第6話 ヒロイン様、そのルートは存在しません
ヒロイン様に「お姉様」と呼ばれた。
その事実は、わたくしの中で静かに、しかし確実に爆発していた。
表面上のわたくしは、公爵令嬢らしく微笑んでいる。背筋を伸ばし、扇を片手に、舞踏会場の飲み物卓のそばで優雅に立っている。
だが内心は違う。
大変なことになっていた。
お姉様。
お姉様である。
原作ヒロイン、セシリア・フローラ様から、悪役令嬢であるわたくしが、お姉様と呼ばれた。
そんなルートは知らない。
少なくとも、わたくしが前世で遊び尽くした『聖冠のエリュシオン』には存在しなかった。
ユリウス王太子ルート。
ダリオ騎士団長ルート。
魔導師ルート。
聖職者ルート。
隠し要素っぽい冷血公爵レオンハルト様の未実装気配。
しかし、「悪役令嬢ミリアお姉様ルート」はなかった。
いや、あったら前世のわたくしはかなり喜んだと思う。
喜んだと思うが、今は困る。
なぜなら、セシリア様はヒロインである。
ヒロインは、攻略対象と出会い、交流し、恋をして、物語を動かす存在だ。
そのヒロイン様が、わたくしの袖をちょこんと掴んでいる。
かわいい。
……違う。
かわいいけれど、違う。
「あの、お姉様」
セシリア様が、遠慮がちにわたくしを見上げた。
やめて。
その呼び方、胸に来る。
「何でしょう、セシリア様」
「私、こういう場で、どなたにご挨拶すればいいのか分からなくて……もしご迷惑でなければ、少しだけ一緒にいていただけませんか?」
上目遣い。
不安げな声。
小動物のように揺れる瞳。
守りたい。
いや、守る。
だが、守ることと囲い込むことは違う。
ヒロイン様は王太子殿下と出会うべきなのだ。
ここでわたくしに懐きすぎるのは、物語の流れとして非常によろしくない。
わたくしは、微笑みながらセシリア様の手をそっと離した。
心が痛い。
ヒロイン様の小さな手を離すのは、前世で通販カートから欲しい本を一冊削除する時のような痛みがある。
「もちろん、ご一緒いたしますわ。ただ、セシリア様。せっかく王宮にいらしたのですから、ぜひ王太子殿下にもご挨拶を」
「王太子殿下、ですか?」
「ええ」
来た。
ここで自然にユリウス殿下へ誘導する。
ヒロイン様と王太子殿下の初期交流。
これを成立させることが、今のわたくしにとって最重要事項の一つである。
わたくしは広間の奥をちらりと見た。
ユリウス殿下は、貴族たちとの挨拶を終えたところらしい。少しだけ肩の力が抜けている。隣にはダリオ様が控えている。相変わらず、よい立ち位置。
今だ。
セシリア様を殿下のもとへ導く。
わたくしは一歩下がる。
殿下とセシリア様が会話する。
ダリオ様がその様子を見守る。
わたくしは壁になる。
完璧。
今度こそ完璧。
「殿下はとてもお優しい方ですわ。初めての方にも丁寧に接してくださいますし、セシリア様のような聖女候補には、きっと温かいお言葉をかけてくださるはずです」
「お姉様は、殿下のことをよくご存じなのですね」
「婚約者ですので」
言ってから、少し引っかかった。
婚約者。
そうなのだ。
わたくしはまだ、ユリウス殿下の婚約者である。
この状態でヒロイン様を殿下に近づけるのは、冷静に考えるとなかなか複雑な構図だ。
婚約者が自分の婚約者にヒロインを紹介する。
前世なら、絶対にコメント欄がざわつく。
「ミリア、何してるの?」
「自分からルートを開けにいった」
「壁志望の行動力が怖い」
と書かれるに違いない。
けれど、やらなければならない。
破滅回避。
推しカプ保護。
ヒロイン様幸せ化。
三つのために。
セシリア様は、グラスを両手で持ったまま、もじもじと視線を下げた。
「でも、王太子殿下なんて、私が急にお話ししてよい方なのでしょうか」
「もちろんですわ。あなたは聖女候補として正式に招かれているのですもの」
「でも……」
「心配はいりません。わたくしがご紹介いたします」
「お姉様が?」
「ええ」
セシリア様の顔がぱっと明るくなる。
あ。
違う。
これは殿下に会える嬉しさではなく、わたくしと一緒に行ける嬉しさでは?
まずい。
方向が違う。
「セシリア様。殿下は本当に素敵な方ですのよ」
「はい」
「お話もお上手ですし、お立場の重さを感じさせない柔らかさをお持ちです」
「はい」
「それに、笑顔も大変麗しくて」
「はい。お姉様がそうおっしゃるなら、きっと素敵な方なのですね」
違う。
あなた自身が殿下に興味を持ってください。
わたくし経由で殿下を評価しないでください。
わたくしは内心で頭を抱えつつ、笑顔を保った。
「では参りましょうか」
「はい、お姉様」
だから、その呼び方。
わたくしの理性が削れる。
わたくしはセシリア様を伴って、ユリウス殿下の方へ歩き出した。
周囲の視線が、また集まる。
当然だろう。
王太子の婚約者ミリアが、聖女候補セシリアを連れて王太子へ向かっている。
原作を知っているわたくしからすれば、かなり歴史的な場面だ。
ただし、今のこの状況は原作とまったく違う。
原作では、ミリアはセシリアを見下し、ユリウス殿下に近づけまいとする。
だが今は、わたくし自らセシリア様を殿下へ紹介しようとしている。
よし。
悪役令嬢ルートは完全に破壊できている。
……できているはず。
ユリウス殿下はこちらに気づくと、穏やかに微笑んだ。
「ミリア」
うん。
今日何度目か分からないが、その声は良い。
さすが王太子。
声の柔らかさが高級絹である。
けれど今は、わたくしではなくセシリア様を見ていただきたい。
「殿下。ご歓談中、失礼いたします」
「君ならいつでも歓迎するよ」
違う。
その台詞もわたくし用ではありません。
わたくしは微笑みを崩さないまま、半歩横へずれた。
セシリア様が前に出やすいように。
「こちら、本日王宮へお招きされた聖女候補、セシリア・フローラ様です」
セシリア様は慌てて礼をした。
「セ、セシリア・フローラと申します。王太子殿下にお目にかかれて光栄です」
声が少し裏返った。
かわいい。
いや、そこではない。
ユリウス殿下は優しく笑った。
「顔を上げて。君のことは聞いている。王宮に来て間もないのに、よく頑張っているそうだね」
「い、いえ、そんな。まだ失敗ばかりで」
「失敗しない者はいないよ。私も昔、初めて外交使節の前で挨拶した時、国名を一つ間違えた」
「殿下が、ですか?」
「うん。隣にいたダリオが、あとで顔を真っ青にしていた」
セシリア様が、驚いたようにダリオ様を見る。
ダリオ様は苦い顔をした。
「あれは真っ青にもなります。殿下は相手国の王弟殿下の前で、隣国の名を口にされました」
「緊張していたんだ」
「その後の訂正を私に任せたではありませんか」
「君ならできると思って」
「やりましたが、二度とごめんです」
来た。
自然な主従会話。
セシリア様の前で、殿下とダリオ様の信頼関係が開示されている。
素晴らしい。
しかもヒロイン様も聞いている。
これです。
これなのです。
セシリア様、見てください。
このお二人の距離感。
互いへの信頼。
殿下が柔らかく笑い、ダリオ様が真面目に返しながらも結局支えてしまう、この絶妙な関係性を。
さあ、どうぞ。
この尊さを浴びてください。
そして殿下へ、もしくは二人の関係性へ興味を――
「お姉様」
「はい?」
セシリア様が、小声でわたくしに囁いた。
「王太子殿下も騎士団長様も、とても素敵な方ですね」
「ええ、そうでしょう?」
「でも、お姉様が笑っているお顔の方が、私はほっとします」
……。
違う。
だから違う。
なぜこちらへ戻ってくるのですか、セシリア様。
今の流れは、殿下とダリオ様の魅力を感じる場面でした。
わたくしの笑顔を評価する場面ではありません。
ユリウス殿下が、わたくしたちの小声に気づいたように目を細める。
「ずいぶん仲良くなったようだね」
「ええ。セシリア様はとても素直で可愛らしい方ですわ」
つい本音が出た。
セシリア様が真っ赤になる。
「お、お姉様!」
だから、かわいい。
いけない。
このままではわたくしがヒロイン様を囲い込んでしまう。
わたくしは慌てて話題を戻した。
「殿下、セシリア様はまだ王宮に慣れていらっしゃらないようです。殿下からも、何かお言葉を」
「そうだね」
ユリウス殿下はセシリア様に視線を向けた。
「セシリア嬢。困ったことがあれば、遠慮なく周囲を頼るといい。王宮は慣れるまで息苦しい場所だ。私も幼い頃は、柱の陰に隠れて菓子を食べていた」
「殿下がですか?」
「うん。ダリオに見つかって怒られた」
「殿下、事実ではありますが、ここで話す必要は」
「彼女を安心させるためだよ」
「殿下の威厳が減ります」
「たまには減らした方が親しみやすいだろう?」
ダリオ様が深いため息をついた。
セシリア様はついに笑った。
よし。
今の笑顔は殿下へのもの。
たぶん。
おそらく。
そうであってほしい。
わたくしはそっと一歩下がった。
今だ。
このまま、三人に会話していただく。
わたくしはフェードアウト。
壁になる。
完璧。
「お姉様?」
セシリア様がすぐにわたくしを見る。
早い。
反応が早い。
「どちらへ?」
「少し、飲み物を取りに」
「では私も」
「セシリア様」
わたくしはにこりと笑った。
「殿下とお話しになっていてくださいませ」
「でも」
「大丈夫です。殿下もグランツ卿も、お優しい方ですわ」
「はい。それは分かるのですが……」
セシリア様は、不安そうにわたくしを見る。
「お姉様がいないと、少し心細くて」
かわいい。
かわいいが、困る。
わたくしは今、ヒロイン様の自立と恋愛ルート進行を応援しているのです。
お姉様依存ルートに入ってはなりません。
リタなら、ここで「すでに手遅れです」と言うだろう。
言わなくても聞こえる。
リタの幻聴がする。
ユリウス殿下が、困ったように笑った。
「ミリア。無理に離れなくてもいいんじゃないかな」
「殿下」
「セシリア嬢は君に懐いているようだし」
懐いている。
その言葉が胸に刺さる。
嬉しい。
とても嬉しい。
しかし駄目なのです、殿下。
懐く先が違うのです。
「いえ、わたくしは」
「ミリアが誰かをこんなふうに庇って、気遣うところを初めて見た」
ユリウス殿下が、まっすぐにこちらを見た。
その目が、妙にやわらかい。
まずい。
また何かが上がっている。
好感度が。
なぜ。
わたくしはヒロイン様を殿下へ紹介しているのに、なぜ殿下の興味がこちらへ戻ってくるのですか。
「君は、本当に変わったね」
「……そうでしょうか」
「うん。前の君なら、セシリア嬢を私に紹介しようとはしなかったと思う」
それは、そう。
原作ミリアなら絶対にしない。
しかし、その事実を殿下本人に言われると、少しだけ胸が痛む。
わたくしが変わったということは、前のミリアを知っている人たちには、その違いが見えているということだ。
前のミリア。
殿下に執着していた、悪役令嬢ミリア。
わたくしは彼女ではない。
けれど、彼女でもある。
身体に残る記憶が、時々それを教えてくる。
殿下に褒められたい。
認められたい。
選ばれたい。
そんな気持ちが、心の底にまだ少し沈んでいる。
わたくしは、その気持ちを無視して、笑った。
「人は、変わることもありますわ」
ユリウス殿下は、わたくしを見つめたまま言った。
「その変化が、君を苦しめていないならいい」
言葉が詰まった。
困る。
王太子殿下は、時々まっすぐすぎる。
こちらが推しカプ見守りのためにルートを調整しようとしているだけなのに、なぜそんな人間らしい心配をしてくるのか。
あなたは、もっとこう、ヒロイン様に優しくしていればいいのです。
わたくしの内面に踏み込まないでくださいませ。
黙り込んだわたくしを、ダリオ様がじっと見ていた。
彼は何も言わない。
けれど、その視線には少しだけ警戒がある。
当然だ。
殿下の婚約者が急に変わり、殿下から距離を置き、聖女候補を庇り、妙な行動をしている。
騎士団長として警戒しない方がおかしい。
むしろその警戒心、非常に良い。
殿下を守る忠義が感じられます。
ただし、対象がわたくしなのが問題だ。
「ロゼリア嬢」
ダリオ様が低く言った。
「はい」
「セシリア嬢を庇ったことには感謝する。だが、殿下を巻き込んで何かをしようとしているなら」
「ダリオ」
ユリウス殿下が制した。
だが、ダリオ様は真面目な顔のままだ。
「殿下。確認は必要です」
ああ。
素晴らしい。
忠臣。
推し。
しかし、わたくしは今、詰められている。
状況が複雑すぎる。
セシリア様が慌てて口を開いた。
「違います! お姉様は、私を助けてくださっただけです」
「セシリア様」
「本当に、お優しい方です。私、あのままだったら、きっと泣いてしまっていました。でも、お姉様が来てくださって……」
セシリア様は必死だった。
小さな手でグラスを握りしめ、わたくしを庇ってくれている。
ヒロイン様に庇われる悪役令嬢。
この構図、やはり未実装ルートである。
ダリオ様は少しだけ表情を和らげた。
「……失礼した。責めるつもりではなかった」
「いえ、グランツ卿のお立場なら当然ですわ」
わたくしはそう答えた。
これは本心だ。
「殿下を守る方が、殿下の周囲の変化に敏感であるのは当然です。むしろ、安心いたしました」
「安心?」
「はい。殿下のおそばには、ちゃんと殿下を見てくださる方がいらっしゃるのだと」
ダリオ様が黙った。
ユリウス殿下も、少し驚いた顔をした。
あれ。
また何か変なことを言っただろうか。
いや、言葉自体はまともなはずだ。
ただ、わたくしの中では「やはり殿下の隣はダリオ様が最適」という意味が含まれている。そこが問題なだけで。
ダリオ様は、少し視線を逸らした。
「……俺は、職務を果たしているだけだ」
「その職務を、心から大切になさっているのでしょう」
「ロゼリア嬢」
「それは、とても得がたいことだと思いますわ」
言った瞬間、ダリオ様の表情がほんの少し変わった。
驚き。
戸惑い。
そして、わずかな照れ。
うわ。
希少表情。
今の表情、保存したい。
いや、目に焼き付けるしかない。
わたくしが内心で静かに崩れ落ちていると、ユリウス殿下がくすりと笑った。
「ミリアは、ダリオをずいぶん買っているんだね」
「もちろんですわ」
即答してしまった。
ダリオ様がこちらを見る。
しまった。
熱量が出すぎた。
「グランツ卿のように、主をきちんと見て、必要な時に支え、時には苦言を呈する方は貴重です。殿下にとって、とても大切な方だと存じます」
言葉を整えた。
整えたが、少し熱がこもった。
ダリオ様は、完全に困った顔をしている。
ユリウス殿下は、なぜか楽しそうだ。
「ダリオ、褒められているよ」
「殿下、茶化さないでください」
「珍しいな。君が言葉に詰まるなんて」
「……ロゼリア嬢の言葉が予想外だっただけです」
良い。
このやり取りは非常に良い。
セシリア様も、それを見て微笑んでいる。
よし。
今度こそ、王太子・騎士団長・ヒロインの良い空気が形成されている。
わたくしはそっと後退しようとした。
だが、セシリア様がまたわたくしの袖を掴んだ。
早い。
本当に早い。
「お姉様、どこへ?」
「少し、空気になりに」
「空気?」
「いえ、飲み物を」
「では私も」
駄目だ。
完全に懐かれている。
ユリウス殿下が笑う。
「ミリア、諦めた方がいいんじゃないかな」
「何をでしょう」
「セシリア嬢は、君のそばにいたいようだ」
「それは大変光栄ですが、殿下とお話しされるのも大切かと」
「私は逃げないよ」
違う。
そういうことではない。
殿下が逃げないのではなく、ルートが逃げているのです。
わたくしは、心の中で机を叩いた。
その時だった。
背後から、低い声が落ちてきた。
「ずいぶん賑やかだな」
レオンハルト公爵。
いつの間に。
この方、気配が静かすぎる。
心臓に悪い。
「ヴァイスベルク公爵様」
わたくしが礼をすると、セシリア様も慌てて頭を下げた。
「あ、あの、セシリア・フローラです」
「知っている」
短い。
冷たい。
セシリア様の肩が少し縮こまる。
わたくしは反射的に半歩前へ出た。
自分でも驚くほど自然に。
レオンハルト公爵の視線が、わたくしに向く。
「……君は、すぐに庇うな」
「公爵様のお声が少々冷たかったので」
「元からだ」
「自覚がおありなのですね」
「否定するほどではない」
セシリア様が、不安そうにわたくしの背中を見る。
わたくしは少しだけ振り返り、笑いかけた。
「大丈夫ですわ。公爵様はお声が冷たいだけで、いきなり噛みついたりはなさいません」
「お姉様、犬の話ですか?」
「似たようなものです」
「違うだろう」
レオンハルト公爵が即座に訂正した。
その反応が少しだけおかしくて、セシリア様が小さく笑った。
空気が緩む。
レオンハルト公爵は、わたくしをじっと見る。
「君は人を安心させるのが上手いのか、混乱させるのが上手いのか、分からないな」
「できれば前者で評価してくださいませ」
「今のところ、両方だ」
「複雑な評価ですわね」
「君自身が複雑だからだ」
この人は本当に、言葉が短いのに逃げ道がない。
ユリウス殿下が、そんなわたくしたちを見て少し目を細めた。
「レオンハルト公も、ミリアに興味があるようだね」
やめてください、殿下。
その言い方は非常に誤解を生みます。
レオンハルト公爵は表情を変えない。
「警備上、気になる人物ではあります」
「気になる人物」
わたくしは反射的に言った。
「それは褒め言葉ではございませんね」
「まだ判断中だ」
「また判断中」
「君は判断材料を増やし続けている」
「わたくしとしては、減らしているつもりなのですが」
「逆だな」
リタが、少し離れたところで静かに目を伏せた。
あれは「その通りです」の顔だ。
味方がいない。
いや、セシリア様は味方だ。
ただし味方になってほしい方向が少し違う。
セシリア様は、わたくしの袖を握ったまま、きらきらした目で言った。
「お姉様は、皆様と仲がよろしいのですね」
「いいえ」
即答した。
全員がこちらを見る。
しまった。
即答が強すぎた。
「いえ、その、仲が良いというより、皆様が大変お優しいだけで」
「ミリア」
ユリウス殿下が笑いをこらえるような顔をした。
「君はさっきから、私たちを遠ざけたいのか近づけたいのか分からないな」
「わたくしにも少し分からなくなってまいりました」
「正直だね」
「混乱しておりますので」
「だろうね」
殿下が楽しそうだ。
なぜ楽しそうなのですか。
わたくしはかなり真剣に困っているのですが。
ダリオ様が、静かに言った。
「ロゼリア嬢は、悪意があるようには見えません」
その一言に、胸が少し止まった。
推しに。
悪意がないと。
言われた。
心が浄化されそう。
だがダリオ様は続けた。
「ただ、目的が分からない」
浄化の直後に現実へ戻された。
その通りです。
目的は言えません。
推しカプを見守り、ヒロイン様を正しいルートへ戻し、悪役令嬢としての破滅を回避したいだけです。
これを口に出せば、たぶん王宮医師を呼ばれる。
レオンハルト公爵が、低く言った。
「私も同感だ」
ユリウス殿下も、穏やかに頷く。
「私も、少し知りたいかな。君が何を考えているのか」
セシリア様まで、無邪気に見上げてくる。
「私も、お姉様のこと、もっと知りたいです」
包囲された。
完全に。
王太子、騎士団長、冷血公爵、ヒロイン様。
攻略対象たちとヒロイン様が、全員こちらを見ている。
タイトル回収の気配がする。
違う。
見ないで。
わたくしは壁です。
壁に質問しないでくださいませ。
わたくしは、扇をぎゅっと握った。
そして、できるだけ優雅に微笑んだ。
「わたくしの目的など、大したものではございませんわ。ただ、皆様がそれぞれ幸せであればよいと思っているだけです」
言ってから、しまったと思った。
あまりにも良い人みたいな発言である。
ユリウス殿下の目が柔らかくなる。
セシリア様は感動した顔をする。
ダリオ様は少し意外そうにする。
レオンハルト公爵は、さらに深くわたくしを見た。
完全に逆効果。
わたくしは内心で叫ぶ。
違います。
これは善人ムーブではありません。
推し活です。
推しの幸せを願うオタクの基本姿勢です。
しかし、もちろん言えない。
セシリア様が、そっとわたくしの手を握った。
「お姉様は、やっぱりお優しいです」
わたくしは、もう否定する気力を失いかけていた。
その時、レオンハルト公爵が一歩近づいた。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「少し話を聞かせてもらおう」
低い声。
逃げ道を塞ぐ声。
わたくしは固まった。
「今、ここででしょうか」
「今でなくともいい。だが、遠くないうちに」
「内容は」
「君の目的についてだ」
やはり。
来た。
冷血公爵に、完全に目をつけられた。
セシリア様が不安そうにわたくしを見る。
ユリウス殿下は興味深そう。
ダリオ様は警戒を隠さない。
わたくしは微笑んだ。
笑うしかなかった。
「……お手柔らかにお願いいたしますわ」
「それは、君の答え次第だ」
レオンハルト公爵は、淡々とそう言った。
怖い。
顔が良い。
怖い。
わたくしは心の中で静かに壁へ祈った。
神様。
わたくしは、ただ推しカプを見守りたかっただけなのです。
なのにどうして。
ヒロイン様には懐かれ、王太子殿下には興味を持たれ、騎士団長様には警戒され、冷血公爵様には取り調べの予約を入れられているのでしょうか。
誰か、このルートの攻略情報をください。
切実に。




