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推しカプを見守るため悪役令嬢に転生しましたが、なぜか冷血公爵の本命になりました 〜私は壁になりたいのに、攻略対象たちが全員こちらを見てくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第8話 自分の幸せは後回しで結構です

 壁になりたいなら、まず自分が崩れないようにしろ。


 冷血公爵レオンハルト・ヴァイスベルクは、そう言った。


 その言葉は、舞踏会の華やかな音楽よりも、令嬢たちの囁きよりも、なぜかずっと耳に残った。


 困る。


 非常に困る。


 わたくしは、推しカプを見守るために悪役令嬢ルートを回避しようとしているだけなのだ。

 それなのに、冷血公爵が妙にこちらの内側へ踏み込んでくる。


 しかも、厄介なことに。


 不快ではない。


 そこが一番困る。


 正論を言われるのは痛い。

 逃げ道を塞がれるのも痛い。

 自分の幸せはどこにあるのか、などと問われるのは、正直かなり痛い。


 なのに、彼の言葉には不思議と悪意がない。


 冷たい。

 鋭い。

 容赦はない。


 けれど、傷つけるためだけの言葉ではない。


 それが分かってしまうから、余計に困る。


「お嬢様」


 舞踏会の広間へ戻る途中、リタが隣で静かに言った。


「歩幅が乱れております」


「そう?」


「はい。公爵様とお話しした後から、右足だけ少し遅れております」


「足まで観察しないで」


「侍女でございますので」


「リタ、その言葉で何でも許されると思っていない?」


「お嬢様の奇行よりは許されるかと」


「奇行ではないわ。信念よ」


「壁になりたいという信念でございますか」


「そこだけ切り取ると、ずいぶん変ね」


「全体で見ても変です」


 リタは淡々としている。


 その容赦のなさに、少し安心する。

 少なくともリタは、わたくしが冷血公爵に何か言われて動揺していようが、ヒロイン様にお姉様と呼ばれて心の中で爆発していようが、いつも通り刺してくれる。


 変わらないものがあるのは、ありがたい。


 たとえそれが鋭い針でも。


「それで、お嬢様」


「なに?」


「公爵様とは、どのようなお話を?」


「わたくしの目的について」


「壁とお答えになったのですね」


「ええ」


「なぜ、そこで壁とお答えに?」


「本当のことだからよ」


「本当のことを言えばよい場面と、言わない方がよい場面がございます」


「言った後に気づいたわ」


「遅いです」


 リタの正論は、レオンハルト公爵とは別方向に痛い。


 わたくしは扇で口元を隠し、広間の奥を見た。


 ユリウス殿下は、セシリア様と話している。


 その隣にはダリオ様。


 よし。


 絵面としては悪くない。

 むしろ、とても良い。


 王太子殿下が柔らかく話しかけ、ヒロイン様が緊張しながらも笑い、騎士団長様が少し後ろで二人を見守る。


 これぞ王道。


 ここでわたくしが邪魔をしなければ、原作とは違う穏やかな交流が生まれるかもしれない。


 ……なのに。


 セシリア様は時々こちらを探している。


 見ないでください。


 いえ、見られると嬉しいです。

 嬉しいですが、今は見ないでください。


 わたくしは壁。

 壁はヒロイン様から視線を向けられて喜んではいけない。


 そもそも壁は喜ばない。


 やはり壁の道は険しい。


「お嬢様」


「今度は何?」


「難しい顔をなさっています」


「作戦の修正中よ」


「推し活の?」


「リタ」


「失礼いたしました。お嬢様語で申し上げれば、祈りの一種でございましたね」


「覚えなくていいところを覚えたわね」


 リタが少しだけ口元を緩めた。


 その時、セシリア様がこちらに気づき、ぱっと顔を明るくした。


「お姉様!」


 呼ばれた。


 大広間で。


 なかなか大きな声で。


 周囲の令嬢たちの扇が、一斉に少し上がった。


 これは、確実に噂になる。


 聖女候補がロゼリア公爵令嬢をお姉様と呼んだ。

 王太子の婚約者と聖女候補が親密。

 悪役令嬢予定のミリア、なぜかヒロイン様に懐かれる。


 前世なら面白すぎる展開だが、当事者としては胃が痛い。


 セシリア様は小走りになりかけ、すぐに所作を思い出したように歩幅を小さくした。

 かわいい。

 王宮作法に慣れていない小動物感がある。


 守りたい。


 いや、守るけれど、今は王太子殿下と会話を続けていただきたい。


「セシリア様」


 わたくしは笑顔で迎えた。


「殿下とのお話は?」


「はい、とてもお優しくて、緊張しなくてよいと仰ってくださいました。ダリオ様も、王宮で迷った時は近くの侍従に声をかけるよう教えてくださいました」


「それは良かったですわ」


 よし。


 交流は成立している。


 このまま殿下への好感度を上げていただければ――


「でも、やっぱりお姉様のおそばが一番落ち着きます」


 ああ。


 戻ってきた。


 帰巣本能のように戻ってきた。


 ヒロイン様、あなたの巣はわたくしではありません。


「セシリア様。殿下もグランツ卿も、とても素敵な方でしょう?」


「はい。本当に素敵な方々です」


「では、もっとお話しされては?」


「お話ししたいです。でも、お姉様も一緒がいいです」


 駄目だ。


 完全に三人会話を希望している。


 わたくしを挟まないで。

 わたくしは触媒になりたいのであって、混ざりたいわけではない。


 わたくしが返答に困っていると、ユリウス殿下がこちらへ歩いてきた。


 ダリオ様も一緒だ。


 そして少し離れたところで、レオンハルト公爵もこちらを見ている。


 なぜ皆こちらへ集まるのか。


 ここは集合場所ではない。

 わたくしは案内板ではない。


「ミリア」


 ユリウス殿下は、少し楽しそうな顔をしていた。


「セシリア嬢は、ずいぶん君を慕っているようだね」


「恐れ多いことですわ」


「恐れ多いという顔ではないな」


「殿下」


「嬉しそうだ」


 やめてください。


 見抜かないでください。


 わたくしは確かに嬉しいです。

 ヒロイン様に懐かれて嬉しくないオタクはいません。


 しかし、それを王太子殿下に見抜かれるのは非常に困る。


「お姉様は、とてもお優しいです」


 セシリア様が真剣に言った。


「私が皆様に笑われていた時、助けてくださいました。王宮は怖いところだと思っていたのですが、お姉様がいらっしゃるなら大丈夫かもしれないと思えたんです」


「セシリア様」


 やめて。


 そんなまっすぐ褒めないで。


 浄化される。


 悪役令嬢の中の悪役成分が消えていく。


 ユリウス殿下の目が、また柔らかくなる。


「ミリア。君は本当に、私の知らない顔をたくさん持っているんだな」


「殿下がご存じなかっただけですわ」


「それは、私が見ようとしなかったからかな」


 その声が少しだけ低くなった。


 わたくしは言葉に詰まった。


 こういう時のユリウス殿下は、原作の王太子というより、一人の青年に見える。


 完璧な笑顔の奥で、自分が誰かを見落としていたかもしれないと考える人。


 困る。


 ゲームの攻略対象が人間になっていく。


 いや、最初から人間なのだ。

 わたくしが勝手に、推しだのルートだの壁だのと言って、画面越しのように見ようとしていただけで。


 ダリオ様が静かに口を開いた。


「ロゼリア嬢は、以前とは確かに違うように見えます」


「グランツ卿まで」


「だが、悪い変化ではないと思う」


 え。


 推しから。


 悪い変化ではないと。


 言われた。


 わたくしは一瞬、呼吸を忘れた。


 リタが横から小声で言う。


「お嬢様、息を」


「しているわ」


「止まっておりました」


「推し……いえ、グランツ卿のお言葉が光栄で」


「今、何か危険な単語が聞こえかけました」


「聞こえていないわ」


 セシリア様が不思議そうに首を傾げる。


「推し?」


「気にしないでくださいませ。お祈りの一種です」


 リタが額に手を当てた。


「お嬢様、それで押し通すおつもりですか」


「ええ」


「無理がございます」


 ユリウス殿下が笑った。


「ミリアは、急に分からない言葉を使うようになったね」


「少々、独自の祈りに目覚めましたの」


「何を祈っているんだい?」


「皆様の幸せを」


 口にしてから、また失敗したと気づいた。


 また良い人っぽい発言になってしまった。


 案の定、セシリア様は感動した顔になり、ユリウス殿下は優しく目を細め、ダリオ様は少し驚いたようにこちらを見る。


 違う。


 違うのです。


 これは推し活の基本姿勢であって、慈愛の聖女ムーブではありません。


 わたくしは聖女ではない。

 悪役令嬢から壁へ転職希望の者です。


 その時、背後から低い声がした。


「その中に、君自身は入っているのか」


 レオンハルト公爵だった。


 いつの間に近づいたのか。

 本当に気配がない。


 心臓に悪い。


 わたくしは振り返り、微笑んだ。


「公爵様。突然背後から話しかけるのはお控えくださいませ。寿命が縮みます」


「君はなかなか縮まなそうだが」


「どういう意味ですの」


「しぶとそうだ」


「令嬢への評価ではありませんわね」


「君を普通の令嬢として扱うのは難しい」


「公爵様まで」


 ユリウス殿下が、少し面白そうに二人を見ている。

 ダリオ様は警戒と困惑。

 セシリア様は純粋に「仲が良いのですね」という顔をしている。


 違う。


 仲が良いわけではない。


 わたくしは取り調べ対象であり、公爵様は取調官である。

 ただ、取調官にしては時々言葉が妙に刺さるだけで。


 ユリウス殿下が口を開いた。


「レオンハルト公。君はずいぶんミリアを気にしているね」


「警備上、気になる人物です」


「さっきもそれを言っていた」


「評価は変わっていません」


「本当に警備上だけかな」


 殿下。


 その問いかけは、どちらの意味ですか。


 やめてください。


 王太子殿下が冷血公爵をからかう展開など、原作では見なかった。

 いや、見たい気もするが、今はわたくしが挟まれているので冷静に楽しめない。


 レオンハルト公爵は、ユリウス殿下を見た。


「殿下こそ、婚約者の変化には敏感であるべきでは」


「そうだね。だから、今見ている」


 殿下の視線が、わたくしに戻る。


「ミリア。君はレオンハルト公と親しいのか?」


 来た。


 ついに来た。


 プロット上でも来ると分かっていたが、実際に言われると心臓に悪い。


 親しい?


 親しいとは何か。


 レオンハルト公爵とは、今日の舞踏会で初めてまともに話した。

 ダンスをした。

 取り調べを受けた。

 壁願望を告白した。

 笑顔未満の表情を見た。

 そして「作った笑みより今の顔の方がいい」と言われた。


 ……親しいのか?


 いや、違う。


 違うはず。


 どちらかと言えば、危険人物として観察されているだけである。


「殿下。親しいというほどではございません」


 わたくしは慎重に答えた。


「では、何と呼べばいい?」


「監視対象と監視者、でしょうか」


 レオンハルト公爵がこちらを見る。


 ユリウス殿下が瞬きをする。


 ダリオ様が眉を寄せる。


 セシリア様が不安そうになる。


 リタが、小さく咳払いをした。


 しまった。


 また言い方を間違えた。


「いえ、今のは比喩ですわ」


「ロゼリア嬢」


 レオンハルト公爵が低く言う。


「私は君を監視対象とは言っていない」


「ですが、似たようなものでは」


「警戒対象だ」


「悪化しましたわ」


「正確になった」


「公爵様は本当に言葉を飾りませんのね」


「飾ってほしいのか」


「少しは」


「では、興味深い令嬢」


 今度はわたくしが黙った。


 それは。


 飾りすぎでは?


 いや、違う。


 興味深い、という言葉は危険である。

 冷血公爵が悪役令嬢に興味を持つ。

 そんな文章だけで、前世の読者ならコメント欄がざわつく。


 ユリウス殿下が、小さく笑った。


「なるほど。興味深い令嬢か」


「殿下、繰り返さないでくださいませ」


「なぜ?」


「響きがよろしくありません」


「私は悪くないと思うよ」


 やめて。


 王太子殿下まで面白がらないで。


 セシリア様が、目を輝かせている。


「お姉様は、皆様から大切にされているのですね」


「違います」


 また即答した。


 全員がこちらを見る。


 わたくしは咳払いした。


「いえ、その、大切にというより、珍しがられているだけですわ」


「珍しいのは確かだな」


 レオンハルト公爵が言う。


「公爵様」


「事実だ」


「事実でも、令嬢に向けて言うには棘があります」


「君は棘に強そうだ」


「しぶとそうの次は棘に強そう。だんだん植物扱いに近づいていませんか?」


「壁よりは生き物に近い」


「それは昇格ですの?」


「たぶん」


「たぶん」


 思わずやり取りしてしまった。


 しまった。


 レオンハルト公爵との会話は、妙にテンポが合ってしまう時がある。

 危険だ。


 セシリア様が、両手を胸の前で合わせた。


「やっぱり、仲がよろしいです」


「違います」


「違うのですか?」


「違います」


「でも、お姉様、公爵様とお話ししている時、少し楽しそうです」


 直球。


 セシリア様の直球が、わたくしの胸に突き刺さった。


「楽しくは」


 否定しようとして、詰まる。


 楽しくない。


 とは、言い切れない。


 怖いし、鋭いし、逃げ道を塞がれる。

 でも、会話をしていると妙に頭が働く。

 作り笑いでは通じないから、言葉を選ばざるを得ない。

 変なことを言えば突っ込まれる。

 誤魔化せば見抜かれる。


 疲れる。


 なのに、ほんの少しだけ、楽だ。


 おかしい。


 これでは、わたくしがレオンハルト公爵に心を許し始めているみたいではないか。


 そんな展開は困る。


 わたくしの目的は壁である。


 壁は冷血公爵に心を許さない。


「セシリア様。わたくしは公爵様に警戒されているだけですわ」


「警戒されている方と、そのようにお話しできるのですか?」


「……できます」


「お姉様はすごいです」


「褒めるところではないのです」


 ユリウス殿下が、声を立てずに笑っている。


 ダリオ様ですら、少しだけ表情を緩めている。


 いけない。


 場が和んでいる。


 わたくしを中心に。


 非常にいけない。


「ミリア」


 ユリウス殿下が言った。


「君は、自分が思っているより周りを笑わせているよ」


「それは良い意味でしょうか」


「良い意味だ」


「悪役令嬢としては複雑ですわ」


「悪役?」


 殿下が首を傾げた。


 しまった。


「いえ、言葉の綾です」


「君は今日、言葉の綾が多いな」


「ドレスと一緒に綾も多めにしてまいりましたの」


「うまく言ったつもりかい?」


「今のは少し失敗しました」


「うん。少しね」


 殿下が笑う。


 その笑顔は、以前より近い気がした。


 婚約者として距離を置きたいのに、会話の距離は縮まっている。

 なぜ。


 わたくしは本日何度目か分からない疑問を心の中で繰り返した。


 その時、セシリア様が急に小さく「あ」と声を出した。


「どうしました?」


「お姉様、私、先ほど神官長様にご挨拶するよう言われていたのを忘れていました」


「神官長様に?」


「はい。王宮礼拝堂の方で……でも、場所が分からなくて」


 よし。


 これは良い流れ。


 セシリア様を神官長の元へ案内するために、誰かが付き添う必要がある。

 ここでユリウス殿下が「私が案内しよう」と言えば、二人の交流がさらに――


「では、私が案内しましょう」


 言ったのはダリオ様だった。


 おお。


 それも良い。


 騎士団長とヒロイン様の交流。

 ダリオルートの芽。


 素晴らしい。


 ただし、わたくしの本命は推しカプ見守りであり、ヒロイン様とダリオ様の恋愛ルートに入るとまた複雑になるが、原作攻略対象なので許容範囲である。

 むしろ、セシリア様が誰かと仲良くなってくださるなら、それはそれで安心。


 わたくしは笑顔で頷いた。


「ええ。グランツ卿がご一緒なら安心ですわ」


 するとセシリア様が、わたくしを見た。


「お姉様は?」


 また戻ってきた。


「わたくしは、こちらで」


「でも」


「セシリア様」


 わたくしは、そっと彼女の手を取った。


「王宮では、頼れる方を増やしておくことも大切ですわ。グランツ卿は殿下の信頼厚い方です。きっと、あなたを安全に案内してくださいます」


 ダリオ様が少しだけ驚いた顔をする。


「ロゼリア嬢」


「何でしょう」


「そこまで信頼される覚えは、あまりない」


「わたくしが勝手に信頼しております」


「勝手に」


「はい」


 ダリオ様は、何とも言えない顔をした。


 ユリウス殿下が楽しそうに言う。


「よかったな、ダリオ」


「殿下、茶化さないでください」


「褒められているんだよ」


「……褒められ慣れていないわけではありません」


「なら、顔をそらさなくてもいいだろう」


「殿下」


 良い。


 とても良い。


 セシリア様もそのやり取りを見て、少し安心したように笑った。


「では、グランツ様。お願いしてもよろしいでしょうか」


「もちろんです。こちらへ」


 ダリオ様が丁寧に礼をし、セシリア様を案内する。


 セシリア様は数歩進んでから、振り返った。


「お姉様、また戻ってきますね」


「ええ。お気をつけて」


 戻ってくる宣言。


 可愛い。


 だが、やはりルートが違う。


 セシリア様とダリオ様が離れていく。


 その背中を見送りながら、わたくしは少しほっとした。


 ようやく、ヒロイン様が攻略対象と二人で動いている。


 これは前進。


 間違いなく前進。


「ミリア」


 ユリウス殿下が、隣に立った。


「はい」


「君は本当に、セシリア嬢を大切にしているんだね」


「当然ですわ。彼女は慣れない場所で頑張っていらっしゃいますもの」


「それだけ?」


「それだけ、とは」


「いや」


 殿下は、少しだけ首を振った。


「君は、誰かが傷つきそうになると、急に前に出るんだなと思って」


 わたくしは答えに困った。


 そうだろうか。


 前に出ているつもりはない。


 むしろ、下がりたい。

 壁になりたい。

 なるべく関わらず、見守っていたい。


 でも。


 セシリア様が笑われた時、足は勝手に動いた。


 ヒロイン様だから?

 破滅回避のため?

 原作を壊したくなかったから?


 それだけでは、たぶんない。


 前世のわたくしは、笑われる側の痛みを知っている。


 好きなものを、理解されないこと。

 大事にしている世界を、軽く扱われること。

 必死に立っているのに、「そんなことで」と笑われること。


 だから、見過ごせなかったのかもしれない。


「……前に出たつもりはありませんわ」


 わたくしは小さく言った。


「ただ、見ていられなかっただけです」


 ユリウス殿下は、黙ってわたくしを見た。


 その視線が優しくて、困る。


 すると、反対側からレオンハルト公爵の声がした。


「それを前に出ると言う」


 まだいた。


 この方、本当に気配を消すのが上手すぎる。


「公爵様」


「何だ」


「存在感があるのかないのか、はっきりしてくださいませ」


「必要な時だけ出している」


「便利ですわね」


「君も壁になりたいなら、見習えばいい」


「教えていただけますの?」


「無理だろう」


「早い」


「君は隠れるより、隠れようとして目立つ方だ」


 正論が痛い。


 ユリウス殿下が笑った。


「レオンハルト公は、ミリアに厳しいね」


「甘くしてよい理由がありません」


「でも、よく見ている」


 その言葉に、わたくしは少し固まった。


 レオンハルト公爵も、ほんのわずかに目を細める。


「殿下」


「何だい?」


「余計なことを」


「私は事実を言っただけだよ」


 ユリウス殿下が、爽やかに笑う。


 王子様の笑顔で、人の逃げ場を塞いでくる。

 この人も、この人で厄介だ。


 わたくしは咳払いした。


「殿下。そろそろ陛下のもとへ戻られなくてよろしいのですか」


「また追い払われている気がする」


「気のせいですわ」


「ミリア」


「はい」


「君は本当に、私と距離を置きたいんだね」


 声が少しだけ静かになった。


 わたくしは、すぐに答えられなかった。


 その場の空気が、わずかに変わる。


 レオンハルト公爵も黙る。


 ユリウス殿下は、笑っていなかった。

 責めているわけではない。

 けれど、見ている。


 王太子としてではなく、一人の青年として。


 わたくしは視線を落としそうになり、何とか踏みとどまった。


「……距離を置きたいです」


 正直に言った。


「でも、殿下を傷つけたいわけではありません」


「うん」


「殿下には、殿下らしくいていただきたいのです」


「それが、君の隣では難しいと?」


 また、その問い。


 わたくしは困った。


 ユリウス殿下の隣。


 それは、公爵令嬢ミリアがずっと望んできた場所だった。


 でも今のわたくしには、そこに立つ覚悟がない。

 王太子妃として国を背負う覚悟も、殿下の人生を自分のもののように扱う覚悟も。


 それに。


 殿下の隣には、ダリオ様がいる。

 いえ、主従としてだけれど。

 でも、その関係は大事にされるべきだと思う。


 わたくしは、静かに息を吸った。


「難しい、というより……わたくしは、殿下の隣を望む自分を、まだ信用できません」


 言った後で、少し驚いた。


 そんなことを考えていたのか、わたくしは。


 ユリウス殿下も、意外そうにこちらを見る。


「自分を?」


「はい」


「君はいつも、自信があるように見えた」


「そう見えるようにしていました」


 これは、前のミリアの記憶が言わせた言葉だった。


 自信があるように。

 余裕があるように。

 完璧な婚約者であるように。


 そうでなければ、不安だった。


 わたくしは悪役令嬢ミリアであり、前世の記憶を持つ別人でもある。

 その二つの感情が、今だけ少し混ざっている。


「だから、少し下がりたいのです。殿下を見るためにも、自分を見るためにも」


 ユリウス殿下は、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに言った。


「分かった」


「殿下」


「納得したわけではないよ。でも、君が何も考えずに私を避けているわけではないことは分かった」


「ありがとうございます」


「ただ」


 殿下は、少しだけ目を細めた。


「君が自分を見るために下がるのなら、レオンハルト公の方へ近づきすぎるのは少し気になるな」


 え。


 何ですか、その方向転換。


「殿下」


「何かな」


「公爵様とは、そういうことでは」


「そういうこと?」


 殿下がにこりとする。


 爽やか。


 しかし、圧がある。


 レオンハルト公爵が低く言った。


「殿下。余計な茶化しは」


「茶化しているつもりはないよ」


「十分茶化しています」


「君がそう反応するのも珍しい」


「……」


 レオンハルト公爵が黙る。


 ユリウス殿下はますます楽しそうだ。


 やめてください。


 王太子殿下と冷血公爵の会話が面白くなってきてしまう。

 今夜の供給、ジャンルが増えすぎです。


 わたくしは両手で扇を握った。


「殿下。公爵様は、わたくしを警戒していらっしゃるだけです」


「そうなのかい、レオンハルト公」


「現時点では」


「現時点では、ね」


 殿下の笑顔が深まる。


 レオンハルト公爵は無表情だが、少しだけ空気が冷えた。


 わたくしは内心で頭を抱えた。


 これは何?


 王太子殿下が冷血公爵をからかっている?


 それとも、わたくしをめぐって微妙な火花が散っている?


 いや、ない。


 そんなルートはまだ早い。

 というか、わたくしは壁志望だ。


 壁をめぐって火花を散らさないで。


 セシリア様とダリオ様が戻ってきたのは、ちょうどその時だった。


「お姉様、ただいま戻りました」


 セシリア様が嬉しそうに言う。


「神官長様にはお会いできましたか?」


「はい。ダリオ様が案内してくださいました。途中で道に迷いそうになったのですが、とても分かりやすく教えてくださって」


「それは良かったですわ」


 よし。


 ヒロイン様とダリオ様の交流、少し進展。


 そう思った瞬間、セシリア様が続けた。


「でも、私、やっぱりお姉様のおそばが一番安心します」


 駄目だ。


 戻ってきた。


 何をしても戻ってくる。


 リタが背後で静かに言った。


「お嬢様」


「何も言わないで」


「まだ何も」


「顔が言っているわ」


「では、顔だけで」


「やめて」


 ユリウス殿下が笑い、ダリオ様が少し困った顔をし、セシリア様がきょとんとし、レオンハルト公爵がこちらを見ている。


 結局また、全員の視線がわたくしへ集まっていた。


 なぜ。


 なぜこうなる。


 わたくしは壁になりたいだけなのに。


 壁にスポットライトを当てないでほしい。


 そんなわたくしの心中など知らず、レオンハルト公爵が静かに言った。


「ロゼリア嬢」


「はい」


「君は自分が思うより、場を動かしている」


「……動かしたくないのですが」


「それでも動いている」


「困りましたわ」


「なら、自覚しろ」


「何をですか」


「自分がもう、ただ見ているだけの位置にはいないことを」


 まただ。


 また、この人はそういうことを言う。


 わたくしは何も返せなかった。


 音楽が曲の終わりへ向かう。

 広間の人々が踊りを終え、拍手が起こる。


 その華やかな音の中で、わたくしだけが、少し立ち止まっていた。


 ただ見ているだけの位置にはいない。


 そんなことはない、と言いたかった。


 わたくしは壁だ。

 壁志望だ。

 観測者だ。

 推しの幸せを見守るための背景だ。


 でも。


 セシリア様はわたくしの袖を掴んでいる。

 ユリウス殿下はわたくしの言葉を待っている。

 ダリオ様は警戒しながらも、少し信頼を見せ始めている。

 レオンハルト公爵は、わたくしの逃げ道を見ている。


 わたくしは、もう物語に触れてしまっている。


 その事実を、少しだけ認めざるを得なかった。


「……公爵様」


「何だ」


「壁とは、難しいものですわね」


「向いていないと言ったはずだ」


「もう少し慰めてくださいませ」


「君は慰めると調子に乗りそうだ」


「ひどいですわ」


「事実だ」


 思わず、少し笑ってしまった。


 リタがすかさず言う。


「お嬢様、また頬が」


「リタ」


「はい」


「今日はもう、頬の話は禁止よ」


「かしこまりました。では耳が赤いです」


「そういうことではないの!」


 セシリア様が笑った。


 ユリウス殿下も。

 ダリオ様も、ほんの少しだけ。

 レオンハルト公爵は笑わなかったが、目が少しだけ柔らかくなった気がした。


 気のせいだ。


 気のせいにしよう。


 そうしないと、また余計な扉が開く。


 わたくしは扇で顔を隠しながら、心の中でつぶやいた。


 自分の幸せは後回しで結構。


 そう思っていた。


 今も、そう思っている。


 けれど。


 後回しにしたはずの何かが、勝手にこちらへ近づいてきている気がしてならなかった。


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