第2話 私は壁になりたいだけです
王宮から馬車でロゼリア公爵邸へ戻るまでの間、わたくしは一言も喋らなかった。
喋らなかった、というより、喋れなかった。
頭の中が忙しすぎたのだ。
悪役令嬢。
婚約破棄。
断罪。
修道院送り。
王太子ユリウス殿下。
騎士団長ダリオ様。
そして、公式が呼吸していた庭園。
情報量が多すぎる。
前世のわたくしは、仕事帰りの電車内でスマホを片手に推しカプ考察を三千字ほど打つこともあった。けれどそれは、あくまで画面越しの話である。
目の前に推しがいる。
しかも喋る。
紅茶を飲む。
目線で会話する。
生身の破壊力というものを、わたくしは甘く見ていた。
馬車の向かい側に座るリタが、じっとこちらを見ている。
いつもの無表情。
けれど長年の付き合いで分かる。
あれは、かなり聞きたいことがある顔だ。
リタは昔からそうだった。わたくしが幼い頃、こっそり菓子を盗み食いした時も、すぐには問い詰めなかった。夕食の後、わたくしが油断した瞬間に「ところでお嬢様、昼のレモンタルトは美味しゅうございましたか」と刺してきた女である。
今も、たぶん刺す準備をしている。
怖い。
しかし、ここで逃げても仕方ない。
馬車が屋敷の前に止まる。
従僕が扉を開け、リタが先に降りる。わたくしは手を借りて地面に足を下ろした。
ロゼリア公爵邸は、白い石造りの大きな屋敷である。庭には季節の花が咲き、窓硝子は磨き上げられ、門から玄関までの道には一枚の落ち葉すらない。
完璧な公爵家。
その一人娘であるわたくしは、今日から推しカプ見守り活動に人生を捧げる予定である。
家格との温度差がひどい。
「お嬢様」
玄関を抜け、自室へ向かう廊下で、リタが静かに口を開いた。
「お着替えの前に、お茶をお持ちいたしましょうか」
「ええ。お願い」
「それと」
来た。
わたくしは覚悟した。
リタは横目でわたくしを見る。
「本日は、いつものお嬢様とはずいぶん違っておいででした」
「そうかしら」
「はい。まず、殿下のお顔を見つめる時間が半分以下でした」
「数えていたの?」
「侍女でございますので」
「侍女とは、婚約者を見る時間まで数える職業だったかしら」
「お嬢様の場合、健康状態の把握に必要です」
「わたくしの健康状態、殿下を見る時間で測られていたの?」
「はい。ここ数年は大変分かりやすかったので」
返す言葉がない。
前世を思い出す前のミリアは、相当ユリウス殿下に執着していたのだろう。
ゲームで見た悪役令嬢ミリアも、そういうキャラクターだった。
完璧な公爵令嬢。
けれど婚約者への執着心だけは隠せない。
ヒロインに嫉妬し、余裕を失い、最後は自分から破滅へ向かっていく。
そうならないために、わたくしは今日から変わらなければならない。
部屋に入り、リタが扉を閉める。
わたくしの自室は、淡い薔薇色と白を基調に整えられている。天蓋付きの寝台。猫脚の机。金の縁取りの鏡。窓辺には小さな花瓶。
いかにも公爵令嬢の部屋だ。
その部屋の中央で、わたくしは深く息を吸った。
「リタ」
「はい」
「作戦会議をします」
「お着替えの前に、でございますか」
「今すぐよ」
「かしこまりました」
リタは嫌な顔一つせず、机の上に便箋とペンを用意した。
やはり有能である。こういう侍女は、前世なら部署に一人欲しかった。きっと上司の無茶振りも冷静に跳ね返してくれる。
わたくしは椅子に腰掛け、真剣な顔で言った。
「まず、今日からわたくしは殿下への態度を改めます」
「先ほど、すでにかなり改めておいででした」
「ええ。第一歩としては悪くなかったわ」
「殿下は困惑しておられましたが」
「そこは想定外だったわ」
「想定なさってくださいませ」
リタの言葉は短く、痛い。
わたくしは咳払いした。
「大切なのは、今後よ。わたくしはもう、殿下に執着しません」
リタはペンを持ったまま、少しだけ目を細めた。
「……理由をお聞きしても?」
「殿下のためです」
「お嬢様が、そのようにおっしゃる日が来るとは思いませんでした」
「失礼ね」
「申し訳ございません。ですが、正直に申し上げますと、昨日までのお嬢様は、殿下のためというより、殿下の隣にいるご自分のために努力しておられるように見えました」
胸の奥に、ちくりとした痛みが走った。
リタの言葉は遠慮がない。
けれど、悪意はない。
それに、きっと事実なのだ。
前世を思い出す前のミリアが何を考えていたのか、今のわたくしには全部は分からない。けれど身体の奥には、殿下の婚約者であろうと必死に背伸びしていた感覚が残っている。
褒められたい。
選ばれたい。
殿下の隣にふさわしいと思われたい。
その気持ちは、少し痛々しいほど強かった。
悪役令嬢としてのミリアを、ただ愚かだと切り捨てるのは簡単だ。
でも、今その身体で息をしているわたくしには、少しだけ分かってしまう。
この子も、必死だったのだ。
方向を間違えただけで。
「そうね」
わたくしは静かに言った。
「たぶん、そうだったのだと思うわ」
リタが少し驚いたようにこちらを見る。
わたくしは笑った。
「でも、もうやめるの。殿下には、殿下自身が心から安らげる相手が必要だわ。公務の場で完璧に並ぶだけの婚約者ではなく、言葉にしなくても隣に立っていられる人が」
「……お嬢様」
「そして、そういう方はもういらっしゃるのよ」
「え?」
「いるの」
わたくしは両手を組んだ。
脳裏に浮かぶのは、庭園で見たユリウス殿下とダリオ様の姿である。
殿下が少し笑い、ダリオ様がため息をつく。
それだけで成立する空気。
あれは一朝一夕でできるものではない。
信頼。主従。幼なじみ的距離感。忠誠と遠慮のなさの絶妙な混合物。
とても良い。
非常に良い。
国宝にすべきである。
「リタ」
「はい」
「人と人との間には、踏み込んではならない神聖な距離というものがあります」
「急に宗教のお話でしょうか」
「ある意味ではそうね」
「困りました」
「困らないで。とても大切な話よ」
わたくしは立ち上がり、部屋の中を歩いた。
考えを言葉にするためには、少し動いた方がいい。前世でも同人誌の構成を考える時、狭い部屋の中をぐるぐる歩いていた。たまに椅子に足をぶつけて悶絶したが。
「わたくしは、殿下とダリオ様の間に割って入るべきではないの」
「恐れながら、お嬢様は殿下の婚約者でございます」
「それが問題なのよ」
「それが問題」
「ええ。婚約者という立場は強すぎるわ。どうしても視界に入る。存在感がある。場の空気を変えてしまう」
「公爵令嬢ですので、存在感は必要かと」
「不要な場面もあるの。人は時に、空気にならなければならない。いえ、空気ではまだ吸われてしまう。理想は壁よ」
リタのペンが止まった。
「壁、でございますか」
「そう。壁」
「建築物の」
「ええ。視線を遮らず、会話を邪魔せず、しかしそこにあることで空間を支える存在。それが壁」
「遮っております」
「そこは比喩よ」
「比喩にしては、少々材質が硬いように思われます」
「リタ、茶々を入れないで」
「申し訳ございません。続けてくださいませ。壁のお話を」
言い方。
けれど、ここで負けてはいけない。
わたくしは真剣に続けた。
「壁というものは、自分から話しかけません。相手の邪魔をしません。けれど、そこにいる。静かに見守る。たとえば、殿下とダリオ様が重要な話をしている時、わたくしが割って入る必要はないの。むしろ、入ってはいけないの。そこに必要なのは婚約者ではなく、壁なのよ」
「つまり、お嬢様は殿下と騎士団長様の会話を壁として見守りたいと」
「その通り」
「世間では、それを覗き見と申します」
「違うわ」
「違いますか」
「覗き見には欲がある。見守りには祈りがあるの」
「植木鉢の陰から見れば、どちらも似たようなものかと」
「なぜ植木鉢を想定したの」
「本日、お嬢様が庭園で植木鉢の陰に隠れようとしておられたので」
「見ていたのね」
「侍女でございますので」
その言葉、万能すぎないかしら。
リタはペンを置き、真正面からわたくしを見た。
「お嬢様。確認してもよろしいでしょうか」
「ええ」
「お嬢様は、殿下をお嫌いになったのですか」
「いいえ」
即答だった。
ユリウス殿下を嫌っているわけではない。
むしろ好きだ。
ただし、前世からの推しとして。いや、今は目の前で生きている人間でもあるから、その言い方も少し違うのかもしれない。
好き。
尊敬。
観測対象。
守るべき公式供給。
言葉にすると危険物になっていく。
「殿下はお優しい方よ。王太子としての責任もおありになる。だからこそ、わたくしの執着で縛ってはいけないの」
「では、騎士団長様をお慕いに?」
「それも違うわ」
「違うのですか」
「違うわ。ダリオ様は単体で素晴らしいけれど、殿下の隣にいらっしゃる時の輝きがまた別格なの」
「お嬢様」
「なに?」
「だいぶ危険な領域に踏み込んでおられます」
「分かっているわ。だから壁になりたいのよ」
「壁で解決する問題でしょうか」
「少なくとも、間に挟まるよりはましよ」
リタは深いため息をついた。
侍女としてではなく、人間としてのため息だった。
わたくしは少し申し訳なくなる。
「ごめんなさい。急にこんなことを言われても困るわよね」
「困っております」
「正直ね」
「お嬢様に嘘を申し上げても、仕方ありませんので」
リタはそう言ってから、少しだけ声を柔らかくした。
「ただ……昨日までのお嬢様よりは、今のお嬢様の方が、よく喋っておられます」
「そう?」
「はい。昨日までのお嬢様は、殿下にどう見られるかをいつも気にしておいででした。笑う時も、怒る時も、鏡を見ながら練習した形から外れないようになさっていた」
「……」
「ですが今は、かなり変です」
「そこは言葉を選んで」
「かなり生きておられるように見えます」
リタの言葉に、わたくしは一瞬黙った。
かなり変。
かなり生きている。
なかなか鋭い二段攻撃である。
けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
「リタは、今のわたくしの方がいいと思う?」
「侍女の立場で申し上げるなら、もう少し品よく落ち着いていただきたいです」
「ええ」
「ですが、個人的には」
リタは少しだけ目を伏せた。
「お嬢様が、食べたい菓子を食べ、言いたいことを言い、たまに変なことを言って私を困らせるくらいの方が、安心いたします」
胸がきゅっとした。
リタは普段、感情を表に出さない。
けれど、彼女はずっと見ていたのだ。
完璧であろうと背伸びしていたミリアを。
殿下に選ばれようと必死だったミリアを。
菓子一つ余分に食べることすら、王太子妃にふさわしいかどうかで悩んでいたミリアを。
わたくしは、リタに笑いかけた。
「では、あなたを困らせない程度に変になるわ」
「お嬢様」
「なに?」
「すでに手遅れです」
「早くない?」
その時、扉が控えめに叩かれた。
リタがすっと表情を戻す。
「どうぞ」
入ってきたのは、屋敷の執事長だった。白髪混じりの紳士で、いつも背筋が定規のように伸びている。
「お嬢様。王宮より招待状が届いております」
「王宮から?」
「はい。三日後の舞踏会へのご招待にございます」
来た。
わたくしの心臓が跳ねる。
三日後の王宮舞踏会。
知っている。
これは原作序盤の重要イベントだ。
王太子ユリウス殿下と騎士団長ダリオ様が、舞踏会の喧騒を離れ、バルコニーで短い会話を交わす。
ゲーム本編では、ヒロイン視点でその場面を遠くから見かける。
王太子の孤独と、騎士団長の揺るがない忠誠が垣間見える、非常に美味しい場面である。
前世のわたくしは、その短いイベントを何度も再生した。
台詞は少ない。
でも、少ないからいい。
余白がある。
余白には夢が詰まっている。
わたくしは招待状を受け取った。
厚みのある上質な紙。金の縁取り。王家の紋章。
指先が震える。
「お嬢様?」
リタが不審そうに見る。
「リタ」
「はい」
「三日後よ」
「舞踏会でございますね」
「いいえ。歴史が動く日よ」
「大げさです」
「大げさではないわ。これは重要イベントなの」
「また謎の言葉が出ました」
リタが眉を寄せる。
わたくしは招待状を胸に抱いた。
「三日後の舞踏会で、殿下とダリオ様がバルコニーに出る可能性が高いわ」
「なぜ分かるのですか」
「分かるの」
「理由を」
「魂が」
「お嬢様」
「勘よ」
「最初からそうおっしゃってくださいませ」
リタは呆れながらも、机の上に新しい紙を置いた。
「では、その舞踏会でお嬢様は何をなさるおつもりですか」
「もちろん、見守るわ」
「壁として」
「壁として」
「具体的には」
「殿下とダリオ様が自然に二人きりになれるよう、周囲の動線を整える。邪魔な令嬢たちの会話を別方向へ流し、殿下がバルコニーへ向かいやすい空気を作り、わたくし自身は目立たない位置に退避する」
「お嬢様」
「なに?」
「それは壁というより、舞踏会の裏方では」
「裏方。いい言葉ね」
「喜ばないでください」
リタは頭痛をこらえるように、こめかみのあたりを押さえた。
「そもそも、お嬢様は殿下の婚約者です。舞踏会では、殿下の隣に立つことを求められます」
「そこが問題なのよね」
「問題というより、役目です」
「役目を果たしつつ、目立たず、邪魔せず、適切なタイミングで退く。難易度が高いわ」
「普通に殿下の隣に立ってくださいませ」
「それでは駄目なの」
「なぜですか」
「わたくしが隣に立つことで、殿下とダリオ様の会話機会が減るかもしれないでしょう」
「婚約者としては正しい状態です」
「推し活としては最悪よ」
「お嬢様、その推し活という言葉は何ですか」
しまった。
自然に出た。
わたくしは咳払いをした。
「祈りの一種よ」
「また宗教に戻りましたね」
「人は大切なものを前にすると、自然と祈るの」
「では、その大切なものとは」
「殿下とダリオ様の関係性」
「……」
「リタ?」
「申し訳ございません。侍女として理解しようと努めましたが、今、少し遠くへ行っておりました」
「戻ってきて」
「努力いたします」
リタは疲れた顔で招待状を確認した。
その瞬間、彼女の指が止まる。
「お嬢様」
「どうしたの?」
「こちら、警備責任者のお名前が記されております」
「警備責任者?」
「はい。王宮舞踏会ですので、王族警護のため責任者が置かれます。今回は……」
リタが招待状の下部を指さす。
わたくしはそこを見た。
そして、呼吸が止まりかけた。
レオンハルト・ヴァイスベルク公爵。
その名前が、端正な文字で記されている。
レオンハルト。
冷血公爵。
原作では、ほとんど隠しキャラのような存在だった人物だ。
攻略対象ではない。少なくとも通常ルートでは。
王宮の裏側に関わる重要人物で、情報を握り、時には主人公たちを助け、時には冷たく突き放す。立ち絵はある。台詞もある。人気も高かった。
前世の掲示板では、彼の専用ルートがないことを嘆く声が山ほどあった。
わたくしもその一人だった。
いや、正確には、彼単体も人気だったが、彼が現れると物語が急に締まるので、非常にありがたい存在だった。
冷静。
有能。
顔が良い。
笑わない。
そして、たまに核心を突く。
危険な男である。
下手に近づくと、隠していることを見抜かれる。
今のわたくしにとっては、最も避けたい相手かもしれない。
「お嬢様、顔色がまた」
「リタ」
「はい」
「三日後の舞踏会、難易度が上がったわ」
「何の難易度でしょうか」
「生存と見守りの両立よ」
「せめて生存だけに絞ってくださいませ」
リタの声は真剣だった。
しかし、わたくしの胸は妙に高鳴っていた。
王太子ユリウス殿下。
騎士団長ダリオ様。
そして冷血公爵レオンハルト。
主要人物が、舞踏会でそろう。
危険だ。
破滅フラグが乱立している。
でも同時に。
供給の気配がする。
あまりにも危険で、あまりにも見たい。
わたくしは招待状を握りしめた。
「リタ」
「はい」
「ドレスを選ぶわ」
「壁になるのでは?」
「壁にも場にふさわしい装いが必要よ」
「壁にドレスは不要かと」
「うるさい壁もあるの」
「それはもう壁ではございません」
「いいえ。わたくしは壁よ」
わたくしは窓の外を見た。
夕暮れの庭に、長い影が落ちている。
三日後。
王宮舞踏会。
わたくしはそこで、推しの尊い時間を見守り、ヒロイン登場に備え、殿下への執着を消し、悪役令嬢としての破滅を回避しなければならない。
やることが多い。
前世の仕事より多いかもしれない。
けれど、今のわたくしには目的がある。
わたくしは、殿下とダリオ様の邪魔をしない。
ヒロイン様を傷つけない。
そして、冷血公爵にはできるだけ見つからない。
「完璧だわ」
「不安しかございません」
リタが即答した。
わたくしは聞かなかったことにした。
だが、その三日後。
わたくしは思い知ることになる。
どれほど完璧に立ち回ろうとしても、物語というものは、予定通りには動いてくれないのだと。
そして何より。
壁になりたい令嬢ほど、なぜか目立つ場所に引きずり出されるのだと。




