第3話 冷血公爵様、そこは推しカプの立ち位置です
三日間というものは、短いようで長い。
少なくとも、王宮舞踏会に向けて「壁として完璧に振る舞う準備」をするには、あまりにも短かった。
「お嬢様、もう一度確認いたします」
舞踏会当日の夕方。
わたくしの自室では、リタがいつもの無表情で、わたくしのドレスの背中のリボンを整えていた。
淡い菫色のドレス。
銀糸で薔薇の刺繍が施されている。
派手すぎず、地味すぎず、公爵令嬢としての格を保ちながら、王太子殿下の隣に立っても見劣りしない程度の装い。
……壁としては、かなり主張が強い。
だが仕方がない。
公爵令嬢には公爵令嬢の事情がある。
前世の同人イベントなら、黒い服を着て背景に溶け込むこともできた。だがこの世界でそれをやると、喪服か暗殺者か婚約破棄を予告する令嬢になる。
貴族社会、面倒くさい。
「本日の目的は、殿下と騎士団長様の会話を邪魔しないこと」
「ええ」
「ヒロイン様と思われる聖女候補が現れた場合、いじめないこと」
「もちろん」
「冷血公爵様には、できるだけ見つからないこと」
「最重要ね」
「最重要は破滅回避では?」
「それも最重要よ」
「最重要が複数ある時点で、作戦として不安でございます」
リタは淡々と言いながら、リボンをきゅっと結んだ。
少し苦しい。
「リタ、若干きついわ」
「本日は暴走防止も兼ねております」
「ドレスの紐にそんな機能を持たせないで」
「お嬢様の口には紐を結べませんので」
「そこまで?」
「はい」
即答だった。
ひどい。
だが、反論しきれない。
この三日間、わたくしはかなり忙しかった。
まず、舞踏会会場の構造を思い出した。
前世でプレイしたゲームの背景画像、イベントCG、立ち絵の位置、台詞の流れ。すべてを頭の中で再確認した。
大広間の右側に楽団。
左奥に軽食と飲み物の卓。
奥の硝子扉からバルコニー。
その手前に大きな柱が二本。
柱の陰は、人目を避けるのにちょうどよい。
王太子ユリウス殿下は、長い挨拶や令嬢たちからの会話攻めに疲れると、必ず少しだけ外の空気を吸いたがる。
その時、ダリオ様は警備確認を理由にバルコニー付近へ来る。
つまり、殿下を自然にバルコニーへ導き、ダリオ様がそこに合流しやすい状況を作ればよい。
完璧な作戦である。
名付けて、
**推しカプ神聖不可侵バルコニー見守り作戦**。
リタには名前を却下された。
「長すぎます」と言われた。
解釈の余地がない優れた作戦名なのに。
「お嬢様」
「なに?」
「今夜、絶対に植木鉢の陰に隠れようとなさらないでくださいませ」
「どうして先に言うの」
「なさる顔をしておいでですので」
「わたくし、そんなに顔に出るかしら」
「はい。殿下のお話をしている時は作った顔をなさいますが、騎士団長様と殿下を並べて考えている時は、目が危険です」
「危険」
「はい。獲物を見つけた猫に近いです」
「せめて祈る聖女にして」
「祈る聖女は、鼻息を荒くしません」
「荒くしていないわ!」
「先ほど、少し」
わたくしは黙った。
貴族令嬢としての尊厳が、着替えの段階でだいぶ削られている。
鏡の前に立つ。
そこに映っているのは、淡い菫色のドレスを着た公爵令嬢ミリア・ロゼリア。
薔薇色の髪は緩くまとめられ、耳元には小さな真珠の飾り。首元には銀細工のチョーカー。唇には薄く紅を差している。
見た目だけなら、立派な悪役令嬢だ。
けれど中身は、舞踏会の動線を頭の中で引き直している限界腐女子である。
人間、見た目では分からない。
「お嬢様」
リタが鏡越しに、わたくしを見た。
「本当に、ご無理はなさらないでくださいませ」
「分かっているわ」
「分かっていない時のお返事です」
「リタ」
「はい」
「もしわたくしが今夜、どうしようもなく変なことを言いそうになったら」
「はい」
「足を踏んで」
「かしこまりました」
「即答なのね」
「靴先は硬いものを選んでおります」
「用意がいいわね!」
リタは少しだけ口元を緩めた。
ほんの少し。
けれどその笑みを見て、わたくしも肩の力が抜けた。
そうだ。
大丈夫。
わたくしにはリタがいる。
前世の記憶もある。
作戦もある。
今夜は絶対に、推しの邪魔をしない。
悪役令嬢ミリア・ロゼリアは、壁として完璧に任務を遂行する。
……そう思っていた。
馬車が王宮へ到着するまでは。
*
王宮の舞踏会は、光でできているようだった。
高い天井から吊るされた水晶のシャンデリア。
磨き抜かれた大理石の床。
金の装飾が施された白い柱。
壁際には色とりどりの花。
楽団の弦の音が、柔らかく広間を満たしている。
貴族たちの衣擦れ。
扇で口元を隠す令嬢たちの笑い声。
香水と薔薇の匂い。
前世なら、画面の中で背景として見ていた場所。
今、その中にいる。
それだけでも十分に頭がおかしくなりそうだった。
だが、わたくしは公爵令嬢である。
ここで口を開けて天井を見上げていてはならない。
背筋を伸ばし、微笑み、優雅に歩く。
王太子殿下の婚約者として、恥ずかしくないように。
そして壁として、目立ちすぎないように。
矛盾している。
かなり矛盾している。
でもやるしかない。
「ロゼリア嬢、ごきげんよう」
「今宵のドレスもお美しいですわ」
「殿下はもうお見えになって?」
令嬢たちが次々と声をかけてくる。
わたくしは笑顔で応じた。
「ごきげんよう。皆様もお美しくていらっしゃるわ」
「まあ、お上手ですこと」
「殿下でしたら、先ほど王族控えの間にお入りになったと伺いましたわ」
「そうなのですね。今宵もお二人で最初の一曲を?」
来た。
この質問。
婚約者同士、舞踏会で最初に踊るのは自然なこと。
しかし今夜のわたくしは、殿下の隣を独占するわけにはいかない。
とはいえ、露骨に断れば不自然。
婚約者関係に亀裂があると噂され、余計に目立つ。
壁志望にとって噂は大敵である。
わたくしは柔らかく笑った。
「殿下には公務もございますもの。今宵はご無理をなさらず、皆様と楽しい時間をお過ごしになれればよろしいかと」
うん。
良い。
かなり無難。
殿下の自由を尊重する婚約者に聞こえる。
令嬢たちは少し驚いた顔をした。
「まあ……ロゼリア様がそのようにおっしゃるなんて」
「以前は、殿下と踊る順番にとても厳しくていらしたのに」
ちくり。
刺すわね、あなたたち。
けれど怒ってはいけない。
今のわたくしは悪役令嬢ではない。
未来の壁である。
「人は少しずつ変わるものですわ」
わたくしがそう返すと、令嬢の一人が小声で言った。
「……ロゼリア様、雰囲気が柔らかくなられました?」
別の令嬢が頷く。
「ええ。前は近寄りがたかったけれど、今夜は……何だか」
何だか?
まさか、目立っている?
危ない。
わたくしはすぐに話題を変えた。
「ところで、今宵の菓子卓は素晴らしいそうですわ。特に林檎の小さなタルトが評判だとか」
「まあ、そうなの?」
「行ってみましょうか」
令嬢たちの意識が菓子へ向く。
よし。
第一誘導成功。
これで広間左側の会話群が菓子卓へ流れる。
殿下が中央からバルコニーへ向かう動線に、少し空きができる。
わたくしは扇の陰で小さく息を吐いた。
順調。
かなり順調だ。
リタが後ろから小声で言う。
「お嬢様」
「なに?」
「今の誘導は見事でした」
「でしょう?」
「ただ、林檎のタルトが評判という情報はどちらから」
「勘よ」
「なければどうなさるおつもりで?」
「祈るわ」
「壁から聖女に転職なさるおつもりですか」
「祈る壁よ」
「新しい建築様式でございますね」
リタの言葉を聞き流しながら、わたくしは広間を見回した。
殿下はまだ来ていない。
ダリオ様も見えない。
ならば今のうちに、バルコニー周辺を確認するべきだ。
奥の硝子扉。
その前の柱。
右側の楽団。
左側に飲み物の卓。
原作通りだ。
硝子扉の手前には、少しだけ人が少ない空間がある。
あそこに殿下が立ち、ダリオ様が警備確認として近づく。
わたくしはそこから五歩ほど離れた柱の陰に立つ。
直接見すぎない。
でも声は拾える。
完璧。
壁というより、やはり不審者では?
そんな自問が一瞬浮かんだが、すぐに心の奥へ押し込んだ。
目的のためには、時に細かい定義は曖昧にする必要がある。
わたくしは、慎重に柱の近くへ移動した。
すると。
その場所に、すでに誰かが立っていた。
黒を基調とした礼服。
銀糸の刺繍。
高い襟。
整いすぎて冷たく見える横顔。
周囲の人々が、自然と距離を取っている。
まるで、その男の周囲だけ気温が二度ほど低い。
レオンハルト・ヴァイスベルク公爵。
冷血公爵。
なぜ。
なぜそこに。
そこは。
そこはダリオ様の立ち位置ですわ!
叫びそうになった。
もちろん叫ばない。公爵令嬢なので。
だが内心では床を叩いている。
そこは違う。
あなたの立ち位置ではない。
あなたはもっとこう、広間の端で冷たい目をして、誰かの不正を見抜いているべき人でしょう。なぜバルコニー前の神聖な導線上に立っているのですか。
今すぐ三歩右へ。
いえ、五歩。
いや、できれば反対側の柱まで移動してください。
わたくしは、じっと彼を見た。
見てしまった。
冷血公爵は、やはり美しい男だった。
銀灰色がかった髪は、柔らかそうなのに乱れがない。
青灰色の瞳は、氷のように静か。
鼻筋も顎の線も、やけに整っている。
笑わない顔がこれほど似合う人間も珍しい。
前世のファンが騒いだ理由は分かる。
分かるけれど、今は困る。
非常に困る。
「お嬢様」
リタが小声で言う。
「見すぎです」
「分かっているわ」
「分かっておられる方の目ではございません」
「あの方がそこに立っているのが悪いの」
「公爵様の立ち位置にまで文句をつけるのは、お嬢様くらいかと」
「だって、そこは違うのよ」
「何が違うのですか」
「配置が」
「配置」
「ええ。物語には適切な配置というものがあるの」
「また不安な言葉が出ました」
その時だった。
レオンハルト公爵の視線が、こちらを向いた。
まっすぐに。
逃げ道がないほど正確に。
わたくしは、思わず扇を上げた。
遅い。
完全に目が合った。
冷血公爵は少しも表情を変えず、こちらへ歩いてくる。
周囲の空気が割れるように、人々が道を開けた。
怖い。
いや、顔が良い。
怖い。
顔が良いのに怖い。
こちらへ来ないで。
今あなたに関わると、絶対に面倒なことになる。
わたくしは一歩下がろうとした。
だが背後にはリタがいる。
リタは一切どかない。
なぜ。
助けて。
侍女なら主人の逃走経路を確保して。
「ロゼリア嬢」
低い声がした。
広間のざわめきの中でも、不思議とよく通る声。
わたくしは扇を下ろし、完璧な淑女の礼をした。
「ヴァイスベルク公爵様。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
短い。
冷たい。
なのに声が良い。
困る。
レオンハルト公爵は、わたくしをじっと見下ろしていた。
身長差がある。
圧がある。
顔が良い。
もう一度言うが、非常に困る。
「先ほどから、私の方を見ていたな」
直球。
もう少し貴族らしく遠回しに言ってほしい。
わたくしは微笑みを保った。
「まあ、そうでしたかしら」
「三度、目が合った」
「数えていらしたのですか」
「警備責任者なのでな。不審な視線は数える」
不審。
不審な視線。
わたくし、まさか舞踏会開始早々、警備対象ではなく警戒対象になった?
リタの視線が背中に刺さる。
言ったでしょう、という気配がする。
言われた気がする。実際言われた。
「それは失礼いたしました。公爵様のお姿が、あまりに……」
美しい、と言いかけて止める。
違う。
それは誤解を生む。
あまりに邪魔な位置に、とも言えない。
もっと別の、無難な言葉を。
「あまりに、配置として印象的でしたので」
言った瞬間、リタが後ろでわずかに息を止めた。
自分でも思った。
配置として印象的とは何だ。
レオンハルト公爵の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「配置?」
「いえ、今のは……貴族的な比喩ですわ」
「聞いたことのない比喩だな」
「ロゼリア家独自の」
「そうか。ロゼリア家では人を配置で褒めるのか」
「場合によります」
「今は褒めたのか」
「……広い意味では」
「狭い意味では?」
詰めてくる。
この人、怖い。
質問の逃げ道を塞ぐのが上手すぎる。
わたくしは微笑みながら、心の中で悲鳴を上げていた。
そこへ、天の助けのように楽団の曲が変わった。
広間の入口付近がざわめく。
王太子ユリウス殿下が姿を現したのだ。
金の髪。白と青の礼服。胸元の王家の徽章。
やはり華がある。
その少し後ろに、ダリオ様。
黒に深紅の飾りが入った騎士服。
警備のための装いでありながら、舞踏会にふさわしい品もある。
殿下の半歩後ろを歩く姿が、もう、絵画。
いや、絵画では足りない。
連作壁画。
王宮の天井に描くべき。
わたくしの意識は、一瞬でそちらへ飛んだ。
殿下が誰かに声をかけられる。
ダリオ様が周囲を確認する。
二人の距離感。
近すぎず、遠すぎず。
公私を分けながらも、信頼が滲むあの半歩。
非常に良い。
今すぐ記録係を呼びたい。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「今度は殿下を見ている」
しまった。
目の前に冷血公爵がいたのだった。
「婚約者ですので」
「ならば先ほどまで私を見ていた理由は?」
「公爵様も今宵の重要な方ですので」
「警備責任者として?」
「ええ。主に配置として」
「また配置か」
レオンハルト公爵は、わずかに目を細めた。
怒っているのか、面白がっているのか分からない。
この人の表情は読みにくい。
だが、見られていることだけは分かる。
観察されている。
前世の職場で、上司ではなく監査担当に資料を見られている時のような緊張感がある。
「君は殿下を見ているようで、殿下だけを見ているわけではないな」
ぎくり。
「何のことでしょう」
「殿下とグランツ騎士団長の距離を見ている」
ぎくりどころではない。
ほぼ刺された。
この男、危険すぎる。
なぜ分かる。
わたくしは必死に笑った。
「公爵様は観察眼に優れていらっしゃるのですね」
「否定しないのか」
「否定するほどのことでもございませんわ。殿下の婚約者として、殿下の周囲に気を配るのは当然ですもの」
「騎士団長との距離まで?」
「殿下の安全に関わりますので」
「なるほど」
レオンハルト公爵はそう言った。
納得した声ではなかった。
完全に、保留の声だった。
その時、ユリウス殿下がこちらに気づいた。
殿下は穏やかに微笑み、近づいてくる。
その後ろにダリオ様もいる。
来る。
推しが。
二人で。
並んで。
来る。
だが、目の前にはレオンハルト公爵。
違う。
この配置は違う。
本来なら、殿下がこちらへ来る前に、わたくしは少し下がり、ダリオ様が自然に隣へ立ち、殿下と短い会話を交わし、それを柱の陰からわたくしが見守るはずだった。
なのに今、わたくしの隣には冷血公爵がいる。
しかも動かない。
なぜ動かないの。
お願い、三歩右へ。
いや、もうこの際、十歩ほど遠くへ。
「ミリア」
ユリウス殿下が声をかけてきた。
「今宵もよく似合っている」
「ありがとうございます、殿下」
わたくしは淑女らしく一礼する。
殿下の視線が、わたくしとレオンハルト公爵の間を行き来した。
「レオンハルト公と話していたのか」
「ええ。少しだけ」
「珍しいな」
殿下の声は穏やかだった。
だが、わずかに何かが混じっている。
興味?
疑問?
それとも、軽い警戒?
やめて。
嫉妬イベントなら相手を間違えている。
ここはわたくしではない。
できればダリオ様方面へ向けてください。
ダリオ様は、わたくしを見て軽く頭を下げた。
「ロゼリア嬢」
「グランツ卿。今宵も警備、お疲れ様でございます」
「お気遣い感謝する」
短い。
真面目。
余計な装飾がない。
良い。
「ダリオ、彼女にまで堅苦しいな」
ユリウス殿下が笑う。
「殿下の婚約者に対して、軽率な態度は取れません」
「昔から知っている仲だろう」
「それとこれとは別です」
「君は本当に変わらない」
「殿下は少し変わってください」
殿下が笑った。
ダリオ様は真顔。
ああ。
これ。
これです。
わたくしはこの空気を見守りに来たのです。
ありがとうございます。
本当にありがとうございます。
できれば今すぐこの場から消えて、柱の模様になりたい。
しかし、現実は優しくない。
レオンハルト公爵が横から言った。
「グランツ卿。南側の警備配置は確認したのか」
ダリオ様の表情が、騎士団長のものになる。
「はい。人員は予定通りです。ただ、庭園側に少し人の流れが偏っています」
「ならば一人増やせ」
「すでに手配しております」
「早いな」
「殿下が出られる可能性がありますので」
殿下が苦笑した。
「私の行動まで読まれているのか」
「読まれたくなければ、普段からもう少し変化をつけてください」
「努力しよう」
「信用できません」
完璧。
今の会話、完璧。
レオンハルト公爵が混ざっていることだけが惜しい。
いや、レオンハルト公爵の声も低くて良い。
そこは認める。
しかし、今は違う。わたくしは三人会話ではなく、主従会話を見守る予定だったのだ。
わたくしが内心で複雑に悶えていると、ユリウス殿下がこちらへ手を差し出した。
「ミリア。最初の一曲、踊ってくれるかな」
来た。
想定内。
婚約者として、ここは断れない。
断れば目立つ。
踊れば時間を取られる。
だが一曲だけなら仕方ない。その後、殿下が自然に疲れたふりをしてバルコニーへ向かうよう誘導すればいい。
わたくしは微笑み、手を差し出そうとした。
その瞬間。
「殿下」
レオンハルト公爵が静かに言った。
「先ほど陛下がお呼びでした。西方使節の件で、短く確認をしたいと」
「今か?」
「はい」
殿下は少し困った顔をした。
「舞踏会が始まったばかりなのに」
「だから短く、とのことです」
「分かった。ミリア、すまない。少しだけ待っていてくれるか」
「もちろんでございます」
わたくしは完璧に微笑んだ。
内心では、かなり複雑だった。
殿下とのダンスがなくなった。
これは良い。
しかし殿下が一時的に退場した。
これは予定外。
ダリオ様も殿下について行くのかと思ったが、レオンハルト公爵が彼に視線を向けた。
「グランツ卿は広間に残れ。警備指揮が必要だ」
「承知しました」
殿下が軽く手を上げ、広間の奥へ向かう。
ダリオ様はその場に残る。
つまり、殿下とダリオ様が離れた。
解散。
尊い会話タイム、強制終了。
わたくしは、心の中で静かに膝をついた。
レオンハルト公爵。
あなたは仕事をしただけなのでしょう。
分かります。
分かりますけれど。
そこではない。
今ではない。
わたくしの計画では、殿下とダリオ様はこれからバルコニーへ向かう予定だったのです。
その時だった。
楽団が、新しい曲を奏で始めた。
ゆるやかで、品のよい舞踏曲。
周囲の令嬢たちがちらちらとこちらを見る。
王太子殿下は不在。
騎士団長は警備中。
わたくしは婚約者として一人残されている。
このままでは、誰かに話しかけられ、噂の中心になる。
まずい。
非常にまずい。
わたくしは一歩下がろうとした。
その前に、黒い手袋をした手が差し出された。
レオンハルト公爵だった。
「ロゼリア嬢」
「……はい」
「一曲、付き合ってもらおう」
時間が止まった。
周囲の空気が、確かに変わった。
令嬢たちの視線が集まる。
貴族たちが小声で何かを囁く。
リタが背後で、たぶん目を閉じた。
わたくしは差し出された手を見た。
黒い手袋。
長い指。
逃げ場のない優雅さ。
違う。
違います。
その曲は、わたくし用ではありません。
そもそもあなたと踊る予定は、どのルートにもなかったはずです。
冷血公爵レオンハルト・ヴァイスベルク。
原作に専用ルートがなかった男。
今、その男が、悪役令嬢であるわたくしにダンスを申し込んでいる。
「公爵様」
わたくしは必死に微笑んだ。
「わたくしでよろしいのですか」
「君に申し込んでいる」
「警備責任者でいらっしゃいますのに」
「広間の中央からなら、全体が見える」
「職務中に踊る理由としては、かなり強引ですわ」
「なら、別の理由を用意しよう」
「別の理由」
「君が、先ほどからあまりにも妙な顔をしている」
「妙な顔」
「放っておくと、何かしそうだ」
ひどい。
でも否定しきれない。
リタが後ろで小さく咳払いをした。
踏まれなかっただけ優しいのかもしれない。
わたくしは覚悟を決めた。
ここで断れば余計に目立つ。
踊るしかない。
ただし、気をつけなければ。
この男は危険だ。
配置の一言から、すでに何かを嗅ぎ取っている。
わたくしは、ゆっくりと手を重ねた。
「では、一曲だけ」
「十分だ」
レオンハルト公爵の手が、わたくしの手を取る。
冷たい。
けれど、不思議と乱暴ではない。
広間の中央へ導かれる。
人々の視線が、肌に刺さる。
王太子殿下の婚約者であるミリア・ロゼリアが、冷血公爵と踊る。
噂になる。
絶対になる。
壁になるどころか、広間の中央に引きずり出されている。
どうしてこうなった。
わたくしは、心の中で叫んだ。
推しカプを見守るための舞踏会だったのに。
なぜ、冷血公爵と踊ることになっているのですか。
曲が始まる。
レオンハルト公爵が一歩踏み出す。
わたくしも合わせる。
彼の手が、わたくしの腰の少し上に添えられる。
近い。
けれど近すぎない。
完璧に礼儀正しい距離。
それがかえって、落ち着かない。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「君は今、何を考えている」
いきなり核心。
わたくしは微笑んだ。
「公爵様は、舞踏中にそのような質問をなさるのですね」
「普通の令嬢にはしない」
「わたくしは普通ではないと?」
「少なくとも、私の立ち位置を見て睨む令嬢は初めてだ」
見抜かれている。
しかも睨んでいたことになっている。
「睨んでいたわけではございません」
「では?」
「……惜しい、と思っておりました」
「惜しい?」
「いえ、忘れてくださいませ」
「忘れるには気になる言葉だな」
レオンハルト公爵は、淡々とステップを進める。
わたくしも合わせる。
悔しいが、踊りやすい。
この人は相手の動きをよく見ている。押しつけない。けれど主導権は離さない。
こういうところも人気が出る要素なのだろう。
いや、だから今は分析している場合ではない。
「君は殿下を避けている」
彼が言った。
足を踏みそうになった。
危ない。
リタではなく、わたくしが公爵様の足を踏むところだった。
「そのように見えますか」
「見える」
「殿下のお立場を考えて、少し距離を置こうとしているだけですわ」
「婚約者が急に距離を置けば、殿下は気にする」
「それは……」
「君の狙いと逆ではないのか」
言葉が詰まった。
この人、本当に嫌なところを突いてくる。
そう。
実際、殿下は気にしている。
わたくしは好感度を下げるつもりで距離を置いたのに、なぜか興味を持たれてしまった。
作戦としては失敗である。
「それは、少々予想外でした」
「予想外」
「ええ。わたくしはもっと、自然に薄れていく予定でしたので」
「何が」
「存在感が」
レオンハルト公爵の目が、わずかに細くなる。
「公爵令嬢が存在感を薄める理由は?」
「壁になるためです」
しまった。
出た。
わたくしは口を閉じた。
遅い。
完全に言った。
レオンハルト公爵は黙った。
曲だけが流れている。
周囲の貴族たちは優雅に踊っている。
わたくしたちも外から見れば、きっと普通に踊っているように見えるのだろう。
だが会話の中身は、壁である。
「壁」
「……聞かなかったことに」
「できると思うか」
「努力していただければ」
「難しいな」
「そこを何とか」
「君は、殿下の婚約者をやめて壁になるつもりなのか」
「言い方に問題があります」
「内容は?」
「……方向性としては、近い部分もございます」
「余計に問題だ」
レオンハルト公爵は、わたくしを軽く回した。
視界がふわりと動く。
その一瞬、広間の奥が見えた。
ユリウス殿下が戻ってきている。
その隣に、ダリオ様。
あ。
二人が並んでいる。
今です。
今こそ見たい。
しかし、わたくしはレオンハルト公爵と踊っている。
見えない。
角度が悪い。
公爵様、少しだけ回転を調整してください。
いや、言えない。
言えるわけがない。
わたくしがほんの少し視線を逸らしたのを、レオンハルト公爵は見逃さなかった。
「また殿下と騎士団長か」
「……公爵様は、少し見すぎでは?」
「君ほどではない」
「わたくしは見守っているだけです」
「見守る?」
「そうです」
「殿下を?」
「殿下とダリオ様を」
「二人まとめて?」
「はい」
「なぜ」
ここで、わたくしは判断を誤った。
いや、誤ったというより、推しに関する質問をされて、思考回路の安全装置が外れた。
「殿下とダリオ様は、並んでいてこそ価値があるのです」
言った。
かなり言った。
レオンハルト公爵の足が、一瞬だけ止まりかけた。
だがすぐに踊りは続く。
彼の顔は相変わらず冷静だ。
しかし目だけが、明らかにこちらを見ている。
「……どういう意味だ」
「今のは忘れてくださいませ」
「君は先ほどから、忘れにくいことばかり言う」
「公爵様の記憶力が良すぎるのです」
「責任転嫁が早いな」
「得意ではありませんが、緊急時ですので」
レオンハルト公爵は、ほんのわずかに息を吐いた。
笑ったわけではない。
たぶん呆れたのだ。
それでも、なぜか怒ってはいないように見えた。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「君は、殿下に未練があるわけではないのだな」
「ございません」
即答した。
レオンハルト公爵の目が少し変わる。
「騎士団長にも?」
「ございません」
「ならば、なぜそこまで二人を気にする」
わたくしは言葉に詰まった。
言えない。
前世で推していたから。
あなた方はゲームの登場人物で。
わたくしは悪役令嬢で。
あの二人の信頼関係があまりにも尊くて。
だから邪魔したくなくて。
そんなことを言えるはずがない。
だから、できるだけまともな言葉を探した。
「……美しいものは、壊したくないのです」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
軽い冗談で逃げるつもりだった。
けれど、出てきたのは案外本音に近い言葉だった。
殿下とダリオ様の関係を、壊したくない。
セシリア様の未来を、壊したくない。
悪役令嬢ミリアの執着で、誰かの大切なものを踏みにじりたくない。
前世で、好きなものを「そんなくだらないもの」と笑われたことがある。
大切にしていたものを、軽く扱われたことがある。
だから、わたくしは知っている。
人の大切なものを壊す側には、なりたくない。
レオンハルト公爵は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、さっきまでと少し違った。
責めるものではなく、考えるもの。
「君は」
彼は低く言った。
「妙な令嬢だな」
「……褒め言葉として受け取っても?」
「勧めない」
「では慎ましく傷ついておきます」
「傷ついた顔ではない」
「公爵様は人の顔を見すぎです」
「君は顔に出すぎだ」
「リタにも似たようなことを言われました」
「侍女は正しい」
「味方がいない……」
思わず漏らすと、レオンハルト公爵がほんの少しだけ目を伏せた。
笑った?
いや、違う。
今のはたぶん、笑いかけた。
危ない。
冷血公爵の微笑未満は、非常に危ない。
そんなことを考えているうちに、曲が終わった。
広間に拍手が広がる。
レオンハルト公爵は、わたくしの手を離し、礼をした。
わたくしも淑女らしく礼を返す。
周囲からの視線が痛い。
王太子殿下の婚約者が、冷血公爵と踊った。
しかもそれなりに長く会話していた。
明日には噂になるだろう。
壁作戦、開始早々に崩壊の気配である。
「ロゼリア嬢」
レオンハルト公爵が、去り際に言った。
「はい」
「君の言う配置とやらには、もう少し興味がある」
「持たなくてよろしいです」
「それはこちらが決める」
「公爵様」
「それと」
彼は、ほんの少しだけ視線をバルコニーの方へ向けた。
「壁になりたいなら、広間の中央であれほど分かりやすく動揺しないことだ」
痛い。
正論が痛い。
「努力いたします」
「期待はしないでおく」
「ひどいですわ」
「正直なだけだ」
そう言って、レオンハルト公爵は離れていった。
背中まで隙がない。
周囲の人々がまた自然に道を開ける。
冷血公爵という呼び名は伊達ではない。
けれど、思っていたよりも会話をする人だった。
怖い。
鋭い。
そして、少しだけ面白い。
いや、面白いと思ってはいけない。
危険人物である。
わたくしは柱の近くへ戻り、深く息を吐いた。
すぐにリタが寄ってくる。
「お嬢様」
「何も言わないで」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔が言っているわ」
「では顔だけで申し上げます」
「やめて」
リタは無表情だった。
だが、ものすごく言いたそうだった。
わたくしは扇で顔を隠した。
「作戦は、少しだけ乱れたわね」
「少しだけ、でございますか」
「大きく乱れたわ」
「はい」
「でも、まだ終わっていないわ。殿下とダリオ様は今どこに?」
「奥の扉付近に」
わたくしは、そっと視線を向けた。
ユリウス殿下とダリオ様は、確かに奥の方にいた。
殿下が何か言い、ダリオ様が渋い顔をしている。
殿下が笑う。
ダリオ様が小さくため息をつく。
良い。
まだ間に合う。
この後、殿下をバルコニーへ向かわせれば、原作に近い流れへ戻せる。
わたくしは気を取り直した。
「リタ」
「はい」
「第二作戦へ移行します」
「お嬢様」
「なに?」
「先ほど公爵様に、広間の中央で動揺するなと言われたばかりです」
「大丈夫。今度は柱の陰で動揺するわ」
「改善しておりません」
リタの忠告を背に、わたくしは静かに移動した。
王太子殿下と騎士団長ダリオ様。
その尊い会話を守るために。
そして、冷血公爵レオンハルト・ヴァイスベルクに、これ以上目をつけられないために。
……ただし、わたくしはまだ知らなかった。
この後すぐ、原作ヒロインである聖女候補セシリア・フローラが現れ、わたくしの作戦どころか、この世界の人間関係そのものを大きく狂わせることになるのだと。




