第4話 違います、そのダンスは私用ではありません
冷血公爵レオンハルト・ヴァイスベルクと踊った。
その事実は、わたくしが思っていた以上に重かった。
何が重いかと言えば、まず周囲の視線である。
踊り終えた瞬間から、令嬢たちの扇が一斉に動き始めた。
口元を隠し、目だけを光らせ、こちらを見ている。
あれは完全に噂を醸造している目だ。
前世で言うなら、通知欄が一気に騒がしくなる直前の空気である。
まだ誰も声には出していない。けれど、水面下ではもう「王太子の婚約者が冷血公爵と踊った件」という見出しが作られているに違いない。
困る。
非常に困る。
わたくしは目立ちたいわけではない。
壁になりたいのだ。
壁が噂になるなど、本末転倒にもほどがある。
いや、歴史的建造物なら噂になるかもしれない。
だが、わたくしは名所になりたいのではない。地味な仕切り壁でいい。できれば背景に馴染む色合いでお願いしたい。
「お嬢様」
リタが、音もなく隣へ戻ってきた。
その顔はいつも通り無表情だが、目が言っている。
やりましたね、と。
やってしまいましたね、と。
それから、私の忠告を聞かなかった結果がこれです、と。
かなり多弁な無表情である。
「何も言わないで」
「まだ何も申し上げておりません」
「言わなくても分かるのよ。リタの無言は文字数が多いの」
「では、一言だけ」
「一言なら」
「目立っております」
「刺さったわ」
「一言で済ませました」
「確かに一言だけれど、威力を調整してほしい」
リタはわずかに目を伏せた。
反省ではない。たぶん、ため息を隠したのだ。
「お嬢様、冷血公爵様とあれほど長くお話しになるとは思いませんでした」
「わたくしも思っていなかったわ」
「公爵様からダンスを申し込まれた時点で、断るのは難しかったかと」
「そうでしょう?」
「ですが、踊りながら三度ほど妙な顔をなさいました」
「数えていたの?」
「侍女でございますので」
「その言葉、本当に便利ね」
「便利ではなく、職務です」
リタはまじめな顔でそう言う。
こういう時、リタは本当に容赦がない。
ただ、心配してくれているのも分かるから、こちらも強く言えない。
わたくしは扇で口元を隠しながら、そっと広間の奥を見た。
王太子ユリウス殿下は、先ほど陛下との短い用件を終えたらしく、戻ってきていた。周囲には何人かの貴族が集まっている。王太子として挨拶を受け、笑みを返し、相手の言葉に丁寧に耳を傾けている。
その少し後ろに、ダリオ様がいる。
よし。
まだ並んでいる。
少し距離はあるが、視線は通る。
殿下が貴族の話を聞きながら一瞬だけ困ったように眉を下げると、ダリオ様がそれに気づき、さりげなく一歩前へ出る。
会話に割って入るわけではない。ただ、殿下が退きたい時に退けるように、逃げ道を作る立ち位置。
何ですの、それ。
そういう細かい気遣いを無言でなさるの、やめていただけます?
寿命が削れる。
「お嬢様」
「大丈夫。今は声に出していないわ」
「出してはいませんが、扇が震えております」
「これは感動の微振動よ」
「人前では止めてくださいませ」
「努力するわ」
「努力ではなく実行を」
リタの言葉を聞きながら、わたくしは頭の中で作戦を組み直した。
当初の予定では、殿下が最初の一曲を終えた後、少し疲れた様子でバルコニーへ向かう。そこへ警備確認中のダリオ様が合流。わたくしは柱の陰で、壁として静かに見守る。
だが実際には、わたくしは冷血公爵と踊ってしまい、殿下は別件で呼ばれ、ダリオ様は広間に残された。
予定が崩れた。
しかし、物語は一度崩れてからが本番である。
前世でもそうだった。原稿の途中で構成が破綻した時ほど、思わぬ名場面が生まれることがある。
つまり、まだ間に合う。
「リタ」
「はい」
「殿下を自然にバルコニーへ誘導するわ」
「お嬢様がですか」
「ええ」
「殿下から距離を置く作戦は?」
「距離を置くために、一度近づくのよ」
「矛盾しております」
「戦略的撤退には、時に戦略的接近が必要なの」
「言葉だけは立派でございますね」
「中身も立派よ」
「それは今後の行動で判断いたします」
厳しい。
だが、わたくしは負けない。
わたくしは扇を閉じ、ゆっくりと殿下の方へ歩き出した。
周囲の視線が追ってくるのが分かる。
仕方ない。
ここで挙動不審になる方が余計に目立つ。
堂々とするのだ、公爵令嬢ミリア・ロゼリア。
わたくしは、あくまで婚約者として自然に殿下へ近づく。
そして、さりげなく言う。
「少し外の空気を吸われてはいかがでしょう」
完璧。
その流れでバルコニーへ。
そして途中でわたくしは「あちらの令嬢にご挨拶を」と自然に離脱。
ダリオ様が殿下に付き添う。
素晴らしい。
やはりわたくしは策士なのでは?
そう思った瞬間、横から声がした。
「ロゼリア嬢」
足が止まった。
振り向かなくても分かる。
この低くて冷たい声。
レオンハルト公爵である。
なぜ。
先ほど去っていったではありませんか。
去るなら最後まで去ってくださいませ。
背中まで完璧に冷たい男が、なぜ戻ってくるのです。
わたくしは微笑みを作って振り返った。
「ヴァイスベルク公爵様。何か?」
「君は今、殿下の方へ向かおうとしていたな」
「婚約者ですので、ご挨拶を」
「先ほどは距離を置きたいと言っていたと聞いたが」
誰から聞いた。
殿下か。
それとも、あの庭園での会話をすでに誰かが噂にしたのか。
いや、この方なら自力で察していてもおかしくない。
怖い。
「距離を置くことと、ご挨拶をしないことは別ですわ」
「なるほど」
またその「なるほど」だ。
納得していない時の「なるほど」。
わたくしは小さく息を吐いた。
「公爵様は、わたくしの動向にずいぶんご関心がおありなのですね」
「警備責任者なのでな」
「わたくしは不審者ではございません」
「それはまだ判断中だ」
「判断中」
「君は先ほど、壁になりたいと言った」
リタが背後で小さく咳払いをした。
それを外で言うな、という合図だ。
分かっている。
分かっているが、言ったのはわたくしではない。蒸し返したのは公爵様である。
「公爵様。淑女のささやかな願望を、舞踏会の中央で話題にするのはいかがなものかと」
「壁になりたいという願望は、淑女としてささやかなのか」
「個人差がございます」
「かなり大きな個人差だな」
レオンハルト公爵は表情を変えない。
なのに、なんとなくこちらを面白がっている気配がする。
いや、違うかもしれない。
この方は顔が冷たすぎて、感情の読み取りが難しい。前世なら絶対に「無表情キャラの感情差分まとめ」という記事が作られていたタイプである。
「それで」
彼は続けた。
「君は殿下に何をするつもりだ」
「何もいたしません」
「何もしない令嬢は、あれほど計算した歩き方をしない」
ぎくり。
「計算した歩き方?」
「人の流れを避け、視線の集まりやすい中央を通らず、しかし殿下からは見える位置を選んでいた」
「……公爵様」
「何だ」
「警備責任者とは、そこまで見ているものなのですか」
「必要なら見る」
「必要でしたか」
「君の場合は」
やめて。
その「君の場合は」が怖い。
わたくしは、扇を握る指に力を入れた。
「公爵様は、わたくしを何だと思っていらっしゃるのです?」
「今のところ、妙な令嬢だ」
「先ほども言われました」
「評価は変わっていない」
「もう少し良い方向へ更新していただけませんか」
「材料が足りない」
「では、本日は普通の公爵令嬢として振る舞いますので」
「無理だろう」
「早い」
「君は、普通に見せようとした瞬間が一番普通ではない」
痛い。
この人の言葉は、なぜこうも急所に刺さるのか。
わたくしは一瞬だけ黙った。
レオンハルト公爵も黙る。
その沈黙の中で、少し離れたところから殿下の声が聞こえた。
「ミリア」
助かった、と思った。
同時に、まずい、とも思った。
ユリウス殿下がこちらへ歩いてきている。
ダリオ様も一緒だ。
つまり、推しが近づいてくる。
だが、またしても隣に冷血公爵がいる。
この配置、本当にどうにかなりませんの?
「殿下」
わたくしは一礼した。
ユリウス殿下は微笑みながらも、わたくしとレオンハルト公爵の間に視線を走らせた。
「またレオンハルト公と話していたのか」
「ええ。公爵様が、警備上の確認を」
「警備上?」
殿下がレオンハルト公爵を見る。
「彼女は今夜、よく人の動きを見ている」
「ミリアが?」
殿下がわたくしを見る。
「君は昔から、舞踏会では私のことばかり見ていたと思っていたけれど」
「昔の話ですわ」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。
前のミリアの気持ちを、そんなふうに切り捨てる言い方をしてしまった気がしたからだ。
殿下も、それに気づいたのか、少しだけ表情をやわらげた。
「そうか。今は違う?」
「はい。今は……」
わたくしは言葉を探した。
今は、あなたとダリオ様をセットで見ています。
とは言えない。
「殿下が、殿下らしくいられる場所を探しております」
口にした瞬間、わたくし自身が驚いた。
あれ。
また少し、本音に近い言葉が出た。
推しカプ見守り作戦のつもりなのに、言葉だけは妙にまともになる。
人間の口というものは、時々とても厄介だ。
ユリウス殿下は、目を瞬いた。
「私らしくいられる場所?」
「はい」
「それは、君の隣ではないと?」
困る。
その質問は困る。
隣ではない、と言えば婚約者として角が立つ。
隣です、と言えばルートが戻る。
どちらも危険。
わたくしは一瞬、リタを見た。
リタは無表情だった。
だが目が言っていた。
自分でまいた種です、と。
そうね。
返す言葉もない。
ダリオ様が少しだけ眉を寄せた。
「ロゼリア嬢。殿下の前で、その言い方は少々」
「ダリオ」
殿下が穏やかに制した。
「いいんだ。聞きたい」
やめて。
聞かないで。
わたくしは今、非常に綱渡りをしています。
わたくしは背筋を伸ばした。
「殿下の隣に立つことは、名誉です。けれど、名誉だけで立ってよい場所ではないと思うのです」
広間の音が、少し遠くなった。
これは、わたくしが本当に言いたかったことなのかもしれない。
「殿下は王太子でいらっしゃいます。多くの方が殿下を見て、殿下に期待し、殿下に理想を重ねます。わたくしも、これまではそうでした。殿下の隣に立つ自分を、理想の形に押し込めようとしていました」
リタが、ほんの少しだけ目を伏せた。
殿下は黙って聞いている。
ダリオ様も。
レオンハルト公爵も。
なぜこの場で、こんな話になっているのだろう。
わたくしは殿下をバルコニーへ誘導したかっただけなのに。
人生はすぐ予定を外れる。
「けれど、それは殿下を見ているようで、殿下を見ていなかったのかもしれません」
ユリウス殿下の瞳が、わずかに揺れた。
「ミリア」
「ですから、少し距離を置きたいのです。殿下が、本当に息をつける場所を見つけるために」
言った。
言ってしまった。
言葉だけ聞けば、かなり良い婚約者である。
問題は、わたくしの頭の中で「息をつける場所=ダリオ様の隣」と勝手に補足されていることだ。
殿下は黙っていた。
それから、困ったように笑った。
「君は、急に大人になったようなことを言うんだな」
「急ではございませんわ。三日ほど考えました」
「三日」
殿下が少し笑う。
ダリオ様も、ほんのわずかに表情を緩めた。
素晴らしい。今の小さな緩み、希少です。ありがとうございます。
レオンハルト公爵は、黙ってこちらを見ている。
その視線が一番気になる。
ユリウス殿下は、わたくしへ手を差し出した。
「なら、その話の続きを聞かせてほしい。少し、外の空気でも吸いながら」
来た。
バルコニー。
誘導成功。
ただし、殿下から誘われた。
しかも「話の続きを聞きたい」と言われている。
これではわたくしが一緒に行く流れだ。
違う。
そうではない。
わたくしは殿下をバルコニーへ送り出し、ダリオ様が同行する流れを作りたかったのだ。
自分が同行してどうする。
わたくしは微笑みながら、脳内で必死に逃げ道を探した。
「殿下、わたくしは少し、令嬢方へのご挨拶が」
「それなら後でいい」
「けれど」
「ミリア」
殿下の声が柔らかくなる。
「君の言葉は、今聞きたい」
ああ。
王子様。
その声はヒロイン様用です。
悪役令嬢に使わないでください。
わたくしが固まっていると、ダリオ様が一歩前へ出た。
「殿下。外へ出られるなら、私も」
来た。
わたくしの中で鐘が鳴った。
そうです。
それです。
その流れです。
ダリオ様、ありがとうございます。
わたくしはすかさず一歩下がった。
「では、グランツ卿がご一緒なされば安心ですわ。わたくしは――」
「ロゼリア嬢」
レオンハルト公爵が口を挟んだ。
なぜ。
本当になぜ。
「先ほど、陛下が王太子殿下を探していた。殿下が長く席を外されるのは避けた方がいい」
殿下が眉を上げる。
「またか?」
「西方使節の件は、まだ終わっておりません」
「父上も人使いが荒いな」
「王太子ですので」
殿下は苦笑する。
「分かった。ミリア、すまない。また後で聞かせてくれるかな」
「もちろんでございます」
わたくしは礼をした。
またしても、バルコニー行きは消えた。
しかも今度もレオンハルト公爵によって。
公爵様。
あなた、仕事をしているだけなのは分かります。
分かりますが。
わたくしの推しカプ見守り作戦を、的確に潰しすぎではありませんか。
ユリウス殿下は名残惜しそうにこちらを見てから、広間の奥へ向かった。
ダリオ様も一礼し、殿下に付き従う。
その背中。
並んだ背中。
距離が近い。
良い。
だが、遠ざかっていく。
わたくしは静かに見送った。
これはこれで供給。
背中の供給。
主従の背中。
悪くない。
でも、バルコニー会話はどこへ。
「不満そうだな」
隣からレオンハルト公爵の声。
わたくしは扇で口元を隠した。
「公爵様は、人の表情を読むのがお好きですのね」
「君は読みやすい」
「リタと同じことをおっしゃらないでくださいませ」
「侍女も苦労しているようだな」
「ええ、主にわたくしのせいで」
「自覚はあるのか」
「多少は」
レオンハルト公爵は、ほんの少しだけ沈黙した。
そして言った。
「君は、本当に殿下との婚約をどうするつもりだ」
その声は、先ほどまでより少し低かった。
警備責任者としての質問ではない。
貴族として、何かを見極めようとしている声。
わたくしは、すぐに答えられなかった。
婚約を解消したい。
それは事実だ。
破滅回避のため。
ヒロインを傷つけないため。
殿下の未来を原作通り、いや、より良いものにするため。
そして、推しの関係性を守るため。
でも。
ユリウス殿下の先ほどの顔を思い出す。
少し傷ついたような顔。
それでもわたくしの言葉を聞こうとしてくれた顔。
あの人はゲームの立ち絵ではない。
生きている。
だから、雑に扱っていいわけではない。
「まだ、分かりません」
わたくしは正直に言った。
レオンハルト公爵は、目を細める。
「分からない?」
「はい。距離を置くべきだとは思っています。けれど、ただ逃げるように婚約を壊すのは、殿下に失礼です」
「君は殿下を避けたいのではなかったのか」
「避けたいです」
「では」
「でも、傷つけたいわけではありません」
言ってから、自分でも納得した。
そう。
わたくしは殿下から離れたい。
でも、彼を傷つけたいわけではない。
ダリオ様との関係を守りたい。
でも、二人を自分の妄想の形に押し込めたいわけでもない。
ヒロイン様を守りたい。
でも、まだ会ってもいない彼女の気持ちを勝手に決めるのも違う。
ああ、面倒くさい。
現実の人間関係は、前世で画面越しに見ていた物語よりずっと面倒くさい。
推し活は、画面の外から見ている時が一番安全だった。
けれど今のわたくしは、その画面の中に立っている。
「公爵様」
「何だ」
「人間とは、面倒ですわね」
「今さらだな」
「ええ。前世……いえ、昔から少し苦手でした」
「人間が?」
「人の気持ちを間違えずに扱うことが、です」
レオンハルト公爵が、少しだけ黙った。
やってしまったかもしれない。
また変なことを言った。
しかし彼は笑わなかった。
ただ、静かに言った。
「間違えずに扱える者など、ほとんどいない」
「公爵様でも?」
「私なら、間違えた時に被害が少なくなるように備える」
「とても公爵様らしいお答えですわ」
「君は?」
「わたくしは……」
わたくしは少し考えた。
「できれば、触らずに眺めていたいです」
「壁として?」
「はい」
「だが、君はもう触れている」
胸の奥が、少しだけ詰まった。
レオンハルト公爵の言葉は、いつも短い。
短いのに、逃げ場がない。
そう。
わたくしはもう触れてしまった。
殿下に距離を置きたいと告げた。
ダリオ様を見守ろうとした。
リタに変化を見抜かれた。
そして、目の前の冷血公爵にまで妙な令嬢として認識されている。
壁になりたいのに、すでに壁ではない。
「……困りましたわね」
「何が」
「壁への道が遠いです」
「向いていないのではないか」
「公爵様、可能性を初手で潰さないでください」
「事実を述べた」
「冷たいですわ」
「冷血公爵なのでな」
自分で言った。
この人、自分のあだ名を把握している。
わたくしは思わず笑いそうになった。
慌てて扇で隠す。
しかし、レオンハルト公爵は見逃さなかった。
「笑ったな」
「笑っておりません」
「扇が遅い」
「公爵様、本当に見すぎです」
「君が隠すのが下手すぎる」
なんだろう。
この会話は、怖いのに少し気が抜ける。
冷血公爵というから、もっと冷たいだけの人かと思っていた。
けれど彼は、言葉こそ鋭いが、無意味に人を傷つける感じではない。
むしろ、見ている。
こちらが隠したいところまで。
それが厄介で、少しだけ安心する。
いや、安心してはいけない。
危険人物である。
そう自分に言い聞かせた時だった。
広間の入口近くで、小さなざわめきが起こった。
それは王族が現れた時のような華やかなざわめきではない。
もっと、薄くて冷たいもの。
誰かを値踏みするような視線。
含み笑い。
扇の陰に隠された囁き。
わたくしはそちらを見た。
若い少女が一人、広間の端で立ち尽くしていた。
年は、わたくしより少し下だろうか。
淡い金髪。
白に近い水色のドレス。
飾りは控えめで、貴族令嬢たちの豪奢な装いの中では、少し質素に見える。
けれど、その少女の周りだけ、ふわりと柔らかい光があるように見えた。
大きな瞳が不安げに揺れている。
手袋をした指が、胸元でぎゅっと握られている。
見覚えがあった。
忘れるはずがない。
原作ヒロイン。
聖女候補、セシリア・フローラ。
来た。
ついに。
ヒロイン様が。
しかし同時に、別の声が聞こえた。
「平民出身ですって」
「聖女候補とはいえ、あのドレスで王宮舞踏会に?」
「所作もぎこちないわね」
「誰か教えて差し上げればよろしいのに」
扇の陰の笑い声。
嫌な音だった。
原作で見た場面だ。
この後、悪役令嬢ミリアはセシリアを見下し、嘲笑し、彼女に恥をかかせる。
それが、破滅への第一歩になる。
わたくしは、扇を閉じた。
レオンハルト公爵がこちらを見る。
「ロゼリア嬢?」
「公爵様」
「何だ」
「わたくし、少し失礼いたします」
「どこへ」
「解釈違いを正しに」
「……何?」
返事を待たず、わたくしは歩き出した。
背筋を伸ばし、顔を上げる。
令嬢たちの視線がこちらに集まる。
悪役令嬢ミリア・ロゼリアが、聖女候補セシリア・フローラへ向かって歩いていく。
きっと周囲は期待している。
わたくしが彼女を傷つけることを。
嘲笑することを。
原作通りの悪役令嬢として振る舞うことを。
けれど残念。
わたくしはもう、そちらのルートには行かない。
ヒロイン様をいじめる?
ありえない。
そんなもの、わたくしの解釈には存在しない。
わたくしはセシリア様の前で足を止めた。
彼女がびくりと肩を震わせる。
間近で見ると、さらに可愛らしい。
不安そうなのに、瞳の奥にまっすぐな芯がある。
ああ。
ヒロイン様だ。
本物だ。
感動で膝をつきそうになるが、我慢した。
今ここで膝をついたら、さすがにリタに踏まれる。
わたくしは、周囲に聞こえるように、はっきりと言った。
「ごきげんよう、聖女候補様」
セシリア様が目を丸くする。
「え……あ、あの、私」
「ミリア・ロゼリアと申します」
わたくしは優雅に一礼した。
周囲がざわめく。
わたくしは微笑んだ。
「ようこそ、王宮舞踏会へ」
セシリア様の瞳が、さらに大きくなった。
そして、背後でレオンハルト公爵が小さく呟いた声が聞こえた。
「……本当に、読めない令嬢だな」
聞こえています、公爵様。
ですが今は、それどころではありません。
ヒロイン様を守る。
それが、悪役令嬢ミリア・ロゼリアの新しい最優先事項になった。




