第13話 密会ではありません、事情聴取です
王宮庭園の東側には、小さな東屋がある。
白い石柱に、薄紫の花をつけた蔓草が絡んでいる。
屋根は丸く、内側には淡い青の模様が描かれていた。
すぐ近くには噴水があり、水音が静かに響いている。
人目はある。
庭師もいるし、離れた道を侍女たちが通る。王宮騎士の姿も見える。
けれど、東屋の中の声までは届かない。
たしかに、手紙に書いてあった通りの場所だった。
人目はあるが、声は届きにくい場所。
つまり、密会ではない。
密会ではない。
大事なことなので、心の中で三度ほど繰り返した。
これは事情聴取。
冷血公爵による追加確認。
昨日の舞踏会での不審発言に関する説明責任。
決して、逢い引きではない。
「お嬢様」
隣に控えていたリタが、淡々と言った。
「先ほどから東屋を見つめすぎでございます」
「構造を確認しているのよ」
「逢い引き場所として?」
「事情聴取場所として」
「そうでございましたね」
「信じていないでしょう」
「はい」
「正直ね」
「侍女でございますので」
いつもの言葉。
けれど今日は、いつもより少しだけ声音が楽しそうだった。
わたくしはリタを横目で見た。
本日のわたくしのドレスは、薄紫だ。
リタが選んだ。
事情聴取にふさわしい、控えめで上品な薄紫。
そんな分類は存在しないと何度も言ったが、リタは聞かなかった。
結果、今のわたくしは、控えめではあるが妙に気合いの入った装いで王宮庭園に立っている。
髪も緩く編み込まれ、耳元には小さな真珠。
日除け用の帽子には薄いリボン。
派手ではない。
けれど、決して普段着ではない。
つまり。
リタに負けた。
「リタ」
「はい」
「本当にこのドレスでよかったのかしら」
「よくお似合いです」
「そうではなくて」
「事情聴取であっても、相手は公爵様です。失礼のない装いは必要かと」
「それはそうだけれど」
「それに、お嬢様が今朝から三度も衣装棚の前で立ち止まっておられたので、私が決めた方が早いと判断いたしました」
「見ていたのね」
「お嬢様は、白いドレスを手に取って戻し、淡い青を手に取って戻し、最終的に寝台へ座って遠い目をしておられました」
「細かいわね」
「侍女でございますので」
もう何も言えない。
実際、迷っていた。
白だと気合いが入りすぎて見える。
青だとレオンハルト様の瞳を連想してしまう。
薄紅だと逢い引き感が出る。
緑だと庭に溶け込めるが、壁ではなく植木になってしまう。
その結果、寝台に座って遠い目をした。
リタは全部見ていた。
この侍女から逃げるのは、レオンハルト様から逃げるのと同じくらい難しい。
いや、場合によってはリタの方が難しい。
「お嬢様」
リタが、少しだけ声を低くした。
「いらっしゃいました」
胸が跳ねた。
庭園の白い道の向こうから、黒に近い濃紺の上着を着た男性が歩いてくる。
レオンハルト・ヴァイスベルク公爵。
昼の光の下で見る彼は、昨夜の舞踏会とは少し違って見えた。
夜の彼は、シャンデリアの光を受けてもなお冷たかった。
黒い礼服の印象が強く、周囲を黙らせるような鋭さがあった。
けれど昼の庭園では、銀灰色の髪が淡く光を含んでいる。
青灰色の瞳は相変わらず冷静だが、昨夜より少しだけ柔らかく見えた。
気のせい。
気のせいです。
冷血公爵様の昼光補正など考えてはいけない。
わたくしは背筋を伸ばした。
「ロゼリア嬢」
「ヴァイスベルク公爵様。ごきげんよう」
淑女らしく礼をする。
レオンハルト様は、わずかに頷いた。
「来たのだな」
「お招きいただきましたので」
「拒否してもよいと書いた」
「拒否した方がよろしかったですか?」
「いや」
短い返事。
なのに、少しだけ間があった。
その間を拾ってしまった自分が嫌だ。
わたくしは扇を開き、口元を隠した。
「では、事情聴取を始めますか?」
レオンハルト様の眉が、わずかに動いた。
「事情聴取」
「はい。昨夜の件について、改めて確認したいことがあるとお手紙に」
「書いたな」
「ですので、事情聴取です」
「君は、そう解釈したのか」
「他に解釈がございますか?」
「……いや」
今の沈黙は何?
なぜ少しだけ呆れた顔をしたの?
リタが後ろで小さく咳払いをした。
やめて。
その咳払いは、わたくしに「逢い引きと認めなさい」と言っているように聞こえる。
認めません。
これは事情聴取です。
レオンハルト様は東屋の中へ入るよう促した。
「座れ」
「はい」
石造りの腰掛けには、薄い敷物が置かれていた。
用意されている。
しかも小さな卓には紅茶まである。
茶器は白磁。菓子皿には小さな焼き菓子。
……事情聴取にしては、準備が丁寧すぎるのでは?
いや、貴族の事情聴取とはこういうものなのかもしれない。
きっとそう。
たぶん。
リタは東屋の外、四歩ほど離れた場所に控えた。
以前交渉した距離を維持しているらしい。
レオンハルト様がそれを見て、少しだけ目を細める。
「四歩か」
「お嬢様の安全のためでございます」
リタが即答する。
「私が何かすると思われているのか」
「念のためでございます」
「正直だな」
「侍女でございますので」
「その言葉は便利だな」
「お嬢様にもよく言われます」
リタとレオンハルト様が普通に会話している。
しかも、若干テンポが合っている。
わたくしは少し複雑な気持ちになった。
リタ、あなた、公爵様と打ち解けないで。
いや、打ち解けているわけではない。
けれど、警戒しつつ会話が成立している。
うちの侍女、強い。
レオンハルト様は向かいに座った。
侍女が紅茶を注ぎ、静かに下がる。
二人きり。
いや、リタが四歩外にいる。
庭師も遠くにいる。
だから二人きりではない。
そう自分に言い聞かせる。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「昨日の続きを聞く」
「信仰の件でしょうか」
「自分で言うのだな」
「先に言ってしまえば怖くないと思いまして」
「怖いのか」
「少し」
「私が?」
「昨夜から何度も申し上げておりますが、公爵様は人の逃げ道を塞ぐのがお上手です」
「逃げようとするからだ」
「逃げたくなるほど問われるからです」
「それは否定しない」
「してくださいませ」
思わず言うと、レオンハルト様は淡々と紅茶に口をつけた。
否定する気はないらしい。
わたくしもカップを手に取る。
今度は砂糖を入れ忘れない。
角砂糖を一つ。
慎重に。
リタの視線を感じる。
見ている。
絶対に見ている。
失敗できない。
角砂糖は無事、紅茶へ落ちた。
よし。
心の中で小さく勝利した。
「君は」
レオンハルト様が口を開いた。
「昨夜、殿下と騎士団長の関係を信仰だと言った」
「その言葉はできれば忘れていただきたく」
「無理だ」
「ですよね」
「だが、恋ではない。利用でもない。未練でもない。それは分かった」
「ありがとうございます」
「理解はしていない」
「それも存じております」
レオンハルト様はカップを置いた。
「なぜ、そこまで他人の関係を大切にする」
まっすぐな問い。
わたくしは、すぐに答えられなかった。
殿下とダリオ様が推しだから。
前世で、その関係性に救われたから。
壊したくないから。
それをこの世界の言葉で、どう伝えればいいのだろう。
「……誰かと誰かの間にあるものは、繊細ですわ」
わたくしは、ゆっくりと言った。
「信頼も、友情も、忠誠も、恋も。外からは簡単に見えることでも、当人たちにとっては長い時間をかけて積み重ねたものです」
「それを壊したくない?」
「はい」
「君が壊すと?」
「壊してしまうこともあるでしょう」
「なぜそう思う」
「わたくしは、殿下の婚約者です」
口にすると、少しだけ重かった。
「わたくしが望む望まないにかかわらず、殿下の隣にいるだけで、周囲の関係に影響を与えます。セシリア様に近づくことも、グランツ卿を褒めることも、殿下から距離を置くことも。全部、誰かの心を動かしてしまう」
昨日、嫌というほど分かった。
壁になりたいと願っても、わたくしが動けば、周囲も動く。
「だから、できれば外側にいたいのです」
レオンハルト様の目が、静かにわたくしを捉える。
「外側」
「はい」
「物語の外側か」
心臓が止まりかけた。
なぜ、その言葉を選ぶ。
わたくしは必死に表情を保つ。
「……物語、という表現は詩的ですわね」
「君がそういう顔をした」
「顔」
「自分は本筋にいないと言いたげな顔だ」
怖い。
本当に怖い。
この人は、どうしてそんなところまで見るのか。
わたくしは、少し笑った。
「公爵様は、わたくしの顔に何が書かれているとお思いですか」
「逃げたい、だな」
「直球ですわね」
「違うのか」
「……違いません」
言ってしまった。
紅茶の香りが、ふわりと漂う。
庭園では鳥が鳴いている。
穏やかな昼下がり。
なのに、会話は穏やかではない。
「わたくしは、外側が安全だと思っています」
「なぜ」
「当事者になると、傷つくからです」
思ったより、あっさり出た。
言った後で、自分でも少し驚く。
レオンハルト様は何も言わない。
ただ、聞いている。
その沈黙が、続きを促してくる。
「前……昔から、誰かの輪の中に入るのが得意ではありませんでした」
前世と言いかけて、昔と言い直す。
「輪の外から見ている方が楽なのです。誰かと誰かが楽しそうにしている。信頼し合っている。大切にし合っている。それを見ているだけなら、綺麗なものとして受け取れる」
「自分はそこに入らない」
「はい」
「なぜ」
「わたくしが入ると、壊してしまうかもしれないからです」
レオンハルト様の目が、ほんの少し鋭くなった。
「君は、自分を何だと思っている」
「公爵令嬢ですわ」
「そういう話ではない」
「……」
「君は、自分が関わると人の関係を壊すと思っているのか」
言葉に詰まる。
思っている。
たぶん。
前世のわたくしは、誰かと深く関わるのが怖かった。
好きなものを語りすぎて引かれるのが嫌だった。
大切なものを笑われるのが嫌だった。
期待されて、失望されるのが嫌だった。
だから、見ている側が楽だった。
推しを応援する。
他人の物語を眺める。
そこなら、自分自身の人生がどれほど空っぽでも、少し満たされた気持ちになれた。
でもそれを、どう説明すればいい。
わたくしは、カップの中の紅茶を見つめた。
「……壊す、というより」
「うん」
「期待されるのが怖いのかもしれません」
小さな声だった。
自分でも、こんなことを言うつもりはなかった。
リタが外で少しだけこちらを見た気配がする。
聞こえてはいないだろう。
でも、何かを感じたのかもしれない。
「期待されて、応えられなかった時。あるいは、わたくしが思っているほど、誰かにとって大切ではなかったと分かった時。そういうことが怖いのです」
前世でも、今世でも。
好きなものを好きだと言うのは、案外怖い。
誰かの隣に立ちたいと願うのは、もっと怖い。
だったら、最初から壁でいい。
誰の一番にもならない。
誰の物語にも深く入らない。
誰かの幸せを遠くから祈る。
それなら、安全だ。
「外側は安全ですから」
わたくしは、そう言って笑った。
いつものように。
軽く。
流すために。
けれど、レオンハルト様は笑わなかった。
「安全かもしれないが、寒いだろう」
その言葉に、息が止まった。
寒い。
そんなふうに言われると思わなかった。
わたくしは何も返せない。
レオンハルト様は静かに続けた。
「外側にいる者は、傷つきにくい。だが、温度も届きにくい」
「……公爵様は、時々ずるいことを仰いますね」
「ずるい?」
「はい。逃げ道を塞ぐだけでなく、逃げた先の寒さまで指摘なさる」
「事実だ」
「また事実」
「禁止令は却下した」
「覚えていらしたのですか」
「覚えている」
その短い返事に、胸が少しだけ揺れる。
この人は、わたくしの変な発言ばかり覚えている。
壁。
信仰。
事実禁止令。
忘れてほしいことばかり。
なのに、なぜか少し嬉しい。
困る。
わたくしは扇を開いた。
「わたくしは、寒さには強い方ですわ」
「嘘だな」
「早いです」
「君は寒がりだろう」
「なぜ分かるのです」
「カップを両手で持っている」
見る。
本当だった。
無意識に、両手で紅茶のカップを包んでいる。
恥ずかしい。
「これは、茶器を大切に扱っているだけです」
「苦しい言い訳だ」
「今日は朝から言い訳の調子が悪いのです」
「いつも調子が良いようには見えないが」
「公爵様」
「何だ」
「もう少し令嬢に優しい言い方を」
「君は普通の令嬢扱いをすると逃げる」
「また逃げる」
「逃げるだろう」
「……否定しきれません」
わたくしは小さくため息をついた。
レオンハルト様と話すと、どうしても取り繕えなくなる。
自分でも見たくないところを、言葉にされてしまう。
それは怖い。
でも、少しだけ楽でもある。
完璧な公爵令嬢でいる必要がないからかもしれない。
いや。
楽だと思ってはいけない。
この方は危険人物である。
わたくしの壁計画を根本から崩そうとしている。
「公爵様」
「何だ」
「一つ、こちらからも伺ってよろしいでしょうか」
「内容による」
「皆様、その返事をなさいますわね」
「当然だ」
「では伺います。なぜ、そこまでわたくしを気にされるのですか」
言った瞬間、少しだけ空気が変わった。
レオンハルト様は、すぐには答えなかった。
わたくしは、思いのほか自分の心臓が速くなっていることに気づく。
別に、深い意味を期待したわけではない。
警備上、と答えるだろう。
不審だから、と。
殿下の婚約者だから、と。
そのはず。
「最初は、警戒だった」
レオンハルト様は言った。
「最初は?」
「王太子の婚約者が急に態度を変えた。殿下を避け、騎士団長を殿下のそばへ置こうとし、聖女候補を庇う。政治的に見れば不自然だ」
「それは、そうですわね」
「だから見た」
「はい」
「だが、見れば見るほど、君は危うい」
「危うい」
「悪意で動いているわけではない。むしろ、悪意が薄すぎる。自分が損をする方向へ平気で歩く」
「平気ではありませんわ」
「なら、なぜ歩く」
「それは……」
「君は他人を傷つけることを嫌がる。だが、自分が傷つくことは軽く見ている」
言葉が刺さる。
昨日も同じようなことを言われた。
それでも、慣れない。
「だから気になる」
レオンハルト様は、淡々と言った。
気になる。
その言葉に、心臓が跳ねた。
やめて。
その言葉は曖昧すぎる。
警戒として気になるのか。
人として気になるのか。
それ以上なのか。
解釈が分かれる言葉は危険だ。
前世のわたくしなら、その一言で考察を五千字書く。
今世のわたくしは、その当事者になっている。
地獄。
いや、天国?
違う。
混乱。
「公爵様」
「何だ」
「その言い方は、解釈に困ります」
「また解釈か」
「重要ですわ」
「そのまま受け取ればいい」
「そのままが一番困るのです」
レオンハルト様は、少しだけ不思議そうにわたくしを見る。
この人は本当に、こういうところが厄介だ。
言葉が重いのに、自覚が薄い。
天然で人の心を揺らしてくる。
冷血公爵なのに。
冷血とは何だったのか。
わたくしは紅茶を一口飲んだ。
今度はちゃんと甘い。
それだけで少し落ち着く。
「わたくしは、危うくなどありません」
「そうか」
「そうです」
「では、なぜ今朝から侍女が君を心配そうに見ている」
視線を外へ向ける。
リタと目が合った。
リタは無表情だった。
しかし、目は完全に「心配しております」と言っている。
裏切り。
いや、心配してくれているだけだけれど。
「リタは、わたくしを少し過保護に見ているだけです」
「侍女は主人をよく見る」
「公爵様もよく見ますわね」
「見る必要がある」
「それは、まだ警戒ですか?」
「半分は」
半分。
残り半分は?
聞いてはいけない。
聞いたら、戻れない気がする。
わたくしは扇で口元を隠した。
「では、残り半分は次回の事情聴取で伺います」
「逃げたな」
「戦略的撤退です」
「壁志望のくせによく動く」
「公爵様、最近わたくしへの評価が雑です」
「正確だ」
「事実禁止令を再提出いたします」
「却下する」
「予想通りですわ」
言いながら、少し笑ってしまう。
レオンハルト様も、ほんのわずかに口元を動かした。
また笑った。
ほんの少し。
反則。
やはり反則。
わたくしは慌ててカップを置いた。
手元が怪しくなりそうだったからだ。
レオンハルト様がそれを見逃すはずがない。
「顔が赤い」
「日差しです」
「東屋の中だ」
「紅茶が熱かったのです」
「もう冷めている」
「では、体温調節です」
「昨朝もそれを使ったのか?」
「なぜ分かるのですか」
「図星か」
「……」
言葉で自分の首を絞めた。
リタが外で肩を震わせた気がする。
笑った?
リタが笑った?
あとで問い詰める。
レオンハルト様は、少しだけ楽しそうに見えた。
「君は本当に、隠すのが下手だな」
「皆様、そればかり」
「皆が言うなら事実だ」
「禁止令を」
「却下だ」
もう定型になりつつある。
そして、その定型が少し心地よくなっている自分がいる。
危険。
非常に危険。
わたくしは話題を戻そうとした。
「それで、公爵様。本日の確認事項は以上でしょうか」
「まだある」
「まだ」
「君は、王太子との婚約をどうするつもりだ」
来た。
避けられない問い。
わたくしは笑みを消した。
「……まだ、分かりません」
「分からないまま距離を置くのか」
「はい」
「殿下は傷つく」
「存じております」
「それでも?」
「それでも、今まで通りにはできません」
言葉は震えなかった。
自分でも少し意外だった。
「殿下の隣に立つ自分を、まだ信用できないのです」
「昨日も似たことを言っていたな」
「はい」
「自分を信用できないなら、誰かに見てもらえばいい」
「誰にですか」
「殿下でも、侍女でも、家族でもいい」
「公爵様は?」
言ってから、固まった。
なぜ聞いた。
なぜ、そこで公爵様は、などと。
わたくしの口は本当に危険だ。
レオンハルト様も、一瞬だけ黙った。
彼の青灰色の瞳が、まっすぐこちらを見る。
「私に見られたいのか」
心臓が跳ねた。
やめて。
その聞き方は駄目です。
完全に駄目です。
「今のは、言葉の流れで」
「そうか」
「はい」
「なら、流れではなく聞く」
「え?」
「私に見られるのは嫌か」
今度こそ、逃げ道がなかった。
レオンハルト様の声は静かだった。
からかっているわけではない。
試しているようでもない。
ただ、聞いている。
わたくしは、扇を握る指に力を入れた。
嫌か。
嫌ではない。
それが問題だ。
見られるのは怖い。
逃げ道を塞がれるのも怖い。
作った笑みの裏側まで見抜かれるのも怖い。
でも。
彼に「悪役には見えない」と言われた時、救われた。
彼に「外側は寒い」と言われた時、痛かったけれど、見つけられた気がした。
嫌ではない。
でも、それを言うのは怖い。
「……嫌、ではありません」
声が小さくなった。
レオンハルト様は黙っていた。
「ただ」
「ただ?」
「怖いです」
「私が?」
「公爵様も、ですし……見られること自体が」
言ってしまえば、少し楽だった。
「わたくしは、自分が思っているより臆病なのかもしれません」
「かもしれない、ではない」
「断定されました」
「かなり臆病だ」
「もう少し柔らかく」
「自分を守るのが下手なくせに、心だけは必死に隠す」
胸が詰まった。
レオンハルト様の言葉は、いつもそうだ。
冷たいのに、妙に的確で。
逃げたかった場所に、先に立っている。
「公爵様」
「何だ」
「わたくしの笑顔に鑑定魔法でもかけていらっしゃるのですか」
「魔法ではない。目だ」
「その目、性能が高すぎます」
「君が分かりやすいだけだ」
「また」
思わず笑った。
でも、少し泣きそうでもあった。
よく分からない感情だった。
レオンハルト様は、わたくしを見ていた。
その視線が、いつもより少しだけ静かだった。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「無理に笑うな」
その一言で、何かが止まった。
作ろうとしていた笑みが、途中で崩れる。
唇がうまく上がらない。
わたくしは、扇で顔を隠した。
「……公爵様」
「何だ」
「それは、かなりずるいです」
「そうか」
「はい」
「なら、覚えておく」
「また、それです」
「改善は必要だと思えばする」
「たぶん、なさらない」
「よく分かったな」
小さなやり取りなのに、胸が苦しい。
レオンハルト様は、卓の上に置かれていた小さな焼き菓子の皿を、わたくしの方へ少し押した。
「食べろ」
「急に?」
「顔色が悪い」
「公爵様、令嬢への気遣いとしては少々命令形です」
「食べられるか?」
「……はい」
「なら食べろ」
「結局命令形」
でも、わたくしは焼き菓子を一つ取った。
小さな蜂蜜菓子。
口に入れると、優しい甘さが広がった。
甘い。
少しだけ、落ち着いた。
「美味しいです」
「そうか」
「公爵様が選ばれたのですか?」
「侍女に任せた」
「でしょうね」
「不満か」
「いいえ。少し安心しました」
「なぜ」
「公爵様が焼き菓子を真剣に選んでいたら、解釈に困ります」
「君は何でも解釈するな」
「癖です」
「厄介な癖だ」
「自覚はあります」
話しているうちに、空気が少しだけ緩んだ。
レオンハルト様は紅茶を飲み、わたくしは焼き菓子を食べる。
これだけ見れば、ただの茶会だ。
いや、やはり逢い引きでは?
違う。
事情聴取です。
自分で自分に言い聞かせる。
その時、リタが外から静かに言った。
「お嬢様。そろそろお時間でございます」
助かったような、残念なような。
いや、助かった。
絶対に助かった。
わたくしは立ち上がろうとした。
その瞬間、レオンハルト様が静かに言った。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「君は外側にいたいと言ったな」
「はい」
「だが、もう外側ではない」
胸が鳴る。
「殿下も、騎士団長も、聖女候補も、君の言葉で動いている」
「……」
「そして、君自身も動いている」
「わたくしは、壁に」
「壁は東屋まで呼び出されて紅茶を飲まない」
「公爵様」
「事実だ」
「事実禁止令を」
「却下する」
もう反射のようなやり取りになってしまった。
わたくしは小さく笑う。
でも、その笑いは少し震えていた。
「では、わたくしは何になればよいのでしょう」
聞くつもりはなかった。
けれど、口からこぼれた。
レオンハルト様は、しばらく黙っていた。
そして。
「今すぐ決める必要はない」
意外なほど静かに言った。
「ただ、壁でないことだけは認めろ」
「……厳しいですわ」
「優しい言い方もできる」
「では、お願いします」
「君は壁には向いていない」
「結局同じです」
「柔らかく言った」
「どのあたりが?」
「声を少し抑えた」
「内容はそのままですわ」
また笑ってしまった。
今度は、作った笑みではなかったと思う。
レオンハルト様も、ほんの少しだけ目を和らげた。
やめて。
またその顔。
反則。
わたくしは扇で口元を隠す。
「公爵様」
「何だ」
「次回から、笑う時は事前に予告していただけますか」
「なぜ」
「心臓に悪いので」
言ってから、しまったと思った。
また言った。
二度目。
レオンハルト様は、わたくしを見て、ほんの少しだけ口元を上げた。
「善処する」
「そのお顔、絶対に善処なさらない顔ですわ」
「よく分かったな」
わたくしは完全に負けた気がした。
何に負けたのかは、まだ認めたくない。
リタが東屋の外で、何とも言えない顔をしていた。
帰ったら、絶対に何か言われる。
恋です、と。
間違いなく。
でも今は、聞こえないふりをする。
わたくしはレオンハルト様へ一礼した。
「本日は、お時間をいただきありがとうございました」
「こちらが呼んだ」
「事情聴取でしたので」
「まだ言うのか」
「そう思わないと落ち着きません」
「では、そういうことにしておく」
そういうこと。
その曖昧な言い方が、また胸に引っかかる。
わたくしは踵を返し、リタのもとへ戻った。
庭園の白い道を歩きながら、背中に視線を感じる。
レオンハルト様が見ている。
振り返らない。
振り返ってはいけない。
そう思ったのに。
角を曲がる直前、少しだけ振り返ってしまった。
東屋の中で、レオンハルト様がこちらを見ていた。
目が合う。
彼は何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ頷いた。
それだけ。
それだけなのに、胸がまた騒がしくなる。
「お嬢様」
リタが隣で言った。
「恋です」
「まだ何も言っていないわ!」
「お顔が言っておられます」
「今日は顔に厳しすぎるわ」
「お嬢様が分かりやすすぎるので」
「皆そればかり!」
リタは、少しだけ笑った。
わたくしは扇で顔を隠しながら、歩き続ける。
密会ではない。
事情聴取。
そう言い聞かせても、もう自分でも少し苦しくなっていた。
外側は安全だ。
そう思っていた。
でも、外側は寒い。
そう言われてしまった。
そして今、わたくしは、その寒さを少しだけ自覚してしまっている。
壁になりたい令嬢にとって、それはとても厄介な気づきだった。




