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推しカプを見守るため悪役令嬢に転生しましたが、なぜか冷血公爵の本命になりました 〜私は壁になりたいのに、攻略対象たちが全員こちらを見てくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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4/50

第4話 違います、そのダンスは私用ではありません

 冷血公爵レオンハルト・ヴァイスベルクと踊った。


 その事実は、わたくしが思っていた以上に重かった。


 何が重いかと言えば、まず周囲の視線である。


 踊り終えた瞬間から、令嬢たちの扇が一斉に動き始めた。

 口元を隠し、目だけを光らせ、こちらを見ている。


 あれは完全に噂を醸造している目だ。


 前世で言うなら、通知欄が一気に騒がしくなる直前の空気である。

 まだ誰も声には出していない。けれど、水面下ではもう「王太子の婚約者が冷血公爵と踊った件」という見出しが作られているに違いない。


 困る。


 非常に困る。


 わたくしは目立ちたいわけではない。

 壁になりたいのだ。

 壁が噂になるなど、本末転倒にもほどがある。


 いや、歴史的建造物なら噂になるかもしれない。

 だが、わたくしは名所になりたいのではない。地味な仕切り壁でいい。できれば背景に馴染む色合いでお願いしたい。


「お嬢様」


 リタが、音もなく隣へ戻ってきた。


 その顔はいつも通り無表情だが、目が言っている。


 やりましたね、と。


 やってしまいましたね、と。


 それから、私の忠告を聞かなかった結果がこれです、と。


 かなり多弁な無表情である。


「何も言わないで」


「まだ何も申し上げておりません」


「言わなくても分かるのよ。リタの無言は文字数が多いの」


「では、一言だけ」


「一言なら」


「目立っております」


「刺さったわ」


「一言で済ませました」


「確かに一言だけれど、威力を調整してほしい」


 リタはわずかに目を伏せた。

 反省ではない。たぶん、ため息を隠したのだ。


「お嬢様、冷血公爵様とあれほど長くお話しになるとは思いませんでした」


「わたくしも思っていなかったわ」


「公爵様からダンスを申し込まれた時点で、断るのは難しかったかと」


「そうでしょう?」


「ですが、踊りながら三度ほど妙な顔をなさいました」


「数えていたの?」


「侍女でございますので」


「その言葉、本当に便利ね」


「便利ではなく、職務です」


 リタはまじめな顔でそう言う。


 こういう時、リタは本当に容赦がない。

 ただ、心配してくれているのも分かるから、こちらも強く言えない。


 わたくしは扇で口元を隠しながら、そっと広間の奥を見た。


 王太子ユリウス殿下は、先ほど陛下との短い用件を終えたらしく、戻ってきていた。周囲には何人かの貴族が集まっている。王太子として挨拶を受け、笑みを返し、相手の言葉に丁寧に耳を傾けている。


 その少し後ろに、ダリオ様がいる。


 よし。


 まだ並んでいる。


 少し距離はあるが、視線は通る。

 殿下が貴族の話を聞きながら一瞬だけ困ったように眉を下げると、ダリオ様がそれに気づき、さりげなく一歩前へ出る。

 会話に割って入るわけではない。ただ、殿下が退きたい時に退けるように、逃げ道を作る立ち位置。


 何ですの、それ。


 そういう細かい気遣いを無言でなさるの、やめていただけます?


 寿命が削れる。


「お嬢様」


「大丈夫。今は声に出していないわ」


「出してはいませんが、扇が震えております」


「これは感動の微振動よ」


「人前では止めてくださいませ」


「努力するわ」


「努力ではなく実行を」


 リタの言葉を聞きながら、わたくしは頭の中で作戦を組み直した。


 当初の予定では、殿下が最初の一曲を終えた後、少し疲れた様子でバルコニーへ向かう。そこへ警備確認中のダリオ様が合流。わたくしは柱の陰で、壁として静かに見守る。


 だが実際には、わたくしは冷血公爵と踊ってしまい、殿下は別件で呼ばれ、ダリオ様は広間に残された。


 予定が崩れた。


 しかし、物語は一度崩れてからが本番である。

 前世でもそうだった。原稿の途中で構成が破綻した時ほど、思わぬ名場面が生まれることがある。


 つまり、まだ間に合う。


「リタ」


「はい」


「殿下を自然にバルコニーへ誘導するわ」


「お嬢様がですか」


「ええ」


「殿下から距離を置く作戦は?」


「距離を置くために、一度近づくのよ」


「矛盾しております」


「戦略的撤退には、時に戦略的接近が必要なの」


「言葉だけは立派でございますね」


「中身も立派よ」


「それは今後の行動で判断いたします」


 厳しい。


 だが、わたくしは負けない。


 わたくしは扇を閉じ、ゆっくりと殿下の方へ歩き出した。

 周囲の視線が追ってくるのが分かる。


 仕方ない。

 ここで挙動不審になる方が余計に目立つ。

 堂々とするのだ、公爵令嬢ミリア・ロゼリア。


 わたくしは、あくまで婚約者として自然に殿下へ近づく。

 そして、さりげなく言う。


 「少し外の空気を吸われてはいかがでしょう」


 完璧。


 その流れでバルコニーへ。

 そして途中でわたくしは「あちらの令嬢にご挨拶を」と自然に離脱。

 ダリオ様が殿下に付き添う。


 素晴らしい。


 やはりわたくしは策士なのでは?


 そう思った瞬間、横から声がした。


「ロゼリア嬢」


 足が止まった。


 振り向かなくても分かる。


 この低くて冷たい声。


 レオンハルト公爵である。


 なぜ。


 先ほど去っていったではありませんか。

 去るなら最後まで去ってくださいませ。

 背中まで完璧に冷たい男が、なぜ戻ってくるのです。


 わたくしは微笑みを作って振り返った。


「ヴァイスベルク公爵様。何か?」


「君は今、殿下の方へ向かおうとしていたな」


「婚約者ですので、ご挨拶を」


「先ほどは距離を置きたいと言っていたと聞いたが」


 誰から聞いた。


 殿下か。

 それとも、あの庭園での会話をすでに誰かが噂にしたのか。


 いや、この方なら自力で察していてもおかしくない。

 怖い。


「距離を置くことと、ご挨拶をしないことは別ですわ」


「なるほど」


 またその「なるほど」だ。

 納得していない時の「なるほど」。


 わたくしは小さく息を吐いた。


「公爵様は、わたくしの動向にずいぶんご関心がおありなのですね」


「警備責任者なのでな」


「わたくしは不審者ではございません」


「それはまだ判断中だ」


「判断中」


「君は先ほど、壁になりたいと言った」


 リタが背後で小さく咳払いをした。


 それを外で言うな、という合図だ。


 分かっている。

 分かっているが、言ったのはわたくしではない。蒸し返したのは公爵様である。


「公爵様。淑女のささやかな願望を、舞踏会の中央で話題にするのはいかがなものかと」


「壁になりたいという願望は、淑女としてささやかなのか」


「個人差がございます」


「かなり大きな個人差だな」


 レオンハルト公爵は表情を変えない。


 なのに、なんとなくこちらを面白がっている気配がする。


 いや、違うかもしれない。

 この方は顔が冷たすぎて、感情の読み取りが難しい。前世なら絶対に「無表情キャラの感情差分まとめ」という記事が作られていたタイプである。


「それで」


 彼は続けた。


「君は殿下に何をするつもりだ」


「何もいたしません」


「何もしない令嬢は、あれほど計算した歩き方をしない」


 ぎくり。


「計算した歩き方?」


「人の流れを避け、視線の集まりやすい中央を通らず、しかし殿下からは見える位置を選んでいた」


「……公爵様」


「何だ」


「警備責任者とは、そこまで見ているものなのですか」


「必要なら見る」


「必要でしたか」


「君の場合は」


 やめて。


 その「君の場合は」が怖い。


 わたくしは、扇を握る指に力を入れた。


「公爵様は、わたくしを何だと思っていらっしゃるのです?」


「今のところ、妙な令嬢だ」


「先ほども言われました」


「評価は変わっていない」


「もう少し良い方向へ更新していただけませんか」


「材料が足りない」


「では、本日は普通の公爵令嬢として振る舞いますので」


「無理だろう」


「早い」


「君は、普通に見せようとした瞬間が一番普通ではない」


 痛い。


 この人の言葉は、なぜこうも急所に刺さるのか。


 わたくしは一瞬だけ黙った。


 レオンハルト公爵も黙る。


 その沈黙の中で、少し離れたところから殿下の声が聞こえた。


「ミリア」


 助かった、と思った。


 同時に、まずい、とも思った。


 ユリウス殿下がこちらへ歩いてきている。

 ダリオ様も一緒だ。


 つまり、推しが近づいてくる。

 だが、またしても隣に冷血公爵がいる。


 この配置、本当にどうにかなりませんの?


「殿下」


 わたくしは一礼した。


 ユリウス殿下は微笑みながらも、わたくしとレオンハルト公爵の間に視線を走らせた。


「またレオンハルト公と話していたのか」


「ええ。公爵様が、警備上の確認を」


「警備上?」


 殿下がレオンハルト公爵を見る。


「彼女は今夜、よく人の動きを見ている」


「ミリアが?」


 殿下がわたくしを見る。


「君は昔から、舞踏会では私のことばかり見ていたと思っていたけれど」


「昔の話ですわ」


 言ってから、少しだけ胸が痛んだ。


 前のミリアの気持ちを、そんなふうに切り捨てる言い方をしてしまった気がしたからだ。


 殿下も、それに気づいたのか、少しだけ表情をやわらげた。


「そうか。今は違う?」


「はい。今は……」


 わたくしは言葉を探した。


 今は、あなたとダリオ様をセットで見ています。

 とは言えない。


「殿下が、殿下らしくいられる場所を探しております」


 口にした瞬間、わたくし自身が驚いた。


 あれ。


 また少し、本音に近い言葉が出た。


 推しカプ見守り作戦のつもりなのに、言葉だけは妙にまともになる。

 人間の口というものは、時々とても厄介だ。


 ユリウス殿下は、目を瞬いた。


「私らしくいられる場所?」


「はい」


「それは、君の隣ではないと?」


 困る。


 その質問は困る。


 隣ではない、と言えば婚約者として角が立つ。

 隣です、と言えばルートが戻る。

 どちらも危険。


 わたくしは一瞬、リタを見た。


 リタは無表情だった。

 だが目が言っていた。


 自分でまいた種です、と。


 そうね。


 返す言葉もない。


 ダリオ様が少しだけ眉を寄せた。


「ロゼリア嬢。殿下の前で、その言い方は少々」


「ダリオ」


 殿下が穏やかに制した。


「いいんだ。聞きたい」


 やめて。


 聞かないで。


 わたくしは今、非常に綱渡りをしています。


 わたくしは背筋を伸ばした。


「殿下の隣に立つことは、名誉です。けれど、名誉だけで立ってよい場所ではないと思うのです」


 広間の音が、少し遠くなった。


 これは、わたくしが本当に言いたかったことなのかもしれない。


「殿下は王太子でいらっしゃいます。多くの方が殿下を見て、殿下に期待し、殿下に理想を重ねます。わたくしも、これまではそうでした。殿下の隣に立つ自分を、理想の形に押し込めようとしていました」


 リタが、ほんの少しだけ目を伏せた。


 殿下は黙って聞いている。

 ダリオ様も。

 レオンハルト公爵も。


 なぜこの場で、こんな話になっているのだろう。


 わたくしは殿下をバルコニーへ誘導したかっただけなのに。


 人生はすぐ予定を外れる。


「けれど、それは殿下を見ているようで、殿下を見ていなかったのかもしれません」


 ユリウス殿下の瞳が、わずかに揺れた。


「ミリア」


「ですから、少し距離を置きたいのです。殿下が、本当に息をつける場所を見つけるために」


 言った。


 言ってしまった。


 言葉だけ聞けば、かなり良い婚約者である。

 問題は、わたくしの頭の中で「息をつける場所=ダリオ様の隣」と勝手に補足されていることだ。


 殿下は黙っていた。


 それから、困ったように笑った。


「君は、急に大人になったようなことを言うんだな」


「急ではございませんわ。三日ほど考えました」


「三日」


 殿下が少し笑う。


 ダリオ様も、ほんのわずかに表情を緩めた。

 素晴らしい。今の小さな緩み、希少です。ありがとうございます。


 レオンハルト公爵は、黙ってこちらを見ている。


 その視線が一番気になる。


 ユリウス殿下は、わたくしへ手を差し出した。


「なら、その話の続きを聞かせてほしい。少し、外の空気でも吸いながら」


 来た。


 バルコニー。


 誘導成功。


 ただし、殿下から誘われた。

 しかも「話の続きを聞きたい」と言われている。


 これではわたくしが一緒に行く流れだ。


 違う。


 そうではない。


 わたくしは殿下をバルコニーへ送り出し、ダリオ様が同行する流れを作りたかったのだ。


 自分が同行してどうする。


 わたくしは微笑みながら、脳内で必死に逃げ道を探した。


「殿下、わたくしは少し、令嬢方へのご挨拶が」


「それなら後でいい」


「けれど」


「ミリア」


 殿下の声が柔らかくなる。


「君の言葉は、今聞きたい」


 ああ。


 王子様。


 その声はヒロイン様用です。


 悪役令嬢に使わないでください。


 わたくしが固まっていると、ダリオ様が一歩前へ出た。


「殿下。外へ出られるなら、私も」


 来た。


 わたくしの中で鐘が鳴った。


 そうです。

 それです。

 その流れです。


 ダリオ様、ありがとうございます。


 わたくしはすかさず一歩下がった。


「では、グランツ卿がご一緒なされば安心ですわ。わたくしは――」


「ロゼリア嬢」


 レオンハルト公爵が口を挟んだ。


 なぜ。


 本当になぜ。


「先ほど、陛下が王太子殿下を探していた。殿下が長く席を外されるのは避けた方がいい」


 殿下が眉を上げる。


「またか?」


「西方使節の件は、まだ終わっておりません」


「父上も人使いが荒いな」


「王太子ですので」


 殿下は苦笑する。


「分かった。ミリア、すまない。また後で聞かせてくれるかな」


「もちろんでございます」


 わたくしは礼をした。


 またしても、バルコニー行きは消えた。


 しかも今度もレオンハルト公爵によって。


 公爵様。


 あなた、仕事をしているだけなのは分かります。


 分かりますが。


 わたくしの推しカプ見守り作戦を、的確に潰しすぎではありませんか。


 ユリウス殿下は名残惜しそうにこちらを見てから、広間の奥へ向かった。


 ダリオ様も一礼し、殿下に付き従う。


 その背中。


 並んだ背中。


 距離が近い。


 良い。


 だが、遠ざかっていく。


 わたくしは静かに見送った。


 これはこれで供給。

 背中の供給。

 主従の背中。

 悪くない。


 でも、バルコニー会話はどこへ。


「不満そうだな」


 隣からレオンハルト公爵の声。


 わたくしは扇で口元を隠した。


「公爵様は、人の表情を読むのがお好きですのね」


「君は読みやすい」


「リタと同じことをおっしゃらないでくださいませ」


「侍女も苦労しているようだな」


「ええ、主にわたくしのせいで」


「自覚はあるのか」


「多少は」


 レオンハルト公爵は、ほんの少しだけ沈黙した。


 そして言った。


「君は、本当に殿下との婚約をどうするつもりだ」


 その声は、先ほどまでより少し低かった。


 警備責任者としての質問ではない。

 貴族として、何かを見極めようとしている声。


 わたくしは、すぐに答えられなかった。


 婚約を解消したい。


 それは事実だ。


 破滅回避のため。

 ヒロインを傷つけないため。

 殿下の未来を原作通り、いや、より良いものにするため。

 そして、推しの関係性を守るため。


 でも。


 ユリウス殿下の先ほどの顔を思い出す。


 少し傷ついたような顔。

 それでもわたくしの言葉を聞こうとしてくれた顔。


 あの人はゲームの立ち絵ではない。


 生きている。


 だから、雑に扱っていいわけではない。


「まだ、分かりません」


 わたくしは正直に言った。


 レオンハルト公爵は、目を細める。


「分からない?」


「はい。距離を置くべきだとは思っています。けれど、ただ逃げるように婚約を壊すのは、殿下に失礼です」


「君は殿下を避けたいのではなかったのか」


「避けたいです」


「では」


「でも、傷つけたいわけではありません」


 言ってから、自分でも納得した。


 そう。


 わたくしは殿下から離れたい。

 でも、彼を傷つけたいわけではない。


 ダリオ様との関係を守りたい。

 でも、二人を自分の妄想の形に押し込めたいわけでもない。


 ヒロイン様を守りたい。

 でも、まだ会ってもいない彼女の気持ちを勝手に決めるのも違う。


 ああ、面倒くさい。


 現実の人間関係は、前世で画面越しに見ていた物語よりずっと面倒くさい。


 推し活は、画面の外から見ている時が一番安全だった。


 けれど今のわたくしは、その画面の中に立っている。


「公爵様」


「何だ」


「人間とは、面倒ですわね」


「今さらだな」


「ええ。前世……いえ、昔から少し苦手でした」


「人間が?」


「人の気持ちを間違えずに扱うことが、です」


 レオンハルト公爵が、少しだけ黙った。


 やってしまったかもしれない。


 また変なことを言った。


 しかし彼は笑わなかった。


 ただ、静かに言った。


「間違えずに扱える者など、ほとんどいない」


「公爵様でも?」


「私なら、間違えた時に被害が少なくなるように備える」


「とても公爵様らしいお答えですわ」


「君は?」


「わたくしは……」


 わたくしは少し考えた。


「できれば、触らずに眺めていたいです」


「壁として?」


「はい」


「だが、君はもう触れている」


 胸の奥が、少しだけ詰まった。


 レオンハルト公爵の言葉は、いつも短い。

 短いのに、逃げ場がない。


 そう。


 わたくしはもう触れてしまった。


 殿下に距離を置きたいと告げた。

 ダリオ様を見守ろうとした。

 リタに変化を見抜かれた。

 そして、目の前の冷血公爵にまで妙な令嬢として認識されている。


 壁になりたいのに、すでに壁ではない。


「……困りましたわね」


「何が」


「壁への道が遠いです」


「向いていないのではないか」


「公爵様、可能性を初手で潰さないでください」


「事実を述べた」


「冷たいですわ」


「冷血公爵なのでな」


 自分で言った。


 この人、自分のあだ名を把握している。


 わたくしは思わず笑いそうになった。

 慌てて扇で隠す。


 しかし、レオンハルト公爵は見逃さなかった。


「笑ったな」


「笑っておりません」


「扇が遅い」


「公爵様、本当に見すぎです」


「君が隠すのが下手すぎる」


 なんだろう。


 この会話は、怖いのに少し気が抜ける。


 冷血公爵というから、もっと冷たいだけの人かと思っていた。

 けれど彼は、言葉こそ鋭いが、無意味に人を傷つける感じではない。


 むしろ、見ている。

 こちらが隠したいところまで。


 それが厄介で、少しだけ安心する。


 いや、安心してはいけない。


 危険人物である。


 そう自分に言い聞かせた時だった。


 広間の入口近くで、小さなざわめきが起こった。


 それは王族が現れた時のような華やかなざわめきではない。


 もっと、薄くて冷たいもの。


 誰かを値踏みするような視線。

 含み笑い。

 扇の陰に隠された囁き。


 わたくしはそちらを見た。


 若い少女が一人、広間の端で立ち尽くしていた。


 年は、わたくしより少し下だろうか。

 淡い金髪。

 白に近い水色のドレス。

 飾りは控えめで、貴族令嬢たちの豪奢な装いの中では、少し質素に見える。


 けれど、その少女の周りだけ、ふわりと柔らかい光があるように見えた。


 大きな瞳が不安げに揺れている。

 手袋をした指が、胸元でぎゅっと握られている。


 見覚えがあった。


 忘れるはずがない。


 原作ヒロイン。


 聖女候補、セシリア・フローラ。


 来た。


 ついに。


 ヒロイン様が。


 しかし同時に、別の声が聞こえた。


「平民出身ですって」


「聖女候補とはいえ、あのドレスで王宮舞踏会に?」


「所作もぎこちないわね」


「誰か教えて差し上げればよろしいのに」


 扇の陰の笑い声。


 嫌な音だった。


 原作で見た場面だ。


 この後、悪役令嬢ミリアはセシリアを見下し、嘲笑し、彼女に恥をかかせる。


 それが、破滅への第一歩になる。


 わたくしは、扇を閉じた。


 レオンハルト公爵がこちらを見る。


「ロゼリア嬢?」


「公爵様」


「何だ」


「わたくし、少し失礼いたします」


「どこへ」


「解釈違いを正しに」


「……何?」


 返事を待たず、わたくしは歩き出した。


 背筋を伸ばし、顔を上げる。


 令嬢たちの視線がこちらに集まる。


 悪役令嬢ミリア・ロゼリアが、聖女候補セシリア・フローラへ向かって歩いていく。


 きっと周囲は期待している。


 わたくしが彼女を傷つけることを。


 嘲笑することを。


 原作通りの悪役令嬢として振る舞うことを。


 けれど残念。


 わたくしはもう、そちらのルートには行かない。


 ヒロイン様をいじめる?


 ありえない。


 そんなもの、わたくしの解釈には存在しない。


 わたくしはセシリア様の前で足を止めた。


 彼女がびくりと肩を震わせる。


 間近で見ると、さらに可愛らしい。

 不安そうなのに、瞳の奥にまっすぐな芯がある。


 ああ。


 ヒロイン様だ。


 本物だ。


 感動で膝をつきそうになるが、我慢した。

 今ここで膝をついたら、さすがにリタに踏まれる。


 わたくしは、周囲に聞こえるように、はっきりと言った。


「ごきげんよう、聖女候補様」


 セシリア様が目を丸くする。


「え……あ、あの、私」


「ミリア・ロゼリアと申します」


 わたくしは優雅に一礼した。


 周囲がざわめく。


 わたくしは微笑んだ。


「ようこそ、王宮舞踏会へ」


 セシリア様の瞳が、さらに大きくなった。


 そして、背後でレオンハルト公爵が小さく呟いた声が聞こえた。


「……本当に、読めない令嬢だな」


 聞こえています、公爵様。


 ですが今は、それどころではありません。


 ヒロイン様を守る。


 それが、悪役令嬢ミリア・ロゼリアの新しい最優先事項になった。


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