第7話 目的ですか? 壁です
王宮舞踏会の広間は、相変わらず眩しいほど華やかだった。
楽団の奏でる旋律。
踊る男女の衣擦れ。
扇の陰に隠された噂話。
果実酒の甘い香り。
遠くで笑う王太子殿下の声。
けれど、わたくしの周りだけ、妙に空気が重い。
原因は明白だった。
目の前に、冷血公爵レオンハルト・ヴァイスベルクが立っているからである。
しかも、その隣には王太子ユリウス殿下。
さらに騎士団長ダリオ様。
そして、袖をちょこんと掴んだままの聖女候補セシリア様。
どうしてこうなった。
わたくしはただ、ヒロイン様をいじめず、王太子殿下と騎士団長様の尊い関係を邪魔せず、静かに壁として生きたかっただけなのに。
現実は、壁に質問をしてくる。
しかも四方向から。
「ロゼリア嬢」
レオンハルト公爵が低い声で言った。
「少し話を聞かせてもらおう」
少し、という言葉ほど信用できないものはない。
前世の上司も「ちょっといい?」と言った時ほど、だいたい長かった。
ちょっとで済んだことなどない。
あれは人を呼び止めるための罠の言葉である。
そして今、わたくしは冷血公爵の「少し」に捕まっている。
「公爵様」
わたくしは、できる限り淑女らしく微笑んだ。
「今でなければなりませんか?」
「今がいい」
「舞踏会の最中ですわ」
「人目がある方が、君も妙なことはしにくいだろう」
「わたくしを何だと思っていらっしゃるのです」
「まだ判断中だと言った」
また判断中。
この方の中で、わたくしはずっと保留箱に入れられているらしい。
ユリウス殿下が、少し困ったように笑った。
「レオンハルト公。あまりミリアを怖がらせないでくれるかな」
「怖がっているようには見えません」
「いや、彼女は今、かなり頑張って笑っているよ」
やめてください、殿下。
なぜ見抜くのですか。
王太子殿下はヒロイン様の表情だけ見ていればよろしいのです。
悪役令嬢の笑顔の裏側まで丁寧に拾わないでください。
セシリア様が、心配そうにわたくしを見上げる。
「お姉様、大丈夫ですか?」
お姉様。
その一言で、危うく顔が緩みそうになった。
いけない。
今は冷血公爵に事情聴取されている場面だ。
ヒロイン様の呼び名で昇天している場合ではない。
「大丈夫ですわ、セシリア様。少し、公爵様とお話しするだけですから」
「でも……」
セシリア様の指が、わたくしの袖をきゅっと握る。
かわいい。
守りたい。
いえ、守る。
けれど、このままではセシリア様がますますわたくしに懐いてしまう。
だから本当は、ここで殿下やダリオ様にセシリア様を預けるべきなのだ。
わたくしは、そっとセシリア様の手に自分の手を重ねた。
「セシリア様。少しの間、殿下のおそばにいていただけますか?」
「王太子殿下の?」
「ええ。殿下はお優しい方ですし、グランツ卿もいらっしゃいます。何も心配はいりませんわ」
完璧。
自然な流れで、ヒロイン様を王太子殿下の近くへ。
これで少しでもユリウスルートの軌道修正を――
「お姉様がそうおっしゃるなら……」
セシリア様は不安げに頷きながらも、名残惜しそうにわたくしを見る。
違う。
その表情は殿下と話せる喜びではなく、お姉様と離れる寂しさでは?
どうして毎回そうなるのですか、ヒロイン様。
ユリウス殿下は優しく微笑み、セシリア様へ手を差し出した。
「セシリア嬢。では、少し私たちと話そうか。ミリアが戻るまで」
「あ、はい。よろしくお願いいたします」
「そんなに緊張しなくていい。私もさっき、ダリオに小言を言われていたところだから」
「殿下、そのような説明は不要です」
ダリオ様がすかさず言う。
良い。
すかさず。
これです。
セシリア様、見てください。
この自然なやり取り。
これが長年の信頼関係です。
お姉様など見ている場合ではありません。
そう思った瞬間、セシリア様がちらっとこちらを見た。
だから、こちらではなく。
そちらです。
そちらが本命候補です。
わたくしは心の中でセシリア様の視線を殿下側へ押し戻そうとしたが、もちろん視線は手で押せない。
「ロゼリア嬢」
レオンハルト公爵の声で、現実に引き戻される。
「行くぞ」
「……どちらへ?」
「少し外れた場所だ。ここでは話しにくい」
「公爵様。先ほど人目がある方がよいとおっしゃいませんでした?」
「君が妙なことをしにくい程度の人目があれば十分だ。大勢に聞かせる話ではない」
「わたくしが妙なことをする前提なのですね」
「違うのか?」
「違う、と胸を張りたいところですが、先ほどから自信が揺らいでおります」
「正直だな」
「今夜はもう、取り繕う体力が少なくなってまいりました」
そう言うと、レオンハルト公爵はほんの少しだけ目を細めた。
笑ったわけではない。
けれど、あの冷たい顔の中に、何かが一瞬だけ動いた気がした。
わたくしはそれを見なかったことにした。
冷血公爵の小さな変化を拾い始めると、危険である。
前世のわたくしなら、その一瞬を拡大解釈して一晩中考察していた。
今はそんなことをしている場合ではない。
レオンハルト公爵は歩き出した。
わたくしは少し遅れてついていく。
リタも当然のようについてこようとしたが、レオンハルト公爵が振り返った。
「侍女は少し離れていろ」
「お嬢様の侍女でございますので」
リタが即答する。
頼もしい。
だが、レオンハルト公爵も引かない。
「聞かれて困る話ではない。だが、令嬢の警戒心を下げるために侍女を隣に置く必要があるほど、私は信用がないか」
「はい」
リタ。
即答。
わたくしは思わず咳き込んだ。
レオンハルト公爵は、無表情のままリタを見る。
「正直だな」
「侍女でございますので」
「侍女とは正直である職なのか」
「主を守るためには」
「なるほど」
レオンハルト公爵は、わずかに考えたようだった。
「では、十歩離れてついてこい」
「五歩で」
「八歩」
「六歩」
「……七歩」
「承知いたしました」
何の交渉?
しかもリタ、勝った?
わたくしは二人を見比べた。
「リタ、あなた、公爵様と交渉できるのね」
「お嬢様の安全がかかっておりますので」
「頼もしいけれど、少し怖いわ」
「お嬢様ほどではございません」
「わたくしは怖くないでしょう」
リタは答えなかった。
答えないのも答えである。
ひどい。
レオンハルト公爵に案内されたのは、広間の端にある柱廊だった。
完全な密室ではない。
広間の音楽は聞こえるし、少し離れた場所には使用人や警備の騎士もいる。
ただ、周囲の会話は届かない。
ちょうどよい距離。
逃げようと思えば逃げられる。
だが逃げたら絶対に目立つ。
絶妙に逃げにくい場所だった。
この人、こういう位置取りが上手い。
壁志望としては学ぶべき点が多い。
いや、敵に学んでどうする。
レオンハルト公爵は柱のそばで足を止めた。
「さて」
「はい」
「君の目的を聞こう」
直球。
遠慮がない。
わたくしは微笑んだ。
「目的、と申されましても」
「ごまかすな」
「まだ何もごまかしておりません」
「ごまかす時の顔だった」
「公爵様は、やはり見すぎですわ」
「君は分かりやすすぎる」
今夜だけで何度言われただろう。
分かりやすい。
顔に出る。
妙な令嬢。
公爵令嬢としての外面に自信があったはずなのに、前世を思い出してからというもの、評価がぼろぼろである。
「殿下を避ける理由」
レオンハルト公爵が指を一本立てる。
「聖女候補を庇った理由」
二本目。
「グランツ騎士団長と殿下の距離を気にする理由」
三本目。
「そして、先ほど君が言った『皆がそれぞれ幸せであればよい』という言葉の意味」
四本目。
わたくしは無意識に扇を握りしめた。
全部、痛いところだ。
全部、本当のことを言えない。
「君は王太子の婚約者だ。これまでの君は、殿下への執着が強い令嬢だと聞いていた」
「……否定はいたしません」
「だが今夜の君は違う。殿下から距離を置き、聖女候補を守り、騎士団長を殿下のそばへ置こうとしているように見える」
「……」
「目的は何だ」
冷たい声。
けれど、不思議と責めるだけの声ではなかった。
彼は本当に、見極めようとしている。
わたくしが誰かを傷つける存在なのか。
王太子殿下に害をなすのか。
セシリア様を利用するのか。
それを確かめようとしている。
だったら、適当な嘘はつけない。
しかし、真実も言えない。
前世の記憶。
ゲームの世界。
悪役令嬢としての破滅。
推しカプ。
どれも口に出せば終わる。
わたくしは一度、深く息を吸った。
「わたくしは……」
「うん」
「壁になりたいのです」
言った。
言ってしまった。
しかも、わりと真剣な声で。
レオンハルト公爵は、黙った。
ものすごく黙った。
広間から聞こえる音楽だけが、妙に明るい。
七歩後ろにいるリタの気配が、完全に固まったのが分かった。
やめて、リタ。
その沈黙は痛い。
わたくし自身、言った瞬間に「あ、駄目なやつ」と思ったのだから。
「壁」
レオンハルト公爵が、ゆっくり繰り返した。
「はい」
「建築物の?」
「比喩ですわ」
「君は比喩に壁を選ぶのが好きだな」
「適切ですので」
「どのあたりが」
わたくしは扇を胸元に当てた。
もうここまで来たら、説明するしかない。
ただし、推しカプという言葉は使わない。
腐女子的な本音は隠す。
貴族社会でも通じるように、できるだけ綺麗な言葉へ変換する。
できる。
たぶん。
「壁とは、自ら語らず、相手の邪魔をせず、けれど空間を支える存在です」
「ほう」
「誰かと誰かが、静かに心を通わせる時。そこに余計な者が割って入れば、空気が壊れます」
「……」
「わたくしは、そのような余計な存在になりたくないのです」
言いながら、自分でも少し驚いた。
言葉だけなら、かなりまともに聞こえる。
わたくしは調子に乗った。
「殿下には殿下の大切な関係がございます。グランツ卿との信頼、これから出会う方々とのご縁。わたくしが婚約者という立場に胡坐をかき、それらを邪魔してよいはずがありません」
「それで、壁か」
「はい。見守る存在です」
「見守る」
「ええ。決して覗き見ではありません」
「誰も覗き見とは言っていない」
「先に否定しておきたくて」
「心当たりがあるのか」
「……場合によっては」
「あるのだな」
まずい。
自白に近い。
わたくしは咳払いした。
「とにかく、わたくしは殿下の幸せを邪魔したくありません。セシリア様も同じです。彼女は王宮に慣れない中、必死に立っていらっしゃいます。その方を、わたくしの嫉妬や立場で傷つけるなど、あってはならないことです」
「それは、以前の君ならしたと?」
鋭い。
レオンハルト公爵の問いは、いつも一段深いところへ落ちてくる。
わたくしは答えに詰まった。
以前のミリアなら。
原作のミリアなら。
きっとした。
傷つけた。
笑った。
追い詰めた。
だが、それを自分で認めるのは、やはり少し痛い。
「……したかもしれません」
わたくしは小さく言った。
「でも、したくないと思いました」
「なぜ」
「嫌だからです」
言葉が、思ったより子どもっぽくなった。
でも、それ以上うまく言えなかった。
「誰かが大切にしているものを、踏みにじる側になりたくありません。誰かが笑っている場所に、自分の都合で影を落としたくありません」
「だから自分が下がる?」
「はい」
「自分の幸せは?」
まただ。
この人は、どうしてそこへ戻ってくるのだろう。
わたくしは笑った。
いつものように、少し軽く。
「わたくしの幸せなど、後回しで結構ですわ」
レオンハルト公爵の目が、変わった。
ほんの少しだけ。
冷たさの奥に、何か硬いものが混じった。
「今のは笑って流すところではない」
「公爵様」
「君は先ほどから、他人の幸福ばかり口にする。殿下。騎士団長。聖女候補。では、君自身はどこにいる」
「壁です」
「ふざけているのか」
「半分ほど」
「残り半分は?」
「……本気です」
口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
本気。
そう。
わたくしは、たぶん本気で壁になりたい。
誰かの物語を見守る方が楽だ。
画面の外、舞台の外、恋の外、人生の外。
そこなら傷つかない。
自分が選ばれないことに落ち込まずに済む。
自分の好きなものを笑われても、直接は痛くない。
前世で、わたくしはそうやって生きていた。
仕事では役に立つ人間でいようとして、疲れたら物語の中へ逃げた。
推しの幸せを願うことで、自分の幸せを考えずに済ませていた。
今世でも、同じことをしようとしている。
悪役令嬢という立場から降りて、壁になろうとしている。
「君は」
レオンハルト公爵が言った。
「誰かを傷つけることを恐れているように見える」
「……」
「同時に、自分が傷つくことにも慣れているように見える」
「慣れてなど」
「では、なぜ自分の幸せを後回しでいいと言える」
言い返せなかった。
この人は本当に嫌なところを突く。
怒鳴るわけでも、責め立てるわけでもない。
ただ、逃げ道の前に静かに立つ。
わたくしは扇を握りしめた。
「公爵様は、取り調べがお上手ですわね」
「仕事柄な」
「納得してしまいました」
「それで、答えは?」
「……答えなければいけませんか」
「今はまだいい」
意外だった。
追及されると思っていた。
レオンハルト公爵は、わたくしを見たまま続ける。
「だが、いつかは答えた方がいい。私にではなく、君自身に」
「わたくし自身に」
「他人の幸福を願うのは悪いことではない。だが、それを理由に自分を消すなら、ただの逃げだ」
逃げ。
その言葉は、思ったより深く刺さった。
わたくしは笑おうとした。
いつものように軽く流そうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「……公爵様は、厳しい方ですわね」
「よく言われる」
「冷血公爵ですものね」
「その呼び名は便利だ。期待される優しさが少なくて済む」
何でもないように言ったその言葉に、少しだけ引っかかった。
期待される優しさが少なくて済む。
この人も、この人で、何かを遠ざけているのかもしれない。
そう思ってしまった自分に、わたくしは驚いた。
駄目だ。
冷血公爵の内面を考察し始めてはいけない。
これは危険な沼である。
前世のわたくしなら、確実に落ちていた。
レオンハルト公爵考察メモが三万字になっていた。
今は現実なので、落ちるわけにはいかない。
「公爵様」
「何だ」
「一つ、お願いがございます」
「内容による」
「わたくしのことを、あまり観察しないでいただけますか」
「無理だな」
「即答」
「君は不審だ」
「ひどいですわ」
「そして、放っておくと妙な方向へ走る」
「否定しきれないのが悔しいです」
「さらに、自分を守る気が薄い」
「それは……」
「だから見る」
短い言葉だった。
けれど、妙に重かった。
だから見る。
警戒なのか。
監視なのか。
それとも、ほんの少しだけ心配なのか。
分からない。
分からないが、胸の奥が落ち着かなくなった。
「公爵様」
「何だ」
「その言い方は、少しずるいですわ」
「そうか」
「はい」
「なら、覚えておく」
「改善は?」
「必要だと思えばする」
「たぶん、なさらないお返事ですわね」
「よく分かったな」
思わず、少し笑ってしまった。
すぐに扇で隠す。
しかし、やはり遅かった。
レオンハルト公爵の目が、ほんのわずかに和らいだ気がした。
「今の顔の方がいい」
「え?」
「作った笑みよりは」
心臓が、不意に変な音を立てた。
やめて。
そういうことを言わないでください。
あなたは冷血公爵でしょう。
短い言葉で人の逃げ道を塞ぎ、核心を突き、淡々と仕事をする人でしょう。
不意にそんな、普通に優しいようなことを言わないでほしい。
「公爵様」
「何だ」
「今の発言は、やや危険です」
「危険?」
「はい。解釈に困ります」
「解釈しなければいい」
「それができれば苦労しませんわ」
レオンハルト公爵は、わたくしを見た。
数秒、沈黙。
それから、ほんのわずかに口元が動いた。
笑った。
今度は、確かに。
本当に少しだけ。
他の人なら見逃すほど小さな変化だったかもしれない。
けれど、わたくしは見た。
冷血公爵が、笑った。
駄目だ。
これは危ない。
非常に危ない。
推しカプを見守るための人生に、別ジャンルの扉が開きそうになる。
やめて。
扉を閉めて。
今すぐ鍵をかけて。
「ロゼリア嬢?」
「いえ」
「顔が赤い」
「気のせいです」
「そうか」
「そうです」
「では、なぜ扇で顔を隠す」
「貴族令嬢の嗜みです」
「先ほどから嗜みの使い方が雑だな」
「緊急時ですので」
レオンハルト公爵は、もう一度ほんの少しだけ目を細めた。
笑ったのか、呆れたのか分からない。
分からないけれど、わたくしの心臓には悪い。
その時、広間の方からセシリア様の声が聞こえた。
「お姉様?」
振り返ると、セシリア様が少し離れたところからこちらを覗いていた。
ユリウス殿下とダリオ様も一緒だ。
ああ。
ヒロイン様を殿下のそばに置く作戦、やはり長続きしなかった。
セシリア様はわたくしの姿を見つけると、ほっとしたように笑った。
かわいい。
けれど困る。
ユリウス殿下は、こちらを見て何かを察したような顔をした。
ダリオ様は警戒と困惑が半分ずつ。
リタは七歩後ろで、すべて見ていた顔をしている。
わたくしは、急いで表情を整えた。
「公爵様。お話は、これでよろしいでしょうか」
「十分ではない」
「まだ?」
「だが、今夜はここまでにしておく」
「助かります」
「ただし、君の目的が壁だという話は、まだ納得していない」
「納得されても困りますわ」
「だろうな」
レオンハルト公爵は、広間へ戻る前に、もう一度わたくしを見た。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「壁になりたいなら、まず自分が崩れないようにしろ」
それだけ言って、彼は歩き出した。
黒い礼服の背中が、広間の光の中へ戻っていく。
わたくしはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
壁になりたいなら、自分が崩れないようにしろ。
また、変な言葉を置いていく。
冷血公爵なのに。
冷たいだけではない。
それがとても厄介だった。
リタが、七歩の距離を破ってそっと近づいてくる。
「お嬢様」
「リタ」
「ご無事ですか」
「ええ。たぶん」
「たぶん、でございますか」
「公爵様に取り調べを受けたわ」
「存じております」
「見ていたものね」
「七歩の距離で」
「どうだった?」
「お嬢様が壁になりたいという話をなさったあたりで、私は少し遠い目をしておりました」
「戻ってきて」
「努力いたしました」
リタはわたくしの顔をじっと見た。
「それと」
「何?」
「お嬢様」
「だから何?」
「頬が赤いです」
「気のせいよ」
「公爵様にも言われておりました」
「二人して同じことを言わないで」
「事実でございますので」
わたくしは扇で顔を隠した。
広間では、ユリウス殿下がセシリア様に何かを話しかけ、ダリオ様がその隣で静かに見守っている。
それは、とても良い光景だった。
わたくしが望んだものに近い。
近いはずなのに。
なぜか今、頭の中にはレオンハルト公爵の小さな笑みが残っている。
困る。
非常に困る。
わたくしは、推しカプを見守る壁になりたいのだ。
冷血公爵の笑顔を思い出して動揺する壁など、聞いたことがない。
リタが小さくため息をついた。
「お嬢様」
「今度は何?」
「壁への道は、かなり遠そうでございますね」
わたくしは、何も言い返せなかった。




