第5話 ヒロイン様をいじめるなんて解釈違いです
原作ヒロイン、セシリア・フローラ。
前世で何度も画面越しに見た少女が、今、わたくしの目の前にいる。
淡い金髪は、王宮の灯りを受けて柔らかく光っていた。
大きな瞳は不安げに揺れている。
ドレスは清楚だが、周囲の令嬢たちと比べれば明らかに控えめで、装飾も少ない。
けれど、その質素さが逆に彼女らしかった。
セシリア様は、平民出身の聖女候補。
華やかな社交界に慣れていない。
けれど、誰かを助けたいと願う心だけはまっすぐで、原作ではその優しさが多くの人の心を動かしていく。
ヒロイン様。
本物。
生きている。
いま目の前で、緊張して手を握りしめている。
ああ、駄目。
拝みたい。
いや、駄目。
公爵令嬢が舞踏会場で突然ヒロインに向かって拝み始めたら、さすがに悪役令嬢より先に奇行令嬢として名を残す。
わたくしは、淑女の笑みを何とか保った。
「ようこそ、王宮舞踏会へ」
わたくしがそう言うと、セシリア様はしばらく瞬きをした。
完全に、予想していなかった顔である。
それはそうだろう。
周囲の令嬢たちは、彼女を品定めするように見ていた。
平民出身。
聖女候補。
王宮に招かれた異質な存在。
そんな空気の中で、王太子の婚約者である公爵令嬢ミリア・ロゼリアが近づいてきたのだ。
原作を知っているわたくしからすれば、この場面のミリアは敵である。
嫌味を言い、恥をかかせ、セシリア様に「貴族社会の洗礼」を浴びせる。
そして読者やプレイヤーから「お前は何をしている」と怒られる。
当然である。
わたくしも前世で怒った。かなり怒った。画面に向かって「やめなさいミリア、それはルート破滅一直線よ」と言った記憶がある。
まさか、そのミリア本人になるとは思わなかったが。
「あ、あの……」
セシリア様が小さく声を出した。
「私、セシリア・フローラと申します。今日は、その、王宮の方にお招きいただいて……」
声が少し震えている。
それだけで胸が痛い。
ヒロイン様をこんな場所で一人にするなんて、この王宮の案内係は何をしているのですか。職務怠慢では? いや、原作イベントの都合と言えばそれまでだけれど、今のわたくしはその都合に従う気はない。
「存じておりますわ。聖女候補として王宮に上がられた方でしょう?」
「は、はい。でも、まだ候補で……私、本当に聖女と呼ばれるようなことは何も」
「候補であることと、あなたが今ここで礼を尽くされるべき方であることは別ですわ」
周囲がざわついた。
セシリア様も、驚いたようにわたくしを見た。
可愛い。
いや、今はそこではない。
わたくしは、ゆっくりと周囲の令嬢たちへ視線を向けた。
数人の令嬢が、扇で口元を隠している。
その中でも、特に声が大きかった栗色の髪の令嬢――確か、モルガン伯爵家の令嬢だったはず――が、少しだけ顎を上げた。
「ロゼリア様は、お優しいのですね。ですが、王宮舞踏会は誰でも気軽に馴染める場ではございませんもの。少しばかり、場の空気を学んでいただく必要もあるのでは?」
なるほど。
嫌味を絹で包んだような言い方だ。
前世の職場にもいた。
「あなたのためを思って」と言いながら、だいたい自分の気分のために人を刺す人。
わたくしは微笑んだ。
「まあ。モルガン嬢は、ずいぶん教育熱心でいらっしゃるのね」
「いえ、そのような」
「では、わたくしからも一つ教えて差し上げてよろしいかしら」
モルガン嬢の笑みが、少し固まった。
「何を、でしょう?」
「王宮舞踏会において最も恥ずべきことは、慣れない方が足を震わせることではありませんわ」
わたくしは、扇を閉じた。
ぱちん、と小さな音が響く。
「王宮に招かれた客人を、招かれ慣れている者たちが寄ってたかって笑うことです」
空気が止まった。
周囲の令嬢たちの顔色が変わる。
セシリア様は、息をのんだ。
少し離れた場所で、リタが無表情のまま、ほんのわずかに背筋を伸ばしたのが見えた。
あれはたぶん「お嬢様、言いましたね」という反応である。
ええ、言いました。
もう引けない。
「わ、私たちは笑ったつもりでは」
別の令嬢が慌てて言う。
わたくしは首を傾げた。
「あら。では、先ほどの『あのドレスで王宮舞踏会に?』というお言葉は、純粋な称賛でしたの?」
「そ、それは」
「『所作がぎこちない』というお言葉も、優しい助言でしたのね?」
「ロゼリア様、聞いていらしたのですか」
「ええ。耳は二つありますので」
変な返しになった。
だが、勢いで押し通す。
令嬢たちが気まずそうに目を逸らす。
わたくしは、わざと穏やかに微笑んだ。
「わたくしは、慣れない場で緊張している方を笑う趣味はございませんの。ましてや、王宮に正式に招かれた聖女候補様を」
ここで「聖女候補」という肩書きを強調する。
家柄で見下す者たちには、別の権威を見せるのが早い。
前世の会社でもそうだった。人は正論だけでは黙らないが、上司の名前や社長案件には急に静かになる。悲しいが、人間はそういうところがある。
令嬢たちは案の定、黙った。
わたくしは続ける。
「もちろん、社交の場には作法がございます。けれど、作法とは人を恥じ入らせるための鞭ではありません。互いに心地よく過ごすためのものですわ。そうでしょう?」
誰も答えない。
モルガン嬢が、悔しそうに唇を噛んだ。
「ロゼリア様は、ずいぶんと聖女候補様をお庇いになるのですね」
「ええ」
即答した。
モルガン嬢が驚く。
周囲もざわつく。
セシリア様も目を丸くする。
わたくしは笑った。
「庇うべき場面ですもの」
本当は、もっと言いたかった。
ヒロイン様をいじめるなんて解釈違いですわ、と。
あなた方、原作序盤の悪役ムーブを代行しないでくださる? と。
そのルートは破滅しますわよ、と。
だが、もちろん言えない。
言えば今度こそ奇行令嬢である。
わたくしは、セシリア様の方へ向き直った。
「セシリア様」
「は、はい」
「よろしければ、少しこちらへ。飲み物をお取りしましょう。舞踏会の広間は、慣れないと喉が渇きますもの」
「え、あ、でも、私……」
セシリア様は戸惑いながら、周囲を見た。
自分がわたくしについて行ってよいのか分からないのだろう。
その視線が、あまりにも不安げで。
わたくしの中で、何かが柔らかく痛んだ。
前世で初めて同人イベントに行った日のことを思い出す。
列の作法も、会場の空気も、どこに並べばいいのかも分からず、ひたすら邪魔にならないように端を歩いていた。
誰かが「ここ最後尾ですよ」と教えてくれただけで、泣きそうなほど安心した。
セシリア様の不安も、きっとそれに近い。
知らない場所に、知らない服を着て、知らない人々の視線の中に放り込まれる。
それがどれほど心細いか、分からないわけではない。
「大丈夫ですわ」
わたくしは、少し声を柔らかくした。
「わたくしも、最初から舞踏会に慣れていたわけではございません」
これは嘘ではない。
ミリアは幼い頃から訓練されていただろう。
けれど、慣れるまでには何度も失敗したはずだ。記憶の底に、ドレスの裾を踏んで転びかけた恥ずかしさや、礼の角度を母に直された小さな悔しさが残っている。
「誰でも、初めては緊張します。緊張する方を笑うより、手を取る方が、わたくしは好きです」
セシリア様の瞳が、揺れた。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
けれど、その声はわたくしの胸にまっすぐ届いた。
守れた。
少なくとも今、この瞬間だけは。
わたくしはセシリア様を飲み物の卓へ案内した。
周囲の令嬢たちは、もう何も言わなかった。扇の陰で悔しそうにしている者もいたが、表立って文句を言う勇気はなさそうだ。
よし。
悪役令嬢ルート、ひとまず回避。
ただし、非常に目立った。
壁とは。
壁とは何だったのか。
飲み物の卓まで来ると、セシリア様はほっとしたように息を吐いた。
「あ、あの、ロゼリア様」
「ミリアで結構ですわ」
「いえ、そんな恐れ多いです!」
「恐れ多くありません。名前は呼ぶためにあるものですから」
前世のわたくしなら、初対面の相手にこんなことを言えなかっただろう。
けれどミリア・ロゼリアとしての外面と、公爵令嬢としての度胸がある今は、妙に言えてしまう。
人間、肩書きがあると強くなれるものだ。
その肩書きが悪役令嬢予定なのは問題だが。
わたくしは果実水の入ったグラスを手に取り、セシリア様へ差し出した。
「どうぞ。甘すぎないものを選びました」
「あ、ありがとうございます」
セシリア様は両手でグラスを受け取った。
その仕草が、丁寧で、でも少しぎこちない。
かわいい。
いけない。
顔が緩む。
「ロゼリア様は……その、なぜ私に親切にしてくださるのですか」
セシリア様が恐る恐る尋ねた。
わたくしは一瞬詰まった。
理由。
理由なら山ほどある。
あなたがヒロイン様だから。
あなたをいじめたくないから。
あなたに王太子ルートへ進んでいただきたいから。
わたくしの破滅回避のためにも重要だから。
前世で何度もあなたに救われたから。
ゲームの中のセシリア様は、優しかった。
悪役令嬢ミリアに嫌がらせをされても、最初から憎み返したわけではない。
人に傷つけられても、それでも誰かを助けようとする子だった。
綺麗事だと笑う人もいるだろう。
けれど前世のわたくしは、その綺麗事に救われた夜があった。
仕事で疲れて、何もかも嫌になって、部屋の灯りもつけずにスマホを開いた時。
画面の中のセシリア様が「誰かを思いやることは、弱さではありません」と言った。
あれはゲームの台詞だった。
でも、その時のわたくしには確かに必要な言葉だった。
だから。
「……あなたが、困っているように見えたからですわ」
わたくしは、そう答えた。
全部は言えない。
でも、これも本当。
セシリア様は、少しだけ目を伏せた。
「私、やっぱり浮いていましたよね」
ぽつりとこぼれた声は、思っていたよりも幼かった。
「王宮に来てから、ずっと分からないことばかりで。立ち方も、歩き方も、誰にどう挨拶すればいいのかも。教えていただいてはいるのですが、緊張すると頭が真っ白になってしまって」
「初めてなら当然ですわ」
「でも、皆様は普通にできていらっしゃるのに」
「普通に見せる訓練を、幼い頃から受けているだけです」
わたくしは、グラスに指を添えた。
「わたくしも昔、礼の角度を間違えて、母に三十回やり直しを命じられました」
「三十回も?」
「ええ。最後には、頭を下げるたびに魂も一緒に抜けていくような気がしました」
セシリア様が、きょとんとした。
それから、ふふ、と小さく笑った。
あ。
笑った。
ヒロイン様が笑った。
かわいい。
これは守るべき笑顔。
王国で保護条例を作るべきでは?
「ロゼリア様も、そのようなことがあるのですね」
「ありますわ。公爵令嬢も人間ですもの。靴擦れもしますし、苦手な菓子もありますし、たまには笑顔のまま心の中で帰りたいと叫びます」
「帰りたいと?」
「ええ。今も少し」
セシリア様はまた笑った。
しまった。
ヒロイン様の笑顔を追加で引き出してしまった。
これはもう勝利では?
いや、何の勝利?
そこへ、リタが静かに近づいてきた。
「お嬢様」
「リタ」
「こちらにいらしたのですね」
「ええ。セシリア様とお話ししていたの」
リタはセシリア様へ丁寧に礼をした。
「ロゼリア家侍女のリタと申します。お嬢様が突然失礼なことを申し上げておりませんでしょうか」
「突然、失礼?」
わたくしはリタを見た。
「なぜ最初にそれを確認するの」
「お嬢様ですので」
「信頼が低いわ」
「経験に基づいております」
セシリア様が、また小さく笑った。
「いいえ。ロゼリア様はとてもお優しいです」
リタが一瞬、わずかに目を見開いた。
それから、何とも言えない顔でわたくしを見る。
やめて。
その顔はやめて。
「お嬢様が優しいと言われましたよ」という目だ。
まるで、普段まったく優しくないみたいではないか。
「リタ、何か言いたげね」
「いいえ」
「言っているわ、目が」
「お嬢様が人様から素直に褒められている場面に遭遇し、少々感慨深く」
「言ったわね、普通に」
「失礼いたしました」
セシリア様は、今度は声を出して笑った。
緊張が少し解けたようで、肩の力も抜けている。
良かった。
本当に良かった。
その時、少し離れたところから、視線を感じた。
振り返ると、王太子ユリウス殿下がこちらを見ていた。
その隣にはダリオ様。
そして、さらに少し離れた場所にレオンハルト公爵。
三人とも、こちらを見ている。
なぜ。
なぜ全員こちらを見るのですか。
わたくしはヒロイン様を保護しているだけです。
悪役令嬢ルートを回避しているだけです。
推しカプの邪魔をしないための土台作りです。
なのに、殿下は何か感心したような顔をしている。
ダリオ様は少し意外そう。
レオンハルト公爵は、例の読めない目でじっと見ている。
まずい。
好感度が上がる音がした気がする。
違う。
上がるべきはセシリア様と殿下の好感度であって、わたくしへの好感度ではない。
「ロゼリア様?」
セシリア様が不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか」
「いいえ。少し、世界線の乱れを感じただけですわ」
「せかいせん?」
「気にしないでくださいませ」
リタが小声で言う。
「お嬢様、また意味不明なことを」
「今のは小声だったから大丈夫よ」
「セシリア様に聞こえております」
「……忘れてくださいませ」
セシリア様は、くすくす笑った。
それから、少し迷うようにわたくしを見上げた。
「あの、ロゼリア様」
「はい」
「私、王宮に来てから、ずっと緊張していて。誰に話しかけても、間違っているのではないかと思ってしまって」
「ええ」
「でも、ロゼリア様とお話ししていたら、少しだけ息ができる気がしました」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
ヒロイン様。
なんてまっすぐなことを言うのですか。
これは惚れる。
王太子殿下が惚れるのも分かる。
ダリオ様が守りたくなるのも分かる。
わたくしも壁として全力で保護したい。
セシリア様は、グラスを胸元に寄せて、頬を少し赤くした。
「それで、あの……ご迷惑でなければ」
「はい」
「ロゼリア様のことを……お姉様、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
時間が止まった。
お姉様。
お姉様?
ヒロイン様が、悪役令嬢を?
お姉様と?
そんなルートは存在しない。
少なくとも、前世で遊んだ『聖冠のエリュシオン』にはなかった。
待って。
これは何ルート?
ヒロイン様懐きルート?
悪役令嬢お姉様化ルート?
公式未実装の隠しイベント?
わたくしの脳内が、一瞬で大混乱に陥った。
リタが隣で小さく言う。
「お嬢様」
「……」
「お嬢様」
「……」
「戻ってきてくださいませ」
戻れるわけがない。
ヒロイン様にお姉様と呼ばれる。
これは、事件である。
前世のわたくしなら、スクリーンショットを撮って保存し、フォルダ名を「命日」にしていた。
しかし今は現実。
保存ボタンはない。
わたくしは震える声で言った。
「セシリア様」
「は、はい。やはり失礼でしたよね。すみません、私、調子に乗って」
「いいえ」
わたくしは、彼女の手をそっと取った。
いけない。
感情が先走っている。
でも止まらない。
「光栄ですわ」
セシリア様の顔がぱっと明るくなる。
「では……お姉様、と」
言われた。
言われてしまった。
お姉様。
ヒロイン様からの、お姉様。
わたくしは、その場で倒れなかった自分を褒めたい。
「……はい」
返事をするのが精いっぱいだった。
リタが横でぼそりと言う。
「お嬢様、顔が大変なことに」
「黙って、リタ。今わたくしは人として試されているの」
「何にですか」
「幸福に」
「大げさでございます」
大げさではない。
幸福とは時に人を壊す。
その証拠に、わたくしの脳内は今、紙吹雪が舞っている。
だが同時に、遠くから突き刺さる視線を感じた。
ユリウス殿下。
ダリオ様。
レオンハルト公爵。
三人とも、やはりこちらを見ている。
特にレオンハルト公爵は、先ほどよりも深くこちらを観察しているようだった。
まるで、わたくしという人間をもう一段階分解しようとしているみたいに。
やめてください。
分解しないでください。
わたくしはただ、ヒロイン様をいじめない悪役令嬢になりたかっただけです。
なのに。
ヒロイン様からはお姉様と呼ばれ。
王太子殿下には感心され。
騎士団長様には意外そうに見られ。
冷血公爵様には観察されている。
……やはり、何かがおかしい。
わたくしは、セシリア様の手を握ったまま、心の中で静かに叫んだ。
ヒロイン様。
そのルートは、存在しません。




