覚がおありで何よりです」
リタはそう言って、銀の砂糖壺をわたくしの前へ置いた。
わたくしは角砂糖を一つ摘まみ、カップに落とす。
小さな音がした。
その音で、ふと昨日の舞踏会を思い出す。
シャンデリアの光。
音楽。
セシリア様の「お姉様」。
ユリウス殿下の「逃げないでくれるかな」。
ダリオ様の「それは俺が選んだことだ」。
そして。
レオンハルト公爵の、ほんの少しだけ笑った顔。
――君の信仰は、ずいぶん騒がしいな。
――今の笑顔は作っていないな。
――心臓に悪い、か。
思い出した瞬間、手元の匙がカップの縁に当たった。
かちゃん、と大きめの音が鳴る。
リタの視線が、わたくしの顔へ刺さった。
「お嬢様」
「なに?」
「今、何を思い出されましたか」
「何も」
「では、なぜ頬が赤いのでしょう」
「朝だからよ」
「朝で頬が赤くなるなら、毎朝赤いはずでございます」
「寝不足かしら」
「昨夜は帰宅後、倒れるようにお眠りになりました」
「では、体温調節ね」
「レオンハルト様のお名前を思い出した瞬間に?」
紅茶を吹きかけた。
危なかった。
公爵令嬢として、朝食の席で紅茶を吹くわけにはいかない。
わたくしはぎりぎりで堪えた。喉が少し痛い。
「リタ」
「はい」
「人の心を読まないで」
「お嬢様の顔に書いてございました」
「顔に名前が?」
「かなり大きく」
「そんなわけないでしょう」
「では、なぜそのように動揺なさるのですか」
「動揺していないわ」
「カップを逆の手で持っておられます」
見る。
本当だった。
普段とは逆の手で持っている。
終わった。
わたくしは、そっとカップを置いた。
「……今日は、少し手が右と左で相談していたのよ」
「手同士で会議を」
「ええ」
「議題はレオンハルト様ですか」
「リタ!」
思わず声が大きくなった。
すぐに部屋の外に聞こえていないか確認する。
幸い、自室の扉は閉まっている。朝食も今日は自室で取っているため、他の使用人はいない。
よかった。
ロゼリア公爵令嬢、朝から冷血公爵の名前で動揺、などと屋敷中に広まったら大変だ。
いや、リタ一人に見られている時点でかなり危険だが。
リタは、いつもの無表情で言った。
「お嬢様。確認してもよろしいでしょうか」
「嫌な予感しかしないわ」
「レオンハルト様のことを考えておられましたね」
「考えていないわ」
「では、何を?」
「昨日の舞踏会の総括を」
「その中にレオンハルト様は?」
「……一部、含まれるわ」
「どの程度?」
「全体の……二割ほど?」
「八割でございますね」
「なぜ増やしたの」
「お嬢様は少なめに申告する時、だいたい四分の一にしておられます」
「わたくしの傾向を分析しないで」
「侍女でございますので」
便利な言葉がまた出た。
わたくしは額に手を当てた。
確かに、昨日のことを考えていた。
セシリア様にお姉様と呼ばれたことも。
殿下と話したことも。
ダリオ様に心配されたことも。
でも、朝起きて一番に思い出したのは、なぜかレオンハルト公爵の笑顔だった。
ほんの少しだけ。
冷たい表情の奥で、雪が溶ける直前みたいに動いた口元。
笑ったと言っていいのかも分からないほど小さな変化。
それなのに、妙に鮮明に残っている。
困る。
非常に困る。
わたくしは、推しカプを見守るために悪役令嬢ルートを回避しようとしているのであって、冷血公爵の表情差分を朝から反芻するために生きているわけではない。
「これは違うのよ、リタ」
「何がでしょう」
「恋ではないわ」
「私はまだ恋とは申し上げておりません」
「……」
「お嬢様」
「なに?」
「自白が早すぎます」
しまった。
言っていない言葉に反応してしまった。
わたくしは扇を探した。
しかし朝食中なので扇はない。
仕方なくナプキンで口元を隠す。
「これは、恋ではありません」
「では何ですか」
「分析よ」
「分析」
「ええ。冷血公爵という人物の表情変化に関する、純粋な人物観察です」
「なるほど」
「信じていないわね」
「はい」
「即答」
リタは、パンにバターを塗るわたくしの手元を見ながら言った。
「お嬢様。バターが皿に塗られております」
「え?」
見る。
本当に皿に塗っていた。
パンではなく皿が艶やかになっている。
もう駄目かもしれない。
「……これは、新しい食器の保護法よ」
「銀食器はバターで保護いたしません」
「そうね。知っていたわ」
「お嬢様」
「言わないで」
「恋です」
「言った!」
あまりにも容赦がなかった。
リタは眉一つ動かさない。
「今のお嬢様の状態を総合的に判断いたしますと、恋です」
「違うわ」
「昨夜からレオンハルト様のお名前が出るたびに頬が赤くなります」
「体温調節」
「今朝は紅茶に砂糖を入れ忘れ、皿にバターを塗り、カップを逆の手で持ちました」
「寝不足」
「昨夜はよく眠っておられます」
「夢見が悪かったのかもしれないわ」
「夢にレオンハルト様が?」
「リタ!」
「今、否定が遅れました」
「あなた、今日いつもより刺し方が鋭くない?」
「お嬢様がいつもより分かりやすいので」
リタは淡々としている。
わたくしは椅子の背にもたれた。
「違うのよ。これは恋ではないの」
「何度もおっしゃるところが、すでに怪しいです」
「だって本当に違うのだもの。レオンハルト様は危険人物よ。鋭くて、冷たくて、こちらの逃げ道を全部塞いでくるの」
「はい」
「話していると疲れるし、すぐに痛いところを突かれるし、わたくしの壁願望をまったく理解してくださらないし」
「はい」
「それなのに、ふいに少しだけ笑うのよ」
「はい」
「あれは反則だと思わない?」
「恋です」
「話を聞いて!」
「聞いた結果です」
駄目だ。
リタは完全に結論を出している。
わたくしは両手で顔を覆いたくなったが、公爵令嬢として何とか耐えた。
代わりに、ナプキンを握りしめる。
「リタ。わたくしには目的があるの」
「壁になることですか」
「そう。推し……いえ、大切な方々の幸せを見守ることよ。ヒロイン様を守り、殿下とダリオ様の関係を邪魔せず、悪役令嬢として破滅しないこと」
「はい」
「そのためには、余計な恋愛イベントを起こしてはいけないの」
「余計」
「そう、余計よ。冷血公爵様との恋愛イベントなど、原作にはなかったのだから」
「げんさく」
「……人生の予定表のようなものよ」
「お嬢様の人生の予定表には、壁になることが書かれていたのですか」
「いいえ。昨日書き足したわ」
「予定表とは」
リタが疲れたように言った。
わたくしも少し疲れた。
説明すればするほど、状況が複雑になっていく。
それでも、ここははっきりさせなければならない。
「とにかく、恋ではありません。これは別ジャンルの扉が勝手に開きそうになっているだけです」
「恋です」
「違うわ。供給過多による心拍上昇よ」
「恋です」
「隠しキャラの解像度が上がったことによる一時的な興奮」
「恋です」
「冷血公爵という人物造形の完成度に対する敬意」
「恋です」
「リタ、語彙を増やして」
「恋です」
「一点突破!」
リタは強かった。
まるで王城の門である。
そしてわたくしは、その門に何度も頭をぶつけている愚かな令嬢だった。
わたくしは小さく息を吐いた。
「仮に」
「はい」
「仮に、よ」
「はい」
「わたくしがレオンハルト様を少し気にしているとして」
「はい」
「恋とは限らないでしょう?」
「限りません」
「でしょう?」
「ですが、かなり近いです」
「近づけないで」
「私が近づけているのではなく、お嬢様が近づいておられます」
「わたくしは逃げています」
「逃げながら何度も振り返っておられます」
言葉が詰まった。
逃げながら振り返る。
それは、少しだけ当たっている気がした。
レオンハルト公爵は怖い。
関わると面倒だ。
昨日だって、何度も取り調べられた。
わたくしの壁願望は理解されず、信仰発言まで引き出された。
できれば関わらない方が安全。
そう思うのに。
彼が笑った顔を、今朝も思い出している。
彼が「今夜の君は、少なくとも悪役には見えない」と言った声を、何度も思い返している。
あれは、嬉しかった。
悪役令嬢として破滅するはずのわたくしにとって、あの言葉は予想以上に深く刺さった。
悪役には見えない。
それは、もしかすると、わたくしが一番聞きたかった言葉だったのかもしれない。
――いや。
駄目。
しんみりしてはいけない。
朝食の席で冷血公爵の言葉を反芻して胸を押さえる悪役令嬢など、もう完全に別ルートである。
「……リタ」
「はい」
「今日は王宮へ行く予定はないわよね」
「ございません」
「では、レオンハルト様に会うこともないわね」
「普通に考えれば」
「よかった」
「本当によかったと思っておられますか?」
「思っているわ」
「残念そうなお顔ですが」
「していません」
「では、残念ではないのですね」
「当然よ」
「本当に?」
「当然」
「では、もしレオンハルト様からお手紙が届いたとしても、動揺なさらないのですね」
「なぜそこで手紙が出るの?」
「仮定でございます」
「動揺しないわ。だって、届くはずがないもの」
そう言った瞬間だった。
扉が控えめに叩かれた。
リタが返事をすると、若い侍女が銀盆を手に入ってくる。
「お嬢様。ヴァイスベルク公爵家より、お手紙が届いております」
沈黙。
完璧な沈黙。
わたくしは、リタを見た。
リタは、わたくしを見ていた。
その目が言っている。
ほら、と。
「……リタ」
「はい」
「あなた、予知能力があるの?」
「侍女でございますので」
「侍女は予知しないわ」
「お嬢様の行動は予測しやすいので」
「わたくしの行動ではなく公爵様からの手紙よ」
「お嬢様が動揺する流れは予測できました」
ひどい。
しかし、手紙は本当に来ている。
若い侍女は、何も知らない顔で銀盆を差し出した。
そこには、黒に近い深い青の封蝋が押された封書が乗っている。
ヴァイスベルク公爵家の紋章。
間違いない。
レオンハルト公爵からだ。
心臓が跳ねた。
跳ねるな。
落ち着け。
これは恋文ではない。
おそらく事情聴取の続き。
昨日の信仰発言についての追加確認。
もしくは「君は不審なので今後注意する」という警告文。
そう。
絶対に甘い内容ではない。
冷血公爵である。
「お嬢様、お受け取りを」
リタの声で我に返る。
わたくしは、できるだけ平静を装って封書を手に取った。
「ありがとう。下がってよいわ」
「はい」
若い侍女が退室する。
扉が閉まる。
部屋には、わたくしとリタ、そして公爵家からの手紙。
リタが静かに言う。
「開けないのですか」
「開けるわ」
「先ほどから封蝋を見つめておられます」
「紋章の意匠を観察しているの」
「恋です」
「紋章観察まで恋にしないで」
わたくしは覚悟を決め、封を切った。
中の便箋も、質が良い。
白ではなく、わずかに灰色がかった紙。
文字は端正で、無駄がない。
いかにもレオンハルト公爵らしい。
わたくしは、ゆっくり読み始めた。
『ロゼリア嬢。
昨夜の件について、改めて確認したいことがある。
本日午後、王宮庭園東側の東屋に来られるか。
人目はあるが、声は届きにくい場所だ。君の侍女の同行は許可する。
なお、拒否する場合は返事を寄越せ。
ヴァイスベルク公爵
レオンハルト』
短い。
甘さが一切ない。
まさに事情聴取である。
なのに。
なぜ最後の名前を見ただけで、胸が妙に落ち着かなくなるのか。
おかしい。
非常におかしい。
「……事情聴取ね」
わたくしは、努めて冷静に言った。
「おそらく、昨日の信仰発言について追加で確認なさりたいのでしょう」
「そうでしょうか」
「そうよ。これは逢い引きではありません。事情聴取です」
「私はまだ逢い引きとは申し上げておりません」
「……」
「お嬢様」
「言わないで」
「自白が早すぎます」
二度目。
今日は自白が多い。
リタは手紙を覗き込み、淡々と言った。
「東屋で二人きり」
「リタ」
「人目はあるが、声は届きにくい場所」
「リタ」
「侍女の同行は許可」
「リタ!」
「かなり丁寧な逢い引きの段取りにも見えます」
「事情聴取です!」
声が大きくなった。
慌てて口を押さえる。
またしても誰にも聞かれていないか確認する。
リタは、たいへん冷静だった。
「では、お断りになりますか」
「え?」
「事情聴取であれば、お嬢様が無理にお受けする必要はございません。昨夜も十分にお疲れでしたし、今日はお休みになられた方が」
「それは……」
断る。
その選択肢はある。
手紙にも、拒否する場合は返事を、と書いてある。
行かなくてもいい。
むしろ行かない方が安全だ。
レオンハルト公爵と二人で話せば、また何かを見抜かれる。
逃げ道を塞がれる。
壁願望を崩される。
そして、また笑われたりしたら。
困る。
非常に困る。
「……行くわ」
気づけば、そう言っていた。
リタの目が、静かに細くなる。
「理由を伺っても?」
「昨日の件を曖昧にしたままでは、かえって疑われるでしょう」
「はい」
「公爵様は王宮の警備や情報にも関わる方です。敵に回すのは得策ではありません」
「はい」
「それに、セシリア様や殿下に関する誤解を解いておく必要もあります」
「はい」
「だから行くのです」
「レオンハルト様に会いたいからではなく?」
「違うわ」
「即答が少し遅れました」
「気のせいよ」
「お嬢様」
「何?」
「本日は、淡い青のドレスがよろしいかと」
「なぜドレスの話になるの」
「東屋へ行くのでしょう?」
「事情聴取に行くのよ」
「では、事情聴取にふさわしい淡い青のドレスを」
「そんな分類はないわ」
「今作りました」
「作らないで」
リタは、すでに衣装棚へ向かいかけていた。
わたくしは頭を抱えそうになる。
「リタ、待って。本当に違うの。これは恋ではなく、確認作業よ」
「はい」
「信じていないわね」
「お嬢様がお信じになっているなら、それでよろしいかと」
「その言い方が一番信じていないのよ」
「では正直に申し上げます」
「怖いけれど聞くわ」
「恋です」
「戻った!」
わたくしは、とうとうテーブルに突っ伏したくなった。
しかし、公爵令嬢なので耐えた。
代わりに、額に手を当てる。
「リタ」
「はい」
「わたくしは、推し……大切な方々の幸せを見守る壁になりたいの」
「はい」
「壁は恋をしないわ」
「お嬢様」
「なに?」
「壁に向いていないのでは?」
言われた。
昨日レオンハルト公爵にも言われた。
今リタにも言われた。
わたくしは、しばらく黙った。
窓の外では、朝の光が庭の薔薇を照らしている。
穏やかな朝。
しかし、わたくしの心は穏やかではない。
午後、王宮庭園の東屋。
レオンハルト公爵。
事情聴取。
そう自分に言い聞かせても、胸がそわそわする。
これは恋ではない。
たぶん。
おそらく。
まだ違う。
そう思いたい。
わたくしは手紙をもう一度見た。
端正な文字。
無駄のない文章。
冷たいようで、侍女の同行を許可する気遣い。
そういうところが。
また、困る。
「……笑った顔は反則ですわ」
思わず、ぽつりと呟いてしまった。
リタがすぐに反応する。
「お嬢様」
「今のは独り言よ」
「恋です」
「リタ!」
「何度でも申し上げます」
「言わなくていいわ!」
リタは、ほんの少しだけ笑った。
いつもの無表情から少しだけ崩れた、侍女らしからぬ楽しそうな顔だった。
わたくしはその顔を見て、完全にからかわれていると悟った。
だが、怒る気にはなれなかった。
きっとリタは、昨日からずっと見ている。
わたくしが逃げようとして、振り返って、また逃げようとしていることを。
そして今、逃げ道の先にレオンハルト公爵が立っていることも。
「リタ」
「はい」
「淡い青のドレスは、少し大げさではないかしら」
「では、薄紫にいたしましょう」
「そういう意味では」
「お嬢様には薄紫もよくお似合いです」
「だから、事情聴取なのよ」
「はい。事情聴取にふさわしい、控えめで上品な薄紫を」
もう何を言っても無駄だった。
わたくしは、もう一度手紙に目を落とす。
本日午後。
王宮庭園東側の東屋。
そこに行けば、きっとまたレオンハルト公爵に問われる。
君は何を望んでいる。
どこに立つつもりだ。
なぜ逃げる。
そんなふうに。
わたくしは、答えられるだろうか。
分からない。
でも、行くと決めてしまった。
壁になりたい令嬢は、午後、冷血公爵に会いに行く。
その矛盾に気づかないほど、わたくしはもう鈍くない。
ただ。
まだ認める勇気がないだけだ。
わたくしは手紙を畳み、胸元に押し当てた。
「これは、事情聴取」
「はい」
「逢い引きではないわ」
「はい」
「恋でもない」
「はい」
「リタ、返事が軽いわ」
「午後には分かるかと」
「何が?」
リタは、衣装棚を開けながら、さらりと言った。
「お嬢様がどれだけご自分の言葉を信じておられるかです」
……本当に、うちの侍女は容赦がない。
けれど、その容赦のなさが少しありがたいと思ってしまうあたり、わたくしも相当重症なのかもしれない。
窓の外で、風が薔薇の枝を揺らした。
午後まで、あと数時間。
冷血公爵の笑った顔を思い出さないようにしようと決めたそばから、また思い出してしまう。
ああ、もう。
笑った顔は反則です、レオンハルト様。




